第19話 雨の日曜日に会いましょう

 剣淵奏斗は怒っている。

 何に対して怒っているのかは剣淵自身もよくわかっていない。考えれば考えるほど、喉元を締め付けられるようにして酸素が足りなくなり、思考が停止してしまう。


 はじまりは体育祭だった。あの日に聞いてしまった言葉がどうにも頭を離れず、気分転換になるかと別のことをしてみても考えてしまうのだ。勉強も、趣味のランニングも。どれも身が入らず、苛立つばかり。


 それもこれも。三笠佳乃のせいである。佳乃に出会ったことから不運ははじまり、こうしていまも悩まされている。たまに放っておけなくて手を差し伸べてみたりするが、結局悩みごとが増えるだけなのだ。


「……クソッ、二人三脚やらせなきゃよかった」


 知らずのうちに力が入っていたのだろう、シャープペンの芯が集中力と共に折れてしまい、剣淵は心中の忌々しさを呟いた。


 体育祭から一週間。あの日から天候は悪く、今日もどんよりと重たい空に小雨がぱらついている。この悪天続きも剣淵の気分を沈ませているようだった。


 机の上に置いていたスマートフォンが鳴った。短い電子音は、着信ではなくメッセージの受信を報せるものだ。それにびくりと体を震わせ、咄嗟にスマートフォンを手に取る。この一瞬だけ苛立ちや悩みは忘れていた。


「『そろそろタマゴの賞味期限切れるんじゃない? あたしが届けてあげよっか』か。しらねーよ、んなもん」


 表示されたのは期待を裏切る内容だった。嘆息した後、スマートフォンを苛立ちのままにベッドに放り投げる。いったい何に期待をしてしまったのか。どんな連絡を求めていたのだろうか。天井を見上げながら自問自答をしてみれば、やはり思考が停止して、頭をかきむしりたい衝動にかられる。


 それでも、剣淵は深く息を吐いて考える。そもそも剣淵は恋愛をしたいと考えたことはない。年頃程度に異性に興味はあるが、それよりも夢中になりたいものがある。女性のことは後回しだ――と思っていたのだ、少なくとも浮島に言われるまでは。


 佳乃にキスをしてしまった理由はいくら考えてもわからず、三度の接触を経たいまでも事故や幻なのではないかと疑っているところがある。浮島が言った通り、佳乃のことが好きだからキスをしたのか、と考えてみたが、これはやはりわからない。考えようとしても思考が停止して苛々するだけである。

 だが三笠佳乃のことは嫌いではない。

 面倒なことに巻き込んでくるヤツだと思ってはいるが、そこそこ話ができる女子だ。普通の女子生徒なら軽蔑されてしまいそうな宇宙人だの呪いだのといったオカルト趣味も佳乃は顔色一つ変えずに聞いていた。


「……そんなヤツ、いなかったよな」


 気持ち悪い、と罵られることもなく。あっさりと受けとめていたのが印象に残っている。それは剣淵にとって意外で、しかし嬉しいことだった。



 伊達に二人三脚を誘われた時、互いの足を結んで走るなんて勘弁してくれと断ろうと思っていた。だがその時に浮かんだのは三笠佳乃のことである。伊達の誘いを承諾し、当日佳乃に変われば喜んでもらえるのではないかと思っていたのだ。


 剣淵が知る三笠佳乃はよく泣いている、もしくは驚いていたり困惑していたりととにかくいい表情ではない。だからたまには、こいつの笑顔が見れるのではないかと思ったのだ。


 体育祭の日。教室の窓から二人三脚を見ていた。二人が仲よさそうに話しているところも、佳乃が転ぶところも、伊達に抱き上げられて運んでいくところも、すべて。苛立ちはなかった。むしろ一歩目から転ぶ鈍さに苦笑し、これが究極の運動音痴というものかと学んだ程度だ。


 問題はその後である。あれほど派手に転んだのだから、もしかしたら怪我をしているのではないか。その考えに至った時、剣淵は立ち上がっていた。佳乃に二人三脚をさせたのは剣淵である。謝った方がいいかもしれない。責任を感じて、保健室に向かい――聞こえてしまったのだ。


『来週末、空いてるかな?』

『あ、空いてます!』

『前のデートの埋め合わせがしたいんだ』


 瞬間、ずきりと胸が痛んだ。時間や音は凍りついてしまったかのように消えて、遠くから甲高い耳鳴りが聞こえて頭を蝕んでいく。足元から這い上がった暗闇に包まれ、ひとりぼっちの空間に放たれていく感覚。そこは酸素もない孤独の場所だ、とにかく息苦しくて、苛立ちが沸く。



 剣淵が転校してきた日のことである。佳乃に呼び出されて階段踊り場で話していた時、あの男――伊達がやってきて剣淵に言ったのだ。


『二人の関係はわからないけど、女の子を泣かせる男はよくないと思うんだ。今日だけじゃない、昨日だってそうだ。君は突然やってきて三笠さんを泣かせた』


 そして伊達は剣淵に耳打ちをした。


『君に感謝しているよ』

『は? お前、いま何を――』


 その言葉に驚いて伊達を見れば、冷ややかな言葉が嘘のようにニコニコと笑顔を浮かべていて、これは聞き間違いなのだろうとその時は考えた。


「なんであいつ……気づかねーのかな」


 伊達は危険である。階段踊り場での言葉は聞き間違いではなく、うっかり触れてしまったあの男の本性だ。片思いをするような相手ではない。あれならばまだ浮島の方がマシだとさえ思える。


 伊達が、同性からみても男前な外見をしていることは認める。だが性格はどうだろう。上っ面だけは美しくみえるが、腹の底はどす黒く濁っているのではないか。それに気づくことなく騒ぐ女子たちに呆れるばかりだ。そこに佳乃も含まれているのだが。


「……二人三脚をあいつにやらせたのは、気づいてほしかった、のか?」


 その呟きは、思考を覆う分厚い雲にわずかな切れ間を作った。佳乃の笑顔が見たいだけでなく、伊達が危険な男であると知ってほしくて、わざと佳乃と伊達を近づけたのだ。自らがとった行動の理由に、剣淵は瞳を開く。


 一つの謎が解ければするすると、分厚い雲に光が差しこんで照らしていく。


「イライラすんのはあいつが気づかないからで、たぶん今日、あいつは――」


 剣淵は慌てて立ち上がり、先ほど放り投げたスマートフォンを掴む。

 日曜日、時刻は昼過ぎ。すべてが前回と一緒ならば、佳乃はいま駅前にいるのではないだろうか。


 ここまで考え込んでも、剣淵奏斗は怒っている。走りだしてしまえばもう止まらない。怒りが、剣淵の体を急かしているのだ。

 向かう先は駅前。そこに、きっとあいつがいる。



***


 剣淵が伊達を信じられなくなったのは、階段踊り場での出来事だけが理由ではない。


 それはいつだったかの日曜日、佳乃と伊達がデートをすることになった春の日だ。雨でずぶ濡れになった佳乃を放っておけなかったのは可哀相だからと哀れんだだけではない。助けなければならないと思ったのだ。


 剣淵が佳乃の姿を見つけた時、それよりも少し遠くで見つけてしまったのだ――こちらをじいと見つめている、伊達享の姿を。

 伊達は、噴水前のベンチを見渡せるコーヒーショップにいた。窓際の席に腰かけ、肩肘をついて余裕ぶった顔をしている。


 佳乃と待ち合わせをしているはずなのにどうして店内にいるのか。佳乃がこんな姿になってまで伊達を待っているのに、どうして声の一つもかけないのか。伊達が取る行動の理由はわからなかったが、佳乃を迎えにくることはないのだろうと察した。


 だから、助けなければならないと思った。傷つけられているのであろう佳乃を無視してしまえば、いつか後悔する。夏の記憶が浮かんで、剣淵は佳乃に手を差し伸べたのだ。


 それは正しい行動だったと思っている。あの日掴んだ佳乃の手はひどく冷えていた。それは雨だけが理由ではない、伊達を信じると言っていたが傷ついていたのだろう。だから助けてよかったのだ。



「……伊達!」


 息を切らして、駅前のコーヒーショップに着いた時。剣淵は自らの推理と勘が正しかったのだと確信した。前回と同じ席。噴水前のベンチがよく見える窓際の席に、伊達がいる。


 周囲が振り返るほど大きな声量で名を呼ぶと、伊達は振り返って眉をひそめた。


「また君か。よく会うね」

「てめぇ、白々しいこと言いやがって……」


 窓の向こうをちらりと見やれば、噴水前のベンチに佳乃がいた。傘をさしていたため雨に濡れてはいないだろうが、待ちきれなくなったのか濡れたベンチに座っている。いよいよ座るほどに待ち続けているのだろう。心細そうなその姿に、剣淵の怒りが煽られた。


「んなとこで何してんだ! さっさと三笠のところに行け!」

「うるさいなぁ。もう少し静かにしゃべってもらえないかな」


 怒鳴りつけても伊達は微動だにしない。紙カップに残ったコーヒーに飲み干し、呑気にしている。


「前回も今日も、てめぇから誘ったんだろ? なのにどうして行かねーんだよ」

「どうして……って言われてもね、」


 話すの面倒だ、とばかりに伊達がため息をつく。だが剣淵の迫力に圧されたのか、普段学校では聞かないような低い声色で続けた。


「これもデートなんだよ。僕はね、三笠さんが困ったり苦しんだりしている姿を見るのがとても好きなんだ」

「……んだよ、そりゃ」

「特にあの子の泣き顔が最高なんだ。不安にさせて傷つけて、もっといじめたくなる」


 くつくつと喉の奥で笑う伊達に、一瞬ほど剣淵は言葉を失った。危険な男だとわかっていたが、その目的がはっきりと語られれば慄いてしまう。


「今日のことも楽しみにしているって言っていたんだ。あんなにオシャレまでして、健気で可愛いね。いい子だからこそ、ずたずたになる姿が見たいんだ。君もわかるよね?」

「……わかんねーよ」

「残念だな。こうして何回も妨害するぐらいだから、剣淵くんも三笠さんのことが好きなんだと思ったのに」


 それは違う、と否定しようとしかけて飲みこむ。その間に、伊達が続けた。


「僕は君に感謝しているんだ。君はいつも三笠さんを困らせて、苦しめてくれるから。特に体育祭は感謝しているよ、狙い通りに三笠さんと代わってくれた」

「は……なんだよ、それ……俺が三笠と交代すると思ってたのか?」

「そうだよ。三笠さんを転ばせる。そして全校生徒の注目が集まる中で彼女を抱きかかえるんだ。僕はそれなりにモテるから、三笠さんは女子たちに妬まれるだろうね。どんな風にいじめられるのかな、すごく楽しみだよ」


 恍惚の笑みを浮かべて、ふふ、と怪しく笑う姿に、剣淵は顔をしかめた。

 悪趣味だ、と軽蔑をこめて伊達を睨みつける。佳乃を抱きかかえて保健室まで運んだのもすべて佳乃を傷つけるためだったのだ。


「さて。興がそがれちゃったし、移動しようかな。剣淵くんとデートしたくてここにきたわけじゃないんだよね」


 あーあ、と剣淵を責めるように呟いて、伊達が立ち上がる。

 これで佳乃のところへ行くのだろうか。訝しんで睨みつける剣淵に答えるように、伊達が言った。


「……僕は行かないよ。三笠さんのことが好きだから、傷つけてやりたくなるんだ」


 恋愛の経験なんてない。好きというものがどういうものかもわからず、浮島に言われたことに対して自分なりの答えを出せていない。


 それでも、伊達が語る『好き』は違うのではないかと剣淵は思った。

 この単語だけならば佳乃が聞けば泣いて喜ぶだろう。しかしその時、佳乃はどんな姿になっているだろうか。体中に傷をつくり、ボロボロになっているのではないか。どれだけ待たされても、雨に打たれても、佳乃は伊達を信じていた。


『ここで伊達くんを待つの。遅れているのはなにか理由があるからだよ』

『きっと何かあったんだと思う。私に連絡もできないような、ちょっと大変なこととか』


 そして剣淵が手を差し伸べた時、佳乃がこぼした本音も。覚えている。


『こんな風に今日を終えるつもりじゃなかったの、ずっと楽しみにしてきたのに……』


 あの日の冷えた指先が忘れられず、それは伊達が仕向けたことだったのだと気づいた瞬間。


 怒りが爆発した。


 剣淵を置いて店を出て行ってしまった伊達を追いかけ、宣言通りに佳乃がいる場所とは反対に進んでいこうとした肩を力強く引き寄せる。


 言いたいことは山ほどある。だがそれよりも先に体が動いていた。

 いま佳乃が味わっているだろう孤独や寂しさを握りしめ、振り返ろうとした伊達の頬にぶつけた。


「っざけんじゃねーぞ!」


 ごつ、と鈍い音が、拳から伝わってきた。渾身のストレートは伊達の頬に命中し、その反動で伊達が床に倒れこむ。


 女子に絶賛の綺麗な顔に傷がつくとか、佳乃が見たら悲しむとか。細かなことまで考えられない、とにかくこの男を殴って目をさましてやりたかった。


「あいつに謝れ! ずっとてめぇを待ってんだよ!」

「……急に殴るなんて、ひどすぎないかな」


 殴られた頬を手でさすりながら、しかし伊達はそこまで動じていない。それがまた剣淵の怒気を煽った。


「剣淵くんさ、勘違いしているよ。三笠さんが好きなのは僕なんだ、君じゃない」

「知ってるよんなもん」

「君は三笠さんのことが好きじゃないんだろう? そんな君に僕を止める権利はない」

「好きだの権利だの、うるせーな。俺はてめぇにムカついてる、それだけだ。あいつを傷つけんじゃねーよ」

「……ふふっ、君は三笠さんのことを全然知らないからそんなことを言えるんだ。三笠さんだって君を散々苦しめているのに。例えば彼女の秘密であるとか――」


 もう一発、殴らなければこの男には伝わらないだろう。


 服の襟を掴んで伊達を立ち上がらせると、再び拳を握りしめる。腕を大きく引き、再び殴ろうとした時だった。



 伊達が、笑った。


 近くにいるからこそわかる。わずかに口元があがり、伊達は笑っていたのだ。これから殴られるという時に笑うとは不気味なものである。咄嗟に剣淵の動きが止まった。


 そして気づく。伊達が見ているのは剣淵ではなく、その向こう側。


 背後に、誰かがいる。

 振り返るよりも早く、その人物が震えた声で呼んだ。


「剣淵……なに、してるの……」


 剣淵の背後にいるのだろう、三笠佳乃の声。それは、雨に打たれるよりも、腹立つ男を殴るよりも、鋭く突き刺さって剣淵を苦しめた。

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