第16話 合宿のシメは季節外れの、花火!

 夜の薄暗い廊下を駆け抜けていく。のんびり歩いていけば、剣淵が他の場所に移動してしまうかもしれないと走った。

 向かうのは、体育館と逆の方向。行事協力生徒の控室となっている二年生の教室だ。


 廊下に響くのは佳乃の足音だけ、生徒たちはみな体育館に移動して、生徒会の劇がはじまるのを待っている頃だろう。

 演劇を見たい気持ちはもちろんあるのだが、それよりも剣淵のことが気になっていた。今日を逃してしまえばお礼を言うどころか話す機会もないかもしれない。その思いが佳乃を焦らせる。


 二年A組の教室に入ると、剣淵がいた。今日のために教室内の机は端によせられ、広くなった教室の中央で、床に寝転がっている。

 扉に背を向ける形で横向きに寝転がっているため、佳乃の位置から表情はわからない。教室が暗いこともあり、起きているのか寝ているのかの判断もつかなかった。だが佳乃がきたことに気づいていないのだろう。


 優しく声をかけようかと迷った佳乃だったが、その無防備な背に意地悪な気持ちが生じて深く息を吸い込む。


「剣淵、起きろ!」


 佳乃が叫んだ瞬間、びくりと剣淵が飛び起きる。そして慌てて振り返ったその顔は普段の不機嫌な表情と異なり、驚きに目を丸くしていた。


「……っ、お前か。びっくりさせんじゃねーよ」

「ごめんごめん。驚かせようと思いまして」


 作戦成功、と笑いながら佳乃が教室に入ると、剣淵が嫌そうに顔を歪める。


「何の用だ。お前が来るのはこっちじゃねーだろ、体育館行けよ」

「剣淵に話したいことがあってきたの」


 隣まで近くよれば剣淵が離れてしまう気がして、距離をとった位置に座る。狭く暗い教室で向き合っているのは恥ずかしいので窓の外を見ながら、佳乃は言った。


「助けを呼びにいってくれて、ありがと」

「なんのことだよ、知らねーな」

「剣淵が伊達くんを呼びにいったって聞いたから、ちゃんとお礼を伝えたかったの。助けてくれてありがとう。感謝してます」


 剣淵はどんな反応をしているだろうかと気になって、ちらりと視線だけを動かしてみれば、薄暗い教室に隠れていたけども、照れくさそうにしている気がした。頬をかき、返答に困っているようだ。


 佳乃たちがいる教室の窓からは、校庭と体育館が見える。演劇がはじまる前だったのか体育館に明かりが灯っていたが、それがぷつりと消えた。


「演劇、はじまったみたい」

「行かなくていいのか?」

「うーん……ちょっと迷ってる。伊達くんの格好いい姿は見たいけど、でもなんか疲れちゃった」


 雑用のためにどたばた走り回って、教室に閉じ込められて、浮島に迫られて緊張して。そんな一日だったのだ、体育館の明かりが消えたと共に忘れていた疲労が戻ってくる。


 ごろりと床に寝ころべば、制服越しに伝わるひやりと冷たい床の温度が気持ちいい。そんな佳乃の様子を見て、剣淵が呆れたように笑った。


「何のために合宿手伝ってんだよ。たかがお礼のために演劇見逃したとか、お前はバカか」

「なにそれ。バカ剣淵に言われたくないんだけど」


 佳乃が飛び起きて言うと、すかさず剣淵も言い返す。


「お前の成績、下の方だろ? そんなやつにバカって言われたくねーな」

「勉強はどうでもいいの! それよりも来客にお湯だすヤツの方がバカ」

「お前なあ……」


 言い争いをしている間に自然と二人の視線が重なっていた。互いに見合っていたことに気づき、二人して黙り込む。

 だが、気まずさはなかった。気の休まるような、心地のよい無言である。

 そう感じているのは佳乃だけではないのだろう。剣淵も普段の険しい表情が崩れ、柔らかく微笑んでいるようだった。



「演劇終わったら、次はなにやるんだっけ?」

「花火だとよ。校庭でやるんだろ」

「うわー。伊達くんと一緒に見たかった!」


 演劇を見に行っていたら、もしかすると伊達と一緒に花火を見ることができたのかもしれない。だが演劇がはじまってしまえば体育館に入ることはできない。

 いまになってこの選択を悔やむ。体育館まで行けばよかったのだ。

 後悔し叫ぶ佳乃を見るなり、剣淵は「お前、ほんとバカだな」と吹き出して笑った。


「変なとこ抜けてるっていうか、なんかずれてんだよなお前。だから体育館行けって言ったじゃねーか」

「花火のこと忘れてたの。そこまで笑わなくてもいいじゃない」

「ま、諦めるしかねーな。花火ぐらいここからでも見えるだろ」


 確かにこの教室なら花火が見えるかもしれない。一緒にいる相手が剣淵というのが残念だが、いまさら伊達を追いかけることもできず、諦めた。


「……変なの」


 剣淵と一緒に花火を見るのか、と改めて考えていたところで佳乃は自嘲気味に呟く。すると窓に視線を移していた剣淵が意味を問うように振り返った。


「最近ずっとしゃべってなくて、合宿でも目は合わせない言葉も交わさない。無視してきたやつと二人で花火見てる、ってなんだかおかしいよね」

「ああ、それは――」

「理由は、三回目の……アレ、でしょ?」

「それもある。お前に近づいたらまたおかしなことしちまうんじゃねーかって怖い」

「他にもあるの?」


 そこで剣淵はなにかを言いかけようと口を開いたのだが、それ以上の言葉を紡ごうとしなかった。俯いて、手で顔を覆い隠す。その仕草から三回目のキスよりも剣淵を悩ませるものがあるのだろうと佳乃は察した。


「それって私に関係ある悩み?」


 だからこの場で言えなかったのではないか。だとするなら、佳乃で解決できることならば助けてあげたいと思った。雨の日曜日、それに今日と続けて剣淵に助けてもらっている。恩を返したい気持ちから好奇心をぶつけてみたのだが、なかなか剣淵は答えてはくれなかった。しばらく待ってようやく、か細い声で返ってくる。


「……気にすんな。浮島さんに変なことを言われただけだ」


 浮島ならば、剣淵を悩ませる発言をしていそうだ、と納得して佳乃は頷く。


「剣淵、からかわれてるもんねぇ。浮島先輩のお気に入りじゃない?」

「勘弁してくれ」


 吐き捨てるようにして言うと、剣淵は顔をあげた。そこに先ほどの悩みは残っていないようだったが、わずかな憂鬱はあった。解決というより、忘れたふりをしたのだろう。

 そしてちらりと佳乃に視線を移し、別の話を持ち出した。


「もうすぐ体育祭だろ。お前、どの種目にでるんだ?」


 話題は来月行われる体育祭である。ビッグイベントなのだが、佳乃にとっては気が重い日だ。

 この学校では紅白戦を採用しており、クラスを二つにわけて紅組と白組に振り分けている。佳乃と剣淵は紅組だ。

 種目はいくつもあり、学年選抜リレーや全員参加の競技以外は自ら参加を選ぶことができる。佳乃からすれば自由参加の競技はすべてお断りしたいところだが、最低でも一つは選ばなければならず、渋々選んだのが――


「……パン食い競走」


 これならばぶっちぎりの最下位になったとしても、景品のあんぱんが手に入るのだから少しは気分が楽になるのではないかと思ったのだ。

 佳乃が答えると、剣淵は目を丸くして首を傾げた。


「は? それしかでねーの?」

「あとは……日光浴担当です」


 本音をいえば、リレーだとか二人三脚だとかのいかにも体育祭らしい競技に憧れている。だがリレーは学年選抜のため、学年で足が速い生徒四名しか選ばれることができず、もちろん佳乃は選外だ。

 二人三脚もこの学校では性別問わずペアさえ組めば参加できるのだが、運動神経の悪い佳乃にペアの誘いがかかることはない。自ら誘うことも、相手に申し訳ないと思ってできずにいた。


「っ、はは、なんだよそれ!」


 日光浴の単語から佳乃はパン食い競走以外に出場しないのだと気づいたらしく、剣淵は笑いだした。ツボに入ったのかケタケタと声をあげ、顔をくしゃくしゃに歪めて豪快に笑っている。


「仕方ないでしょ。運動苦手なの。あんたとは違うんだから」

「悪い悪い、んな怒るなって」


 そのパン食い競走の最下位になるだろう佳乃と違って、運動神経の良い剣淵は各種目に出てくれと頼まれるほどの人気っぷりだ。花形競技の学年選抜リレーでは陸上部を差し置いて剣淵が選ばれた上に、学年で最も足が速いからと二年生レースのアンカーを担当することが決まった。そんな剣淵ならば佳乃よりも体育祭を楽しめるのだろう、泣きたくなるほど羨ましい。


 ふてくされた佳乃が剣淵を睨みつけていると、ごまかすように咳払いをして、それから言った。


「日光浴してるなら問題ねーだろうけど。当日、昼食休憩の後、空けておけ」

「どうして?」


 佳乃が聞き返すと、剣淵は首を傾げて「さあな」ととぼけた。その口元がかすかに緩んでいることから、昼食休憩後の話は佳乃にとってそこまで悪いものではないのかもしれない。



 もうすぐ劇が終わるだろうか。劇が終われば体育館に明かりが点き、生徒たちが校庭に出て花火がはじまる予定だ。まだ体育館が暗いことから劇は終わっていないようだが、時間的にはそろそろだろう。


 こうして剣淵と二人で話しているのもあと少しなのかもしれない。普段こうして向き合って話すことがなく、ゆったりと流れるこの時間は希少なものである。まもなく終わるのかと思うと寂しい気がした。


「日曜日のこと、だけど」

「あ?」

「あの日なんで、駅前にきたの?」


 黙ったまま終えてしまうのが嫌で、なにか話題はないかと思ったのだ。そこで浮かんだのが日曜日のことだった。


「特に理由はねぇよ。ランニングついでに買い物行こうとして、そこで見かけただけだ」

「普段から走ってるの?」

「まーな。体動かしてりゃ嫌なこと忘れられっから」

「それなら陸上部に入ればよかったのに。あんなに足速いのに、もったいないよ」


 よく陸上部の生徒から入部スカウトをされている姿を見るが、なぜか剣淵は断っていた。陸上部だけでなく、どの部活に対しても同じである。頑なに断り続け、転校してきてから今日まで帰宅部のままだ。なぜ部活に入らないのだろうと疑問に思っていた。どのスポーツでも活躍できるだろうに。


 今日も、佳乃の言葉に対して剣淵は首を横に振った。部活に入らないのだと固い決意が窓に向けられたまなざしに宿っている。


「俺は、確かめたいことがある。だから部活にかける時間はねぇんだ」


 部活に入らない理由として返ってきたのは、意外なものだった。


「そのために転校してきたし、そのために一人暮らしもした。大学に進むまでのこの時間が、ラストチャンスなんだ」


 その『確かめたいこと』というのが気になって、剣淵から視線を外せない。窓から見える校庭や体育館よりもずっと遠く、佳乃にはわからないものを剣淵は見ているのだろう。それを眉根を寄せて睨みつけながら、剣淵は続けた。


「走ったり体鍛えたりすんのは『後悔したくないから』だ。同じことが起こった時、今度は助けられるように逃げ足だけは速くなってやろうって思ってな」

「後悔するような出来事が、あったの?」

「まあな――その時のことを確かめたいんだ。だから部活なんてやるヒマはねーんだよ」


 まっすぐ、だと思った。ここにいなければ知ることがなかっただろう剣淵が隠していたもの。それはまっすぐ伸びてきらきらと輝く、けれど情熱を秘めているのだ。呪いと片思い。そればかり考えていた佳乃には剣淵の求めるものが眩しく思えた。


「おい。劇が終わったぞ」


 その声に呼ばれて外を見れば、体育館に光が点いていた。ついに伊達の姿を見ることができないまま、劇は終わってしまったのだ。

 生徒たちはぞろぞろと校庭に出てくる。目当てにしている花火が終われば生徒たちは各教室に戻ってきて就寝の準備をする。そして朝になれば解散だ。つまりこの花火が合宿のラストイベントでもある。


 もうすぐ、剣淵との時間も終わるのだ。

 肉体的な距離は何度も近くまで迫ったのだが、今日ははじめて心が近づいた気がする。触れることのできた真意はほんのり温かく、教えてもらえたことが嬉しくて、この時間が名残惜しいと思った。


「あの、さ」


 花火を待っているのだろう剣淵に声をかける。

 照れや恥ずかしさはなく、あるのは居心地のよさだけ。それは菜乃花と共にいる時の感情によく似ている。出会いがキスでなければ今頃は友達になっていたのかもしれない。


「話してくれてありがと」


 佳乃が言い終えると、外では花火のカウントダウンがはじまったらしく、かすかに声が聞こえてきた。


 十から減っていく数字。もうすぐこの教室も花火に支配されて、ゆるやかな時間は終わってしまうのだろう。

 向き合って話せる時間なんて珍しいのだから、気の利いたことを一つでも言えばいい。わかっているのに、寂しさが生みだす切なさで締めつけられて言葉が浮かんでこない。



 佳乃、そして剣淵も。縛りつけられたように動けず、声も出せず。

 そして、カウントゼロになると同時に、夜空に色鮮やかな花が咲いた。暗闇を晴らすように花火が打ちあがり、見る者の心を明るく染めていく。

 この時間も、花火も。きっと忘れることができないのだと佳乃は思った。その表情は合宿前に比べれば明るく、すっきりとしたものに変わっていた。


 花火の後に残るもの――火薬の匂いと視界を妨げる煙。それは衣服や身体に纏わりついて残り、花火の興奮から醒めてようやく気づくのだ。落とすには洗い流すしかない。例えば、六月の雨であるとか。

 一年生合宿の後にやってくるもの――爽やかに吹き抜けていく風に湿度が混ざる六月、それから体育祭。

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