第10話 こんなはずじゃない日曜日

 憧れの伊達とデートすることになったのだから、呪いも浮島も剣淵も、すべての出来事は良きものに繋がっているのかもしれないと思った。


 スマートフォンには伊達の連絡先。チャット画面には、デートの予定が書かれている。

 買い出し、最高! 浮島作戦も一年生合宿もありがとう! あらゆるものに感謝をしてしまうほど佳乃は浮かれていた。


 日曜日になったら、駅前の噴水で伊達と待ち合わせをし、駅前のお店をはしごして一年生合宿に必要なものを購入する。途中で昼食も食べることになるかもしれない。駅前にはオシャレなカフェが多く、どこの店に行くだろうと想像すれば、自然と頬が緩んだ。



 そして決戦の日である。

 前日買ったばかりのブラウスに、クリーニングから返ってきて綺麗なプリーツスカート。髪だって普段の倍時間かけてセットし、かばんや靴といった小物までしっかりと選んだ。


「ねーちゃん、出かけんの?」


 洗面所に立って鏡とにらめっこしている佳乃に声をかけたのは弟である。休みの日だからと遅くまで寝ていたらしく、まだパジャマのままだ。


「うん。ちょっと出かけてくるね」

「すげー気合入ってる。もしかして男?」


 六つ離れて現在小学生の弟だが、姉がいるからかませたところがある。小学生とは思えぬ鋭さに冷や汗をかきつつ「まあね」と正直に答えると、弟は顔をしかめた。


「うわ。ねーちゃんに彼氏かよ……大雨でも降るんじゃね?」

「ちょっと、どういう意味よ」


 生意気を言う弟に呆れ、洗面所を出ていこうとした佳乃だったが、ふと弟の誕生日を思い出して立ち止まった。


「……あんた、今年で十一歳だっけ?」

「そうだよ、夏になったらレベルアップ。んで今年はなにを買ってくれんの? 俺、新しいゲームほしいんだけど」

「それはお母さんに言って。私の予算じゃ無理」


 弟の要求を冷たく跳ねのけて、今度こそ佳乃は洗面所を出ていく。弟と誕生日の話をしたこともあり、心にかすかなもやがかかっていた。


 弟の誕生日は夏休みのど真ん中にある。佳乃が考え込んでしまうのは、弟の誕生日そして年数が佳乃にとって特別な意味を持っていたからだ。あまり思い出したくない嫌な記憶。弟が一つ年齢を重ねるたびに、呪いと付き合ってきた年数も一つ増える。


 夏がくれば、この煩わしい呪いにかかってから十一年になる。振り返って洗面所に残る弟の姿を見れば、その背はすっかり大きくなっていた。


***


 家を出て、待ち合わせ場所の駅前の噴水近くに向かう。

 予定よりも早く着きすぎてしまい、あたりを見渡しても伊達の姿はなかった。噴水近くのベンチに腰かけて、伊達がくるのを待つ。


 楽しみで昨晩はあまり眠れなかった。布団に入っても頭は冴えていて、目をつぶろうがデートのことばかり考えてしまう。待ち遠しかった今日がやってきて嬉しいのだがそわそわとして落ち着かない。


 駅前を通り過ぎていく人たちを眺め、それが伊達と年齢の近い男であれば、その服を伊達に着せる想像をする。カップルが通り過ぎれば、それを伊達と佳乃に置き換えてみたりもした。カップルたちはどちらも幸せそうで、二人の時間を楽しんでいるのだと伝わってくる。


 伊達は――どう思っているのだろうか。佳乃は今日を楽しみにしてきた、伊達もそうであればいいと思う。


 このデートを言いだしたのは伊達であるし、照れながら『これってデートみたいだね』と言ったのが忘れられない。もしも佳乃のことが好きでなかったら、デートとは言わないだろう。浮かれすぎておかしくなっているのかもしれないが、佳乃はほんの少しだけ期待していた。

 もしかすると伊達も佳乃のことが好きなのかもしれない。だとすれば二人は両片思いであって、今日のデートで関係が進展するかもしれない。たとえば伊達に告白されるとか。そこまでを想像して佳乃は手で顔を覆った。これが家だったらクッションを抱きしめて床を転げまわっていただろう。外なのでにやついた顔を隠す程度に留めておく。



 そろそろ待ち合わせの時間だろうか。佳乃が時計を確認すると、既に待ち合わせ時刻を過ぎていた。だがあたりを見渡しても伊達はいない。

 遅刻もしくは待ち合わせ場所を間違えているだろうか。念のため、伊達に連絡を入れておく。


 今日、買い出す理由となった一年生合宿は今月の最終週に行われる行事だ。親睦会ということで一年生徒のみ金曜の夜から土曜にかけて学校で一泊することになっている。佳乃も去年体験したが、生徒会役員による劇やかくし芸などの出し物があり、とても楽しい行事だった。


 本来ならば二、三年生は参加しないのだが、生徒会役員やその手伝いをする生徒は別である。伊達は今年は生徒会側としてこの行事に参加するのだろう。


 伊達が演劇をするとしたら――と想像して時間を潰していたが、やはり伊達はこない。待ち続けて三十分が経過しずっと外にいるのだ、五月の風が少しずつ体を冷やしていく。


 ベンチからは駅前のコーヒーショップが見えていた。伊達と合流できたらまずは温かいものが飲みたい。寒さにかじかんだ鼻をすすりながら、温かいコーヒーがあるのだろう店を羨ましげに見つめる佳乃だった。


***


 その頃。剣淵奏斗は休日を満喫していた。満喫といっても明るいものではなく、一通りの家事を終えた後はひたすら机に向かって勉強していたのだが。


 一心不乱に勉強していたため、指にペンの跡がついていた。その痛みで我に返った剣淵は背伸びをした。学校で見せることのない黒縁の眼鏡を外して、目の周囲の凝り固まった筋肉を指で揉む。


 時刻は昼を過ぎていたのだが、部屋の中が薄暗い。洗濯物を干した時、肌寒さと湿度を感じたことを思い出して剣淵は立ち上がった。雨が降る前に室内に入れておいた方がいいだろう。


「風邪、ひきそうだな」


 窓を開けて入り込む風の冷たさにひとり言を呟く。五月だというのに今日は寒い。日課のランニングもまだしていないし、買い物だってあるというのに。


「本格的に降る前に行くか」


 毎月買っている雑誌と食料品。ランニングついでに買いにいけばいい。洗濯物を室内に移し終えた後、剣淵は家を出た。



 家を出た時はぽつぽつと降る程度の雨だったが、数分ほど走ったところで本降りとなった。雨粒は大きく、ランニング用のパーカーに雨が染みこんで重たくなっていく。洗濯物を室内に移す判断は正しかったが、傘を持たずに出かけたのは間違いだったのかもしれない。


 アップバングにセットした髪は崩れて前髪が額にはりつき、毛先を伝って雨が頬を流れ落ちた。その流れ落ちていく雨が肌から温度を奪って妙に生暖かく、涙に似ている。


 そういえば、と思いだした。涙から連想して浮かんだのは、忌々しい学生生活。離れようとしても関わってきて学生生活をかき乱していく、三笠佳乃のことだった。

 剣淵としてはあの浮島作戦は忘れたいところである。男と唇を重ねたなんて認めたくない、人生の汚点だ。それに前歯がぶつかった時の、肌が粟立つほど気持ち悪い音は最悪だった。黒板に爪を立てるよりも嫌なものである。あの歯の表面が削られるような音は二度と聞きたくない。


 浮島作戦によって剣淵はプライドなどの様々なものを失った気がしたが、三笠佳乃は違っていたらしい。あれから浮ついていて、授業中でさえも顔がにやけている。好きな奴とデートをしただけであれほど幸せオーラを纏うものなのかと初めて知った。


「ま、俺には関係ねーけど」


 ひとり言は雨音にかき消された。どうせそろそろデートだろう、それで伊達と付き合えばいい。そうすれば剣淵も解放されるはずだ。


 目的地である本屋は駅前を通り過ぎたところにあるのだが、ランニングのことばかり考えて傘を持たずに出てきた剣淵はずぶ濡れになっていた。この状態で本屋に入る気にはなれない。

 一度家に戻って着替えてこよう。その決断を下したのは駅前でのことだった。

 そして振り返った時である。


「……は?」


 雨が降って人も減った駅前、色とりどりの傘が通り過ぎていく中で、傘もささずにぽつんとベンチに座っている人がいた。それは一度見てしまえば目が離せない。雨に打たれ寂し気に俯く人物は先ほどまで思い浮かべていた者――三笠佳乃だ。


 頭の奥で、これ以上踏み込んではいけないと警鐘が鳴った。関わったら面倒なことになる。相手は三笠佳乃なのだから。雨に打たれていようが、どんな表情をしていようが知ったことではない。それに、佳乃は剣淵のことが嫌いだと言っていた。剣淵も佳乃にいい印象を抱いていない。厄介ごとを持ち込んでくるこの女が隣の席に座っていることすら嫌である。だから見ないふりをするのがお互いのためになるのだ。


 なのに、佳乃から視線が動かせない。ここで見て見ぬふりをすればいつか後悔するのではないかと剣淵を責めていた。夏の香りを纏った古い記憶が疼いて止まない。


 雨が、決断を急かした。体に当たる雨粒の痛みも忘れてしまうほど剣淵は考え、それから一歩踏みだす。


 向かう先は駅前の噴水。剣淵は疎ましい雨粒に持ち前の脚力を見せつけるように、ベンチへと走っていった。


***


 大雨になる。冗談として言ったのだろう弟の言葉がまさか本当になるとは思っていなかった。

 伊達を待ち続けて二時間が経っていた。時計と体感時間は異なり、雨が降り始めたのがずっと昔のことだった気さえしてしまう。空腹感さえまったくわからず、勢いを増した雨と寒さに震えている間にどこかへ消えてしまったのだろう。

 何度か連絡もしたが、電話をかけても繋がらずチャットも未読のままである。佳乃が知る伊達は真面目で律儀な男だ、約束を忘れたなんてことはないだろう。連絡がつかないのだって、スマートフォンの充電がなくなったとか連絡が取れないような重大な出来事に巻き込まれたのかもしれない。


 とても、寒い。冷え切った体が震えている。待ち続けて疲れた頭はうつろになっていて、冷静に物事を考える力は残っていない。

 早くきてほしい、安心させてほしい。伊達の姿を思い浮かべて心中で呼びかけていると、声が聞こえた。


「三笠!」


 ぱしゃ、と水たまりを踏む音がする。泥水が跳ねようがお構いなしにこちらへ駆けてくる人物。佳乃が顔をあげるとそこにいたのは――


「え……? なんで、ここに……」


 伊達ではない、予想外の男がいた。

 剣淵奏斗。それは今日ここにくるはずではない者。佳乃と同じように服はずぶ濡れで、顔にべったりとはりついた髪。この雨の中走ってきたらしく息があがっていた。


「な、な、なんで剣淵が……」

「うるせー。そんなん後だ」


 呆然としている佳乃の言葉を荒い口調で遮ると、剣淵は佳乃の手を掴んだ。

 剣淵の手は燃えるように熱い。それほど佳乃の手がかなり冷たくなっていたのだ。火傷しそうな熱さだったが心地よさもあり、手を掴まれても抵抗はしなかった。


「行くぞ」


 佳乃の手を引いて歩き出そうとする剣淵を慌てて止める。


「ちょ、ちょっと待ってよ。行くってどこへ!?」

「ここにいても風邪引くだけだろ。家に帰れ」

「だめ! まだ伊達くんきていないし、それに……」


 伊達の名がでたところで剣淵が苛立たし気に眉根を寄せた。佳乃に向けられた視線は「やはり伊達か」とうんざりしているようだった。


「デートだか何だかしらねーけど。そんなずぶ濡れの恰好でどこ出かけんだよ」

「う……」

「いいから来い」


 まだ伊達を待つと渋る佳乃だったが、剣淵も負けじと手を掴んだままで、それどころかぐいぐいと強く引いて、ベンチからはがそうとしてくるのだ。


 普段ならば抵抗もできたのだが、雨に打たれた体に力はなく剣淵に引っ張られるまま佳乃は立ち上がる。


 それがきっかけとなって、無視し続けていた寂しい感情の防波堤が壊れた。

 一人待ち続けていた孤独、寂しさ。あらゆるものを詰め込んで放置してきたのだ、壊れてしまえば想像以上の物量が漏れていく。


「私、行かないっ! ここで伊達くんを待つの。遅れているのはなにか理由があるからだよ。こんな風に今日を終えるつもりじゃなかったの、ずっと楽しみにしてきたのにこんな……こんな……」


 待ち続けているのは、とても辛かった。十分は経っただろうと時刻を確認すれば数分も経過しておらず時間の経過を長く感じ、通り過ぎていく人たちの楽しそうな姿に羨ましいとさえ思っていた。


 負の感情は伊達がくれば消えるはずだったのだ。だから、どんなに辛くても待っていたというのに。


 今日はじめて、雨が降っていてよかったと思った。俯いた佳乃の瞳から、雨よりも熱いものが落ちていく。今日が晴れていたのなら剣淵に気づかれてしまっただろう。

 数時間ぶりに人と会話することが、こんなにも嬉しくて、温かいと思うなんて。この涙は伊達がこない切なさと、人と言葉を交わした喜びによるものだ。


「お前の事情はしらねーよ」


 剣淵が答えた。突き放すようにそっけない、冷えた言葉で。


「んなとこで待ちぼうけして風邪ひいてるヤツなんか見たくねーんだよ。だからお前を連れていく、それだけだ」

「はあ!? なにそれ」

「恨むなら俺を恨め。俺のせいで伊達と会うことができなかったと説明すりゃいい――とにかく行くぞ、俺まで風邪ひいちまう」


 剣淵が佳乃の手を離さずに歩き出してしまったものだから、そのままついていくしかない。数歩ほどベンチから離れたところで佳乃が聞いた。


「ねえ! どこに行くの?」


 すると剣淵は振り返らずに答えた。地面に叩きつく雨粒もかきけすほどの大きな声で。


「俺の家だ」

「はあ!?」

「ここから近いんだよ。その服も乾かしてやるから、さっさとこい」


 楽しみだった伊達とデートはどこかへ消えてしまい、その代わりにやってきたのが剣淵のお宅訪問である。


 不安だらけだ。困惑し目を丸くしている佳乃は、ひきずられるようにして剣淵の家に向かうことになった。

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