第31話 きもちの変化
剣淵と話していた時には承諾してしまったが、果たして同席していいものか。菜乃花との通話後、佳乃は新たな悩みを抱えていた。
それでなくても兄弟の大事な話し合いの場である。部外者の佳乃が同席し、その話を聞いてしまうのは気が引ける。剣淵の力になれるのならと頷いてしまったが、早まったことをしてしまったのかもしれない。
さて学校はというと、変わらずこそこそとした嫌がらせが続き、夏休みが終われば落ち着くと思っていたが、二学期がはじまっても数日置きに黒板の落書きがある。忘れた頃にやってくるので予防もできない。
唯一の救いは理解者が増えたことだった。落書きを消そうとすると、どういうわけかクラスメイトの女子たちが手伝ってくれるようになった。一人が増えればまた一人と増え、まるで自分が嫌がらせの犯人ではないとアピールするように人数が増えていく。
「きっと、他のクラスの子なんだろうなぁ」
ごみ箱を抱えながら佳乃が呆れ息をついた。今日は佳乃が日直なことを狙ったのか、ごみの量が普段の倍に増えて箱から溢れかえり、放課後のごみ捨て業務も二往復確定の状況となっていた。
このクラスでの日直は座席によって決まる。隣の席である剣淵も日直なのだが、こちらは職員室に呼ばれていった。どうやら明日配布するプリントの用意らしい。大量のごみ山を見た剣淵は佳乃を気にかけていたが、あまり関わってはいけないと思い、手伝いの申し出は断った。
このくだらない嫌がらせ。どうやらこのクラスの女子たちに犯人はいないようだと佳乃も気づいていた。落書きをしている生徒を見つけたら報告をすると申し出た子がいたが、その報告は一向にあがってこない。
平穏な学業のために嫌がらせも止んでほしいところである。犯人を見つけるか、もしくは犯人に諦めてほしいのだが――考えれば考えるほど憂鬱な気持ちになっていく。佳乃の周りに面倒事が多すぎるのだ。
「あらあら。すっごいごみの量ね」
その声に顔をあげれば、蘭香がいた。どうやら保健室に戻る途中だったらしい蘭香は、佳乃が抱えたごみ箱を見て苦笑した。
「ごみ処理タヌキちゃん、ってあだ名つけられるわよ」
「そのあだ名は勘弁してほしいです……」
蘭香は佳乃の隣を歩く。佳乃が向かう場所と蘭香の行き先だろう保健室は同じ方向だった。そして数歩ほど進んだところで、佳乃にだけ聞こえる小さな声量で言う。
「史鷹から聞いたわ。説得してくれて、ありがとう」
説得というほどのことはしていないが、訂正するのも面倒で佳乃は頷く。
「あの人ね、ずっと剣淵くんに会いたかったのよ。お姉さんの方とは連絡をとっていたみたいだけど、剣淵くんは拒否していたから。引っ越す前に会うことが決まって喜んでいたわ」
ちらりと隣を伺えば、蘭香は柔らかく微笑み、前を向いていた。佳乃や菜乃花の知らないものを知っているかのようにまっすぐな瞳だった。
「オカルト趣味もね、全部弟のためだったの」
「剣淵がUFOを探していたからですか?」
「ええ。お姉さんから聞いていたんでしょうね。弟が夢中になって探していることの手伝いがしたかったのかもしれないわ。次第にのめりこんで、ライターのお仕事まではじめてしまったけど」
くす、と蘭香が笑う。
「不思議なものよ。いつか手伝いができるようにとはじめた趣味が、本当に弟の手伝いになっているんだもの」
蘭香が言っていた『知り合いに詳しい人がいる』というのは八雲のことだと、いまではわかる。奇妙なつながり方をしたものだと佳乃も頷いた。
「蘭香さん。婚約おめでとうございます」
「あら。ありがとう。改めて言われると照れるわね」
「……でももっと早く教えてほしかったですけど」
「拗ねないの。実家に戻ってくる時、佳乃ちゃんにも連絡するから、また面白い呪い話を聞かせてちょうだい」
唇を尖らせている佳乃に微笑み、肩をつつく。だが柔らかな雰囲気を纏っていた蘭香の表情は一転し、普段よりも沈んだものとなった。
「ごめんなさいね……菜乃花のことがあるから、言えなかったの」
「菜乃花と仲が悪いんですか?」
「そんなことはないの。少し距離を開けた方がいいと思っただけよ」
放課後の廊下に、こつこつと靴音が響く。二人しかいない静けさの中で、再び蘭香が口を開いた。それは佳乃の想像していた通り、八雲の名が混ざったものだった。
「史鷹と会ったのは大学生の頃なの。二つ年下の後輩でね、最初は相手にしていなかったけれど、何度も話すうちに私も史鷹のことが気になって、付き合いはじめたの。結婚する気はなかったし、仕事も続ける気だったけれど――」
そう言って蘭香がうつむく。あまり見たことのない、蘭香の弱い姿だった。
「その頃は実家に住んでいたから、史鷹がよく遊びにきていたわ。菜乃花にも紹介したの。でもそれが――菜乃花を傷つけてしまった」
「……菜乃花は、八雲さんが好きなんですね」
「ええ。あの子からそれを聞いたことはないけれど、姉だからわかるの」
仮説が確信へと変わる。知らない間に、菜乃花が失恋の傷を抱えていたのだと知って後悔してしまう。
「史鷹にとって菜乃花は好意の対象じゃない。このままだと叶わない恋に菜乃花が傷ついていくだけ。私はどちらのことも好きだから、選んだの」
「結婚をして、菜乃花から遠く離れるように……ですか?」
「それもあるわ。あと私のためでもある」
「蘭香さんのため?」
「たとえ妹でも史鷹を奪われたくない。そうなってしまったら菜乃花を嫌ってしまうわ。これが一番の理由かもね」
奪われたくない。そこまで思うほど、蘭香は八雲のことが好きなのだ。それを聞いて、佳乃は考えてしまう。いま抱いている伊達への好意は、そこまで強いものだろうか。奪われたくないなんて思ってしまうほど、伊達のことが好きだろうか。
「長々と話してごめんなさいね。ここまで巻きこんでしまったから、ちゃんと話しておきたかったの――あら?」
階段を通り過ぎようとした時、蘭香は足を止めた。上階から近づく足音に見上げれば、現れたのは剣淵だった。
「こっちの仕事終わったから、手伝う」
「ありがとう! 助かるよ」
剣淵は廊下を走ってきたのか息を切らせていた。佳乃を手伝うために、プリント整理を早々に終わらせてきたのだろう。その姿に蘭香がくすくすと笑う。
蘭香がいたことに気づいたのか一瞬ほど剣淵は不快そうに顔を歪めたが、すぐに佳乃に向き直る。
「行くぞ」
「でも蘭香さんとの話が……」
「私のことは気にしないで。ちょうど話も終わったところだから」
剣淵は蘭香に対し何も言わず、背を向けて歩き出す。それを引き止めるように蘭香が「剣淵くん」と呼んだ。
「二週間後、よろしくね」
剣淵は振り返らない。蘭香もそれ以上声をかけなかった。
***
二人は目的地に着く。一階階段奥にある用具倉庫前にある大きな箱には、各クラスで出たごみをまとめている。その中に持ってきたごみを放り込むと、剣淵は額の汗を拭った。
「しかし、俺らのクラスはなんつーごみを出してんだよ。石入ってんぞ」
「そりゃ嫌がらせだからね……この石、どこから拾ってきたんだろうね」
「くだらねぇ。お前もこれ重たかっただろ、もっと早くきてやればよかった」
蘭香に声をかけなかったことから機嫌が悪いのかと思っていたが、そこまで怒ってはいなさそうだ。その観察のためにじっと剣淵を見上げていると、視線に気づいたのか顔を背けて眉を寄せる。
「嫌がらせされたらすぐに言え。相談しろ――って、なんだよ。人のことじろじろ見やがって」
「さっき蘭香さんに会ったから心配したんだけど、あんまり機嫌悪くなさそうだなーって観察」
「観察すんな」
そう言って、剣淵は佳乃の頭をこつんと軽く叩いた。
「痛っ! でもほら、蘭香さんに何も言わなかったでしょ?」
「何を喋っていいかわからなかっただけだ。あの人はそこまで嫌いじゃねえ」
菜乃花によると、剣淵と八雲は二週間後に会うことが決まった。そこに佳乃が同席することを告げると八雲は「ちょうどよかった、話したいことがある」と言っていたらしい。八雲から佳乃への話とはいったい何だろう。それを剣淵に話すと、首を傾げていた。
「兄貴が……お前に? 何の話をするんだ?」
「私もわからない。剣淵なら思い当たるものがあるかなと思ったんだけど」
「さっぱり見当つかねーな。そもそも兄貴とお前に接点ないだろ」
佳乃も思い返してみたのだが、八雲との接点は記憶にない。そもそも『八雲』という名前の知り合いがいないのだ。
二人は並んで廊下を歩く。教室にごみ箱を戻したら日直の仕事も終わりだ。
隣を見上げれば、剣淵がいる。そのことに慣れてしまった。思えば春から、何度も剣淵と行動を共にしていたのだ。女子たちには怖いだのクールだのと評される剣淵の年中無休不機嫌フェイスから細かな感情を見抜けるようになっていた。いまだって眉間に深い皺を刻んで怒っているように見えるけども、口元はかすかに笑っているから機嫌がいいのだろう。それに気づき、佳乃はくすりと微笑んだ。
「また観察かよ」
「あ、ごめん」
告白によって関係が変わるのが怖かった佳乃だったが、こうして普段通りに話していると安心する。ここ最近、悩みごとばかりを抱えていたため、気が休まる時間だった。
付き合う気がないのなら遠ざけた方がいい――この悩みもいまは後回し。せめて教室に帰る間だけは、佳乃を蝕む厄介ごとたちを忘れていたかった。
「しかし、兄貴もすげーよな。あの蘭香さんを落としたんだろ、あいつ」
「蘭香さん美人だからね」
「兄貴、こないだもボサボサ頭でだらしなかったろ? あいつのどこがいいのか理解できねー」
剣淵は知らないが、八雲に惚れているのは蘭香だけではない。同じく美人の菜乃花の心も射止めている。八雲史鷹とは恐ろしい男だ。
「面倒なことばかり続くな。転校してきてから今日までろくなことがねーよ」
「来年になったら受験でバタバタしそうだよね……剣淵、さらに勉強漬けになりそ」
「だろうな。今年のうちに遊んでおかねーと――浮島さん誘うか」
「浮島先輩呼んだら大騒動に巻き込まれるだけだと思うよ……」
遊んでリフレッシュするつもりが、浮島にからかわれて疲弊する剣淵の姿が目に浮かぶ。その想像に苦笑していると、剣淵も笑っていた。
きっと、同じことを考えている。同じものを頭に浮かべている。その共有が嬉しくて、佳乃の表情もみるみる緩んでいく。無理せず話すことができて、自然に笑える。剣淵の隣は居心地がいいのだ。
だから前を見ることを忘れていたのだ。隣の剣淵にばかり意識が向けられていたため、佳乃は気づいていなかった。
「三笠……さん?」
動揺混じりの声音に名を呼ばれて見やると、そこにいたのは伊達だった。
生徒会の仕事をしていたのか大きなダンボール箱を抱え、正面から剣淵と共に歩いてきた佳乃の姿に驚いているようだった。
そこまで驚かれることをしていただろうか。慌てて思い返してみるが、ごみ箱を抱えているところから日直の仕事だと伝わるだろうし、隣に剣淵はいても周囲が驚くほど近くにいるわけではない。だが伊達は、青ざめた顔をして佳乃をじっと見据えていた。
「伊達くん?」
「あ、ああ……ごめんね。つい声をかけてしまったんだ」
佳乃が聞くと、伊達は動揺を消して普段通りに戻る。しかしいつもよりその眼光に鋭さを帯びている気がした。
「日直だったんだね。お疲れ様」
「伊達くんも生徒会だったの?」
「そうだね。でも春よりは忙しくないからありがたいよ」
伊達との会話に違和感はない。だからあの動揺は気のせいだったのだろう。佳乃はそう判断して、先ほどの疑問を頭から追い払った。
「俺は先に帰る」
次に動いたのは剣淵だった。あの穏やかな時間が嘘だったかのように険しい顔つきに戻り、返答を待たずに歩き出す。
「ごめん。僕が声をかけたからだね。剣淵くんに気を遣わせてしまったかな」
伊達の言う通り、剣淵は気を遣ったのだろう。佳乃の好きな人を知り、協力すると言っていたのだ。きっと佳乃のために先に教室に戻ろうとしている。
だが、居心地のよかった存在が遠ざかっていくのが寂しくてたまらない。距離はあれど隣にいたはずなのに置いてけぼりにされてぽっかりと切なく、去り際に見てしまった険しい顔つきが瞼に焼き付いて佳乃を責める。
「……じゃあ、私もそろそろ行くね」
体が、動いていた。
告げた後、佳乃は剣淵を追いかける。
もう少しだけ剣淵とくだらない話をしていたい。そのことに気が向いていて、佳乃は振り返りもしなかった。
二人の背を見つめる伊達の瞳が、しんと冷えていく。王子様と称された端正な顔立ちも、苛立ちを噛み締めて醜く歪む。ダンボール箱を掴んだ手に力がこもり、食いこんで指跡が残っても、それでも伊達は睨み続けていた。
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