第13話 秘密と唇 二回目の選択
作業がはじまって一時間ほどが経過した。
浮島は教室の隅で寝転がってスマートフォンで遊んでいる。細かな作業は面倒だ、つまらないと言わんばかりの不機嫌である。しかし下手に触れば、問題児が目覚めて厄介なことになるに違いない。誰もが浮島の行動に見ないふりをして黙々と作業を進めていた。
「……どうしよう。糸が足りないわ」
最後の桃マークアップリケを取り付けていた菜乃花が言った。生徒会から支給された裁縫箱にピンクの糸は残っていない。残っているのは黒と青の糸だけだ。
「黒と青じゃ、縫い目が目立っちゃう。事情を話して手芸部から借りてきた方がいいかしら」
「そうだね、この時間ならまだ手芸部の人いるんじゃないかな」
すると菜乃花は立ち上がった。手芸部のところに糸を借りにいくのだろう。このやりとりを聞いていたらしい浮島が、顔をあげた。
「北郷ちゃんどこ行くの?」
「手芸部の部室ですけど……」
「じゃ、オレも。ヒマだから一緒に行こうかな」
浮島が出て行ってしまえば教室に残されるのは佳乃と剣淵だ。
これではいつぞやの放課後と同じである。またしても罠ではないのか。慌てて佳乃は立ち上がり、浮島を引き止める。
「浮島先輩、だめです! まさかまた変なこと考えているんじゃ――」
「いやだなぁ、オレがそういうこと企むと思う?」
企むと思っている。それに前例があるのだ。ニタニタと挑発的に微笑む浮島を、なんとしてでも引き止めなければ。
「だめです! ヒマならこっちの作業を手伝ってください」
「やだー。そういう地味な作業はオレ向けじゃないもん。面白いことがしたい」
「今日のお手伝い、浮島先輩から言いだしたんですからね!? 早く終わらせるように協力してください!」
語気を荒くして必死に引き止める佳乃だが、浮島は素知らぬ顔をしている。それどころか慌てる佳乃を見て楽しんでいるようだった。
「そんなのオレじゃなくて剣淵くんにやる気だせって言えばいいでしょ。あ、もしかしてオレが出て行って二人にされちゃうと困るとか?」
図星を突かれて、佳乃の勢いがぴたりと止まる。同時に剣淵の体もぴくりと震えた。
「……どうして困るのかなぁ? オレ、よくわかんないからなぁ」
「あ、あの……そ、それは……」
「聞こえない、ちゃんと答えてよ。どうして困るの?」
からかって遊んでいるのだ。それがわかっても佳乃は口ごもって答えられずにいた。
下手にごまかしてしまえば嘘になってしまい、いつもの呪いが発動してしまう。素直に答えればいいのだがこの場に剣淵がいる。二回もキスされた相手と二人きりになるのが気まずいだなんて、本人を前にして言ってしまえば、恥ずかしくて爆発してしまいそうだ。
どうしようと頭を巡らせていると、剣淵が動いた。
「何も困らねーよ」
ひどく無機質で、何の感情もこもっていない声色である。佳乃や浮島を一瞥もすることなく、視線は製作途中の刀に向けたまま。
「……へえ? 別にいいんだ」
「北郷についていきたいのならそうすればいいだろ。俺とこいつが残っても構わねーよ」
二人きりにされたら気まずいだの恥ずかしいだのと考えていたのは佳乃だけだったのだ。淡々とした剣淵の物言いに温度差を感じて愕然とする。
キスのことは忘れろと言われたが、ここまではっきり忘れられているとは。これでは佳乃は覚えていると告げているみたいで、悔しくなる。
「ふーん、それならいいけど。じゃあオレたちは手芸部に行ってくるね。佳乃ちゃんゴメンネー」
ひらひら、と手を振って浮島が教室を出て行く。菜乃花も心配そうな表情をしながら、浮島の跡を追って行った。
教室の扉が閉まり、廊下から聞こえていた足音も消えていく。教室はしんと静まり返っていて、佳乃と剣淵の二人しかいないのに息苦しさを感じる場所になっていた。
佳乃の予想通り、気まずい。同じものを制作しているため近くにいるのだが互いにしゃべることはない。剣淵はこの二人きりに動じていないように見え、それに合わせようと佳乃は平静を保つように努めた。
刀の制作はもう少しで終わるところまできていた。佳乃が作っている刀身部分は、刃と棟の間に
だが最後には二人協力しなければならない作業がある。各パーツを組み合わせなければいけないのだ。
このまま一言もしゃべらずに作業を終えるということは無理だろう。それまでになんとか気まずさを解消したいところである。
剣淵に話しかけるべきか、それともこのまま無言で過ごすべきか、思考を巡らせる佳乃だったが先に口を開いたのは剣淵だった。
「……忘れろ、って言っただろ」
それは呆れていることが伝わってくる口調だった。
「い、言ってた……けど」
「覚えているならいますぐ実行しろ。俺と一緒に残されるからってわざわざ変な反応すんな」
そっけない物言いは、まるで剣淵はキスのことなんて忘れたのだと告げているようだった。確かに忘れろと言ってはいたが、佳乃にはできなかった。こうやって放課後二人になれば、嫌というほど鮮明に思い出してしまう。
「早く手を進めろ。さっさと終わらせて帰るぞ」
口を閉ざし、作業を再開する。
忘れるなんてできないと思っているのは佳乃だけ。それが悲しくて、でも正直に口にすれば剣淵に意識してしまっていると伝えてしまうようで嫌だったのだ。
刀身に鎬の線を書きこむ。妙な気持ちになっているからか、線が歪になってしまったが遠くから見れば目立たないだろう。
その仕上がりを確認していると、佳乃に背を向けて作業していた剣淵が呟いた。
「……悪かったな。あんなことして」
「あんなこと?」
「二回、お前にキスしただろ。それを謝ってんだよ」
いきなり謝られるなんて思ってもいなかったのだ。予想外の言動に振り返る佳乃だったが、剣淵はこちらに背を向けたまま。だが作業の手は止まっているようだった。
「……なんであんなことしたんだろうな、俺」
忘れろと言っておきながら、剣淵こそ忘れていないのだ。言い返してやりたいのにその背に迷いがみえて、言葉をかけることができない。
「お前にこんな話をするのもおかしいけど、理由がわからねぇ。頭がおかしくなって、見えないものに体を操られているみたいだった。気がついた時にはお前が目の前にいて……キスしてしまったんだとわかった」
これは懺悔だ。佳乃に背を向けているからこそ素直に打ち明けられる、剣淵の苦しみ。
いま、佳乃は二回もキスをしてしまって傷ついた剣淵の心に触れているのだ。体温を奪っていくほど冷たく震え、それは雨の日に似ている。
剣淵は少しためらいながら、続けた。
「……なんつーか、おかしな感覚。変な呪いにかかった気分だよ。お前にキスする呪い、なんてくだらねぇものがあんのかよって話だけどな」
自嘲気味に呟いたその言葉は当たっているのだ。ただし呪いにかかっているのは剣淵ではなく佳乃の方である。
あのキスはすべて佳乃の呪いが関係しているのだと伝えたらこの苦しみは和らぐのだろう。でも言ってしまえば、いまの距離は崩れてしまう。嫌いなやつだが、会話をしたり雨の日に助けてもらったりと心地の良い距離は築けている。それが壊れて、きっと剣淵に呪いのことを責められるだろう。
佳乃が黙っていると、剣淵が振り返った。
「お前はどう思う?」
「わ、私……?」
「お前にキスしてしまうくだらねぇ呪いがあると思うか?」
夕日に支配された教室で、佳乃をじいと見つめる双眸。それはすがるようなまなざしだった。佳乃にキスをしてしまったことを後悔し、呪いだなんて非現実的なものを想像してしまうほどに悩んだのだろう。
剣淵の問いに対し、答えは二択である。
『呪いは存在する』と真実を答えれば、佳乃にかかった呪いのことを説明しなければならない。そしていまの関係に変化が起きるだろう。
『呪いは存在しない』と答えてしまえば、佳乃はこの呪いのことを隠すことができる。だがそれは嘘であり、呪いの発動に繋がってしまうのだ。
「ほ、ほら! そんな話いいから、早く制作進めようよ」
選択できず、佳乃は逃げるように背を向けた。そして答える気はないとばかりに絵筆を持って作業に戻るふりをした――のだが。
「……話、終わってねーぞ」
ぐい、と強く手を引っ張られて佳乃は再び剣淵に向き合うことになってしまった。鋭く、しかし助けを求めるような視線を全身に浴びる。
手は掴んだまま。佳乃が答えるまで逃がさないということなのだろう。
佳乃は瞼を閉じた。そして考える。どちらの選択が最善か。剣淵に呪いのことを明かすべきなのか。
ただ。剣淵に掴まれた手が熱かったのだ。
そういえば日曜日も、剣淵が佳乃の手を掴んだ。それは今日と同じ熱を帯びていて心地よく、ずぶ濡れになっても待ち続けている佳乃を案じ、救ってくれた手だ。
ごめん、剣淵。
心の中で謝ると、瞳を開いて剣淵を見つめ返す。
なんてずるい選択なのだろう。正直に生きると決めたばかりなのに、呪いのことを隠そうとしている。
「呪いなんて、ないよ」
言ってしまった後、二人の間を漂う緊張感ががらりと変わったのがわかる。ゆらりと体を揺らして一歩踏みよる剣淵の瞳に、正気は宿っていなかった。
いままで、呪いによるキスの対象は様々なものだった。
どうして剣淵なのだろう。浮かびかけたその疑問を消すように、影が落ちる。
触れ合う、くちびる。
視界は剣淵に奪われ、恥ずかしさに瞼を伏せたくなった。けれどこのキスは、佳乃が選択したこと。佳乃が自ら選んだ嘘なのだ。だから触れ合ってから離れていくまで、逃げずに見届ける。瞼を伏せてキスに酔いしれる権利なんて、持っていない。
「……み、三笠?」
重なった影が離れると、我に返ったらしい剣淵が驚きの声をあげていた。体がびくりと跳ねた後、数歩後ずさりをして佳乃から離れる。
「ま、また……俺……」
信じられない、とばかりにその顔は青ざめ、震える手で顔を押さえていた。
三回目となると慣れてしまったのか、羞恥心よりもまたしても無意識に行動してしまったことへの恐怖が勝っているようだった。
佳乃も剣淵から離れる。というより、驚愕するその表情を目の当たりにしたくなかったのだ。
そして自分への動揺もあった。キスが終われば冷静さが戻ってきたのか、先ほどの二択を後悔してしまう。
どうして秘密を明かさなかったのだろう。浮島に迫られた時は秘密を明かして唇を守ったというのに、剣淵相手ではやすやすと唇を捧げてしまった。
自らが下した判断のくせに今更驚いてしまうのは、三回目の余韻がいままでで一番、熱を帯びていたからかもしれない。傷ついて、流れていく血のような熱と苦さ。
「ごめん……」
剣淵の顔を見ることもできず、背を向けて謝る。
「……いや、俺も……悪かった」
ぼそぼそと小さな声だったが静かな教室によく響く。言い終えてしまえば、また静けさが教室中に広がっていく。
佳乃も剣淵も、それ以上の会話はなく黙々と時間が過ぎていった。
一回目は、驚きの味。
二回目は、ショックの味。
三回目はとにかく苦くて、辛くて、佳乃を責めるような味がした。
***
それからしばらく経ち、練習を終えた伊達が教室に戻ってくる頃には衣装や小道具の制作も終わっていた。
制作を手伝ってくれたことと合宿当日の手伝いをすることについて感謝をし、言い終えると生徒会の仕事が残っているからとまた教室を出て行く。
佳乃と菜乃花も帰り、残っているのは帰り支度をしている剣淵と浮島だけである。
だが浮島紫音はまだ帰らないつもりだった。気になることがあったのだ。
「……ねー、剣淵くん?」
声をかければ、浮島よりも身長や体格のいい剣淵がびくりと体を震わせた。浮島から声をかけられたくなかった、と言わんばかりの反応である。
浮島と菜乃花が戻ってきた時から、この教室は空気がおかしくなっていた。剣淵と佳乃はぎこちないし、言葉一つ交わさない。いまだって、伊達が「今日はこれで終わりです」と解散を命じた瞬間、佳乃は菜乃花の手を引いて早々に教室を出て行ってしまったぐらいに。
罠は仕掛けていない。面白いことが起きていたらいいなとは願う程度で、菜乃花についていったのも小道具制作なんてくだらない地味な作業をしているのに飽きたからだ。
しかし剣淵と佳乃の反応を見るに、なにかあったのだろう。本当にこの子たちは面白い、下唇をぺろりと舐めながら剣淵の顔を覗き込む。
「なんかあった? 思いつめた顔してるよ?」
「なんでもねーよ」
「……もしかして、またキスしちゃったとか?」
浮島が聞くと、剣淵は顔をそむけて――それから深いため息をついた。
剣淵はわかりやすい性格をしている。おかしな呪いを抱えたタヌキよりも剣淵の方が正直者と呼ぶにふさわしいだろう。今回だってその態度から丸わかりである。
浮島は、剣淵の反応から二人がまたキスをした、呪いが発動したのだろう、と答えを見出し、どう料理しようかと頭を働かせた。
正直言って、羨ましい。
呪いが発動して、キスをするのが浮島だったらいいのに。そうすればもっと佳乃や剣淵で遊べることだろう。特に佳乃は初心なところがあり、からかえば様々な反応を見せてくれる。剣淵だっていじりがいのある後輩だ。だからこそ、一度でいいからキスの呪いに引っかかってみたかった。
どうすればこの舞台が面白くなるだろう。佳乃、剣淵、伊達、菜乃花と役者はそろっているのに。このままでは物足りない、せめてもうひとつ、おかしな魔法があればいい。
「悩みごとあるなら聞くよ。一応、オレ、先輩だからさ」
真剣になれ、剣淵を心配しているふりをするのだ。そう言い聞かせて表情を作る。
すると剣淵はあっさりと信じこんだ。浮島のような問題児を信用してしまうほど、追いつめられていたのかもしれない。答えを求めて藁にすがろうとする、悩みごとに溺れて苦しそうな顔をしながら剣淵が呟いた。
「……どうして無意識のうちにキスをしてしまうのか、その理由がわからない」
それは佳乃の呪いが原因だよ、と話せば面白いことになるだろうか。いや、それでは足りない。もっと舞台をかき回して、ごちゃごちゃにしてしまうほどのものがほしい。
「なるほどね……じゃあ、キミよりも女性経験豊富すぎるオレが教えてあげる。それはね、剣淵くんが素直になっていないからだよ」
「素直って、俺が? なんだよそりゃ」
「ふふ、自分に正直になった方がいいねぇ。無意識のうちに三回もキスをしてしまうなんて――」
呪いなんて楽しむためのものだ。
この舞台をぐちゃぐちゃに壊す魔法をかけるために、浮島は言う。
「剣淵くんは佳乃ちゃんのことが好きなんだよ。好きだからキスをしたんだ」
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