第7話 忘れようとはしたんですよ
空き教室に三つの影があった。
今日一番の不機嫌さを表にだし、机の上に足をのっけてふんぞり返る剣淵奏斗。
ニコニコ笑顔で鼻歌まで決めている浮島紫音。
そして、タヌキを思わせる垂れ目を限界まで見開き、ぽかんと口を開けて硬直する三笠佳乃。
佳乃からすれば、極悪なメンバーである。なにも知らない者がみれば男子二人に挟まれて両手に花の、羨ましい光景だと思うのかもしれないが、この二人は佳乃にとって超要注意人物なのだ。両手に生肉を持って肉食獣の檻に入ってしまった気分だ。
しかし、剣淵を呼びだすとは。ここ数日会話どころか目も合わせなかった男なのだ。どうやって浮島は剣淵を連れてきたのだろう。
様子をうかがっていると剣淵が動いた。足は机に乗せたまま、視線だけを浮島に向ける。
「おい。なんでこいつを連れてきたんだよ」
「えー? 好みじゃなかった? カワイイ佳乃ちゃんだよ」
「ふざけんじゃねぇ。俺は帰る」
ガタン、と机を蹴る音がした。剣淵が机を蹴ったのだ。そして立ち上がると、教室から出ていこうと歩いていく。
まさかこのまま剣淵を帰してしまうのか、と佳乃が振り返って浮島を見れば、その口元は勝利を確信して怪しく弧を描いていた。
「オレ、口が軽い男だからさー。苗字も浮島だし、ふわふわしているってよく言われるんだよねぇ。だからうっかりしゃべっちゃうかも」
「……は? しゃべるって、何を――」
「キミが、佳乃ちゃんにし・た・こと」
剣淵の動きが止まった。あまり表情を変えない剣淵が驚きに目を丸くしている。それは大変面白い姿なのだが、笑う余裕はなかった。なにせ、剣淵だけでなく佳乃にも関係ある話なのだ。
「佳乃ちゃんに無理やりキスしたんでしょ? 二人ってそういう関係なワケ?」
「な、なんでそれを……」
そこまで言いかけて、佳乃ははたと思い出す。この男は動画を撮っていたのだ。つまりあの日、菜乃花と話していたことはすべて浮島に知られている。
「……なにが目的だ」
剣淵は肯定も否定もしなかった。観念したような物言いだが、その顔はまだあきらめていない。浮島を強く睨みつけ、その怒気が教室の空気をびりびりと震わせている気がした。
「やだなあ、目的なんてないよ。ただみんなで仲良くしたいなって思っているだけ」
「んなわけねーだろ。本当のことを言え」
「本当だってば――ああ、そうそう。オレいっこ年上だから。もう少し先輩を敬おうね、剣淵くん」
剽軽な声色でありながら、浮島も抗えない鋭さを放っている。すっと細められた瞳は剣淵をねじ伏せようとしていた。
「クソッ!」
折れたのは剣淵だった。再び机を蹴り、荒々しく椅子を引き掴んで座るも苛立ちは収まらない。その矛先は、二人のやりとりに萎縮し身を強張らせている佳乃に向けられた。
「ぜんぶ、お前のせいだからな」
「な、なんで私なのよ」
「お前に関わると、めんどくせーことばかり起きるんだよ」
「それはこっちの台詞! それもこれもあんたが――」
二人が言い争いをはじめたところで、パチンと乾いた音がする。音の出所を確かめるべく振り返れば、手を叩いたのは浮島だった。
「仲良しはいいことだけど、オレのことも忘れないでね」
「これのどこが仲良しに見えるんですか!?」
「寂しいからオレも混ぜてよ。オレ、アブノーマル大好き人間だから複数もばっちこいだよ」
その発言に身の危険を感じた佳乃は黙った。剣淵も言い争う気が削がれたらしく、頭を抱えてうつむく。
「あれれ、二人とも元気なくなっちゃった? まあいいや。ねえ、連絡先交換しよう」
「なんでだよ」
「呼びだす度に二年生の教室に行くのは面倒だからね。オレ、注目されやすいし。だから下僕呼び出し装置は必要だと思うんだ」
「……いま、さらっと下僕って言いましたよね?」
浮島に秘密を握られていなければ逃げ出せるのに。渋々とスマートフォンを取り出すいまだけは、剣淵と同じ気持ちを抱いているかもしれないと佳乃は思った。
佳乃のスマートフォンに二件の連絡先が追加された。浮島と剣淵である。浮島は仕方ないとしても剣淵は嫌だと思ったのだが、浮島が放つ圧力に負けて交換してしまった。
ちらりと見れば嫌がっているのは剣淵もだった。不機嫌全開、ぴくぴくと震えるこめかみがそのまま破裂してしまいそうなほど。
「用件は済んだだろ、俺は帰る」
「ダーメ。次は――」
なにか言いかけようとしたたが、それはスマートフォンから流れた軽快な音楽によって遮られた。浮島の手中にあるスマートフォンが煌々と光っている。
浮島はスマートフォンを眺め、そして表情を一転させた。
「用事ができちゃった。続きは今度ね」
いきなり呼び出され、いきなり解散ときたものだ。
待ち望んでいた解放が嬉しい反面、その慌ただしさはまるで竜巻が通り過ぎていくかのよう。
「また呼び出すから。今度こそ、たっぷり遊ぼうね」
用事とは急ぎのものらしく、浮島はかばんを手にするとそそくさと教室を出て行った。
浮島と名付けられた竜巻が去って、残されたものは静寂。騒がしかった空き教室がしんと静かになる。
沈黙をやぶったのは剣淵だった。ガタンと机の揺れる音がする。浮島が去って目的もなくなり、帰ろうとしているのだろう。
佳乃を気にかけることも話すこともなく、いつも通り黙って去っていく。その背を目で追えば、なぜだろう、教室で見る時よりも隙だらけで近い気がした。
「待って」
佳乃が呼び止めると、剣淵の歩みが止まった。大人しく待ってくれたことに驚きながらも、このチャンスを逃すまいと話しかける。
下手な前置きをすれば剣淵は『うるせー』とでも言って逃げてしまうだろう。だから直球を放り込む。
「あの日、どうして私にキスをしたの?」
「またそれか……」
「大事なことなの! 私のことは好きじゃないんでしょ、なのにどうしてあんなことをしたの?」
階段での壁ドン事件に続き、二回目の質問である。逃げきれないと思ったのか剣淵は振り返った。
正面から剣淵に向き合うのは久しぶりのことだった。緊張を隠して平静を装い、返答をじっと待つ。すると剣淵は困ったようにため息をついた。
「……わからない。頭がおかしくなって、一つのことしか考えられなかった。それで気がつけばお前に――」
強面の顔を覆う大きな手のひら。指の隙間から苦しそうにゆがんだ表情が見えて、佳乃の胸が痛む。
きっかけを作ってしまったのは佳乃なのだ。嘘をついてしまったがためにキスをしてしまった。なぜ相手が伊達ではなく剣淵になってしまったのかはわからないが、この苦しみを与えたのは間違いなく佳乃だ。
長く呪いと付き合ってきた佳乃だが、いつもキスをされる側であり、呪いが発動した時のキスをする側については考えたことがなかった。わかるのは、人工呼吸でファーストキスを奪った先生は『佳乃が溺れたと思った』と言っていたことぐらい。豆腐や子猫については言葉が通じないためさっぱりわからない。
呪いが発動した瞬間はどうなるのだろう。その時、剣淵は何を考えていたのだろう。
気になっても聞くことはできなかった。剣淵が、ひどく傷ついた顔をしていたのだ。
「そんな顔……しないでよ……」
何も言えなくなる。でも傷ついたのは佳乃も同じなのだ。あのキスから佳乃の周辺は忙しなくぐるぐると巡って振り回してくる。
呪いを使わなければ。キスをしたのが剣淵ではなく伊達だったら。叶わないもしもを考えて、佳乃の視界が滲む。押し殺していた苦しみが、これ以上貯めこんでいられずに溢れでた。
「どうしてっ……あんたがキスをしたの……どうして剣淵なの……」
「……俺だってわかんねーよ」
「伊達くんだったらよかったのに……」
泣き出してしまいそうで、でも剣淵の前で泣きたくないと妙なプライドが邪魔をした。こぼれてしまいそうな涙をとどめて、しかし感情は抑えられずに口から漏れていく。
伊達の名を聞いた剣淵は首を傾げて考え込み、それから「……あいつか」と呟いた。
「お前、あいつが好きなのか?」
「片思いだけど、伊達くんが好きだったの。でも、あんたが私にキスしたのを伊達くんに見られちゃって……」
「……片思い? お前が?」
佳乃が頷くと、剣淵は「趣味悪ぃな」と眉を寄せた。そして顎に手を当てて俯き、ぼそぼそとひとり言を呟く。
「……だから、あいつ……あんな事言ったのか……?」
それは小さな声だったため、佳乃が聞き取ることはできなかった。
聞き返そうとしたところで剣淵が顔をあげる。
「まあ、なんだ……お前の恋路とやらを邪魔して悪かった――これでいいだろ? 俺が謝った、それで解決だ」
まさか剣淵が謝ってくるとは思わなかったが、うんざりとした顔で言うものだから誠意が感じられない。この場を切り抜けるための形だけの謝罪に見えて、苛立った佳乃は反射的に荒い語気で返す。
「よくない!」
「じゃあどう謝ればいいんだよ、めんどくせーな」
聞かれて、佳乃は考える。剣淵がどのように謝ってきたら、許すことができるのだろう。誠意を感じる謝罪かそれとも――あれこれと考えるうちに、封じたはずの悪いタヌキが首をもたげた。
その悪タヌキは『剣淵をうまく利用するのだ』と佳乃の耳元で囁く。だが反対側で菜乃花の姿をした天使が『悪いことをしたら罰が当たるわ』と佳乃を止める。
逡巡した挙句、佳乃は意地悪い笑みを浮かべた。
「協力して」
「……は?」
「キスの償いとして、私の恋を協力してほしいの」
呆気に取られていた剣淵だったが、時間をかけて反芻し、意味を理解したのだろう。叫びにも近い声量で佳乃を怒鳴りつけた。
「お前、ばかだろ!? 俺がんなことすると思うか?」
「キスしたのはあんたでしょ! はい協力して!」
「ふざけんじゃねーぞ!」
バン、と机を叩きつける音。だが佳乃も引かない。
「伊達くんに誤解されていたら困るから、それを解いてくれるだけでいいの! おねがい!」
「お前、正気か? 謝ったから終わりでいいじゃねーか。それにお前は俺のこと嫌いだろ 嫌いなやつに頼むとか頭おかしいのか」
「そうだよ。私、あんたのこと嫌い。だからただ謝って終わりにさせてやらない。私の片思いを手伝え!」
いまにも殴りかかってきそうなほど怒っているらしく、剣淵は肉食獣のように鋭く睨みつける。だが佳乃も引かない。負けじと睨み返した。
ぎゃあぎゃあと騒いでいた二人の視線がぶつかり合う。無言の攻撃が続き、そして――
「ハァ……わかったよ」
屈したのは剣淵だった。
「何すりゃいいんだかわからねーけど協力すればいいんだな?」
「うん。伊達くんにちゃんと説明して誤解を解いてくれればいいの」
「誤解……してんだかどうだかわからねぇけど。まあ、あいつと話せばいいんだろ。その代わり、お前もキスのことは忘れろ」
あの無愛想で乱暴者で無視しまくりの剣淵に勝ったのだ。言い負かしたことが嬉しくて佳乃はガッツポーズをとる。
伊達に話してくれると約束を取り付けた喜びに酔いしれ、佳乃の判断力は鈍っていた。うんうん、と軽い調子で頷きながら答える。
「大丈夫。キスのことなんて、もう忘れたから」
言い放ってすぐ、違和感が襲った。
忘れた、だろうか。自らが発した言葉を思い返しながら、唇に手を伸ばす。
ノーカウントにすればいいと菜乃花に提案されて、忘れようとしていたのだ。忘れてしまえば楽になるからと思っていたのに。
唇に触れた指先が、熱い。
あの日の感触も温度も、まだ焼き付いて離れてくれないのだ。近くで感じた肌も、髪の毛も一本一本に至るまで、それは鮮明に覚えている。
ガタンと机が揺れた音がして、佳乃は我に返った。そして理解する。
やらかしてしまったのだ。あのキスを忘れることなんてできないというのに、悪タヌキは調子にのって嘘をついてしまった。
当然、呪いは発動する。
「三笠……」
「ち、ちがうの! これは……」
ゆらりと動く影。背の高い剣淵が間近に立てば、佳乃は見上げるような形になってしまう。
剣淵の瞳に正気は感じられず、佳乃にはわからないどこか遠くを見ているようだった。無表情で伏し気味な瞳が、放課後の教室に怪しい空気を生み出す。
後退りし逃走を試みるも、ここが空き教室であることに後悔する。足と背中が机にぶつかってバランスを崩し、佳乃は机に乗っかるようにして倒れた。
「や、やめ……剣淵! 我に返って!」
手をばたつかせて抵抗するが、体格のよい剣淵には響かない。逃げ場を失うように、佳乃の顔近くに手をつき、ゆっくりとそれは覆いかぶさってくる。
嘘をつけばキスをされる。悪いことをしたら罰が当たる。
もう二度とキスを忘れたなんて言わない。反省すると同時に、大きな影が佳乃に落ちた。
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