3-5
冷が少年の仲間に連れ去られてから、わずか二日。彼らの噂は瞬く間に街中へと広まっていた。年若く、人並み外れて優れた容姿を持つ騎士の師弟は、主に女性の間ではとうに知らぬ者はいないというほどに注目の的になっていたようだ。
街中を歩けば心配げな声をかけられるこの状況は、漠夜にとってはありがたくもあり、厄介でもあった。冷の行方がつかみやすくなるが、その分漠夜の行動も全て筒抜けになってしまう可能性があるのだ。
(輝の野郎は、まだ時間かかるのかよ)
視線の中を素知らぬ顔で歩きながら、彼の心中は荒れていた。彼が連れ去られてすぐに白鷺一番隊に連絡をとったのだが、それに関する返事が一向に戻ってこないのだ。あの一件以降、吸血鬼の事件とは別の事件が街中を賑わせているのも彼の心を乱す要因の一つだろう。
白昼の、しかも人通りが比較的多い大通りのど真ん中で、突如人間が惨殺されるという事件が中央区にて発生した。賑わいを見せていた現場では多数の人間がその瞬間を目撃していたが、犯人の姿を見たものは誰ひとりとしていなかったのだと言う。
「あいつ……最近動きが活発になってやがる」
漠夜が伝え聞いた事件の被害者が、あの時逃がした銀髪に青眼の青年だと聞いた時点で、漠夜には犯人が誰なのかわかってしまった。あの時、片手を地で汚していた少年こそが全ての元凶なのだと。
不可視化の術なのか、特殊な固有空間を使用して犯行が行われたのか、現場に近寄ることが出来ない今では調べることも叶わない。漠夜が騒動に気付いて路地から出た時には、すでに警備隊が捜査を開始する所だった。一般人を装っている漠夜もすぐさま現場から追い出され、現在に至る。
(あの男の魔力が記憶できただけでも良しとするか)
現場を追い出されたとはいえ、術が使用された直後に現場を見る事ができたのは彼にとって良い収穫だ。濃厚に残された魔力残渣からは、つい先ほどまで対峙していた少年のものと同じものがはっきりと見て取れた。
犯人の目星がついている今、問題なのはその事件の影に吸血鬼事件が隠れてしまっていることだ。より話題性のある事件へと移っていく大衆心理によって、吸血鬼の存在は瞬く間に風化していく。
「よう、見つけたぜ色男」
彼らの動向に頭を悩ませていた漠夜は、人通りの少ない裏道に差し掛かった所で立ち止まる。目の前には十数人はいるであろう男達が立ちはだかっており、その手には鉄材を始めとする様々な武器を握っている。
その男達の顔に全く見覚えのなかった漠夜は、いったい何の用だと首を捻る。通り魔か何かと考えたところで、色男と声をかけられたことに気付いた漠夜は、そこでようやく彼らの素性に思い至った。
「……ああ、酒場で冷に捻られてた奴らか」
合点がいったと一人納得した漠夜が呟いた一言が逆鱗に触れたのか、男達の様子が不穏なものに変わる。
「こっちはあの女に恥かかされて、面目丸潰れなんだよ!どう落とし前つけてくれんだ!」
にわかに活気づく彼らの姿があまりにも愉快すぎて、耐え切れなくなった漠夜は失笑を漏らした。勝負に負けた腹いせに同行者を狙うあたりが、本当に小物だと腹を抱えて笑いたい心地になる。
「くっだらねえ」
噛み殺したような短い笑いを零し、嘲笑混じりの声音で吐き捨てる。怒り心頭といった様子の男達からは、いつ襲いかかってきてもおかしくない程の怒気が溢れており、嘲笑された男の表情は真っ赤になっている。
「そのツラ、二度と人前に出られねえくらいにしてやるよ!」
頭に血が上った男は泰然と立つ漠夜に向けて鉄パイプを振り上げる。勢いよく振り下ろされたそれは真っ直ぐに彼の顔面を狙っており、背後の男たちは潰してしまえと囃し立てる。
そんな男達の様子など歯牙にもかけず、漠夜は男の手元を目で追う。そしてそれが顔面に迫った瞬間、パイプの真ん中を素手で掴み、赤子の手を捻るように百八十度、勢いよくねじ切った。
「なっ……!」
彼の手によって真っ二つにされた長大なパイプは打ち捨てられ、男の手に残った部分も彼の手によって変形させられる。円柱からただの板きれのように変わり果てたパイプを見て、男は顔を青ざめさせる。おおよそ人間の身体能力で行ったとは思えないほど見事にひしゃげたそれを投げ捨てた頃には、男の体は地面へと沈んでいた。
「少しは働けお前ら」
袈裟蹴りの要領で、顔面から地面に叩きつける。激昂した男達から振り下ろされるパイプやナイフをかわしながら、漠夜はがら空きの胴体や顔面を狙って足を振りかぶった。
時にはナイフの刃すら叩き折りながら、一人また一人となぎ倒していく。
「嘘だろ……こんな強いなんて聞いてねえよ!」
「バケモノだ!」
恐れ、逃げ惑う男達の言葉に耳を貸す様子は見られない。腹部を蹴り上げられて痛みに悶絶する男を踏みつけ、最後の一人を突き返し蹴りで沈めたところで、ようやく漠夜は動きを止めた。
裏道を埋め尽くす男達の体は、時々痛みに呻く声こそ聞こえるものの、誰一人として起き上がる様子はない。能力値Bの冷ですら片手で捻ることが出来てしまうのだから、彼らが漠夜に万が一でも敵うことなど有りはしないのだ。男たちがそれを知らなかったのは、不幸としか言い様がないだろう。
「――聞いてない……ね」
漠夜は懐から取り出した数枚の療術符を彼らの上へとばら撒きながら、逃げ惑う彼らが口走った言葉を思い起こす。
普通に考えれば、酒場で恥をかかされた彼が加勢を依頼した際に、超人的な能力を有していることを伏せていたと捉えられる。しかし穿った見方をするならば、意趣返しの機会を探っていた所を何者かに唆されたとも考えられるのだ。
もしも、この男たちをけし掛けたのが未羽や、冷を連れ去った少年だとしたら。
「いい度胸じゃねーか」
足元の男達を治療する療術符の光に照らされた彼の表情は、好戦的な気性を色濃く映し出していた。
「あれ……」
目を開くと、飛び込んできたのは途中まで閉められた遮光カーテンから漏れた光。薄暗い部屋の天井には、そのわずかな光を受けて控え目に輝く小さなシャンデリアが見える。
柔らかな光に釣られて顔を動かした冷は、そこで初めて自分が何か縄のようなもので拘束されているのだと気付いた。両手は胸のところで肘から手首までしっかりと縛り付けられており、体を起こすことすら叶わない。
(ここは……?)
かすむ記憶を必死に思い起こし、今自分が置かれている状況を把握しようと試みた。
隅の方に作られた暖炉はすっかり埃をかぶっており、天井の照明器具のみが軽く拭き取られている。一般家庭の平均的な家よりも広く作られたその部屋は、目視できる範囲内の情報だけでは、長らく人の手が全く入っていないという事しか掴めない。
(魔術も封印されてるし、縄も切れないし……困ったなあ)
置いてある調度品が高価であるということは何となくわかるものの、それだけでは場所の特定には至らない。完全に手詰まり状態になった冷は、諦めて体力の温存に努めようと体の力を抜いた。
相手の正体どころか目的すらわからない今、冷の思考能力では最早手の打ちようが無いのが現状だった。これが漠夜だったら状況はまるで違ったのにと、あの時別れた彼の姿を思い描く。
「あ、起きた?」
彼が今後について考えを巡らせ始めてから約数分後、立て付けの歪んだ鈍い音を立てて扉が開かれた。
途端に飛び込んでくる人工的な明かりに反射的に目を閉じる。上質なカーペットに足音を殺されながらこちらに近寄ってくる人影からは、どこか華奢な雰囲気も感じられる。
外側からの光が強すぎたせいで逆光気味になっていた彼の顔は、近づくにつれて鮮明になって冷の目に入った。
「あなたは……」
目を見開く冷の前には、漠夜と対峙していた金髪の少年。血を連想させる真紅のメッシュが揺れ、彼の両瞳の異質さを強調させる。
若草色のパーカーを羽織った彼の風体からは、これといった害意は感じられない。見た目は本当にただの好青年であり、そんな彼がここに姿を現したことに冷は驚きを隠せない。
(少佐を相手に、無傷だって……?)
よく観察してみても、彼の体には傷一つついてはいない。信じられない面持ちで彼のことを観察していると、少年が何かを抱えていることに気付く。しかし体が影になっており、何を抱えているのかまでは把握できない。
わずかに上体を起こしながら観察する冷の姿に冷笑を浮かべた彼だが、次の瞬間には表情を一変させて腕の中の物へと話しかける。
『
「ちょっと術が効きすぎたみたい」
愛おしくてたまらないといった顔をしながら腕の中へと視線を向けた、馨と呼ばれた少年の手によって室内の電灯が灯る。そうしてはっきり視界が明るくなったところで、冷は先程彼が姿を表した時よりもさらに驚愕をあらわにする事となった。
見間違うことなどない程鮮烈に記憶に残る、血で染めたような紅。鮮血の海で揺蕩う蝶は、身動ぎするたびにゆらりと舞う。
「末羽……さん……」
少年の腕の中に収まる彼女は、森で出会った時と何一つ変わることはない。彼の手により丁寧に地面へと下ろされた末羽が、冷へとゆっくりと近づいてくる。
『森では世話になったね』
人形特有の血の気のない指が、冷の髪をひと房掬う。冷水をかけられたと錯覚してもおかしくない程、体温が一気に引いていく。寒気から体を震わせた彼の姿を見て、彼女は笑みを一層深くした。
『今回は君に用があって来たんだ』
言葉をかけながら、末羽は背後の少年へと目配せする。いったい何の用があるのかと目を見張る冷に、馨は心得たとばかりに歩み寄った。
拘束されて身動きの取れない冷の体を、ぞんざいな手付きでうつ伏せに変える。背中にかかる髪を全て取り払われたところで、ようやく馨が何をしようとしているのかを察し、冷は恐怖に戦く口を開いた。
「やめっ……見るな!」
「大人しくしてないと怪我するよ」
彼は馬乗りになるような姿勢をとり、きっちりと着込まれた服の襟元に刃物のような物を差し込む。ひやりとした硬質な感触が冷の神経を凍りつかせ、もがく彼の体は動きを止めた。
繊維を断ち切る音が聞こえる。冷えた外気が背中を通り抜ける。あらわにされた背中に少年の指先が触れた刹那、冷は悲鳴にも似た大きな声を上げた。
「見るな! 見るなぁぁぁぁぁぁ!」
“それ”は、背中一面に広がっていた。叫喚に呼応する様に禍々しい赤紫の光を放ち、背中を埋め尽くすように刻みつけられた、どす黒い紋章。彼らの視線がそれに向けられているのだと、冷の瞳からは涙が滂沱として溢れ出す。
「凄いな……想像以上だ」
どこか恍惚とした声音を携えながら、彼の指先が背中を撫でる。紋章をたどるその動きは、ゆっくりと着実に冷の精神をすり減らす。髑髏の紋章が中心部にはっきりと刻まれ、今も彼を支配しつくそうと言わんばかりに鼓動を打っていた。ゆらりと、“それ”の視線が少年へと向けられる。
「魔界の君主、ベルゼバブのペンタクル……初めて見たよ」
背中を撫でる指先で紋章の魔力を感じながら、馨の口からは噛み殺したような笑いが漏れる。
『なるほどね。どうりで、私の腐敗の呪いが効かないわけだよ』
魂を司る蝿の王にして、魔界の君主――ベルゼバブ。腐敗と魂の象徴である蠅を自在に操り、桁違いの能力を有する悪魔を前にしては、人間相手に作られた呪いなど効くはずもないのだ。
(少佐は呪いの本質に気付いていた……? だから、あんなに気にして……)
それほど気に留めていなかったが、腐敗の呪いに犯されたあの場にいた漠夜は、呪いの効力に気付いていたのではという考えが冷の脳裏に過ぎる。もしも彼が呪いの恐ろしさを知っていたとしたら、自然に治癒された冷の腕を見てどのように思ったのか。
そう考えるだけで、冷の心を恐怖が支配する。
彼にとっては、自分を認めてくれた初めての人間だったのだ。自分も、ああいう風になれたなら。無い物ねだりを何度も繰り返した冷は、こうして捕まっている自分に惨めさを感じながら、それでも心の中で漠夜を呼び続けた。自分の本性を見られたくないという、二律背反の想いを抱えて。
(少佐……!)
少年による惨殺事件が発生してから僅か数日しか経っていないが、吸血鬼事件の噂はすっかり下火となっていた。どれほどの被害が出たのかではなく、いかにセンセーショナルだったか。それによって推移していく人々の関心に、漠夜の苛立ちは募るばかりだ。
すっかり表情が険しくなってしまった漠夜は、中央区の事件現場を中心に、冷の行方を探していた。いくら術を使えたからといって、人間一人を担いではそう遠くまで行くことはできないだろう。
(この辺に居ることはまず間違いない……早く見つけねえと、移動されちまう)
彼らの言うとおり狙いが冷だったのなら、目的を達成した今はそう長くここに留まらないだろう。街を出られる前に彼らの足取りを掴まなければと、漠夜は夜通し街中を捜索していた。
そうして冷の行方を掴む為にと街中を歩き回っていた彼は、耳に付けた通信機が受信を示していることに気付いて足を止める。通話をオンにしようと手をかけたところで相手が輝だと気付き、足早に路地裏へと身を翻した。
「輝、どうした」
『お待たせしました。ようやく準備が整いましたので、そちらに送ります』
輝の言葉を聞きながら、眼前の地面に薄く魔法陣が引かれていく様子に目を止める。簡単に礼を言って通話を切った漠夜は、完成した魔法陣から現れた影に向かって声をかけた。
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