七章 偽りの婚約者
出来の悪いドラマを観ているようだった。
「あはははは! やっと死んだよ、この化け物が!」
馨の勝ち誇った高笑いが遠くから響く。赤く染まった大地を踏みしめながら漠夜の立っていた場所に佇む彼の表情は愉悦に歪んでいて、呆然とその場に座り込む冷を冷たい瞳で見下ろしている。
少し目線を降ろせば、地面につきたてられた雷槍と、その隣に力なく横たわる肢体。血の海に沈んだまま指一本動かさず、いくら声をかけても返事はまるで返ってこない。
「少佐……」
彼が倒れる直前に見た微笑みが、脳裏に蘇る。パートナーとして共に過ごした中で初めて見たその表情が最初で最後の物になるなんて、冷は一度も想像したことが無かった。
震える指で、投げ出された彼の手に触れる。
「少佐、僕、まだ責任とってもらっていませんよ……」
徐々に冷たくなっていく手を握って、そっと語り掛けた。しかし彼からの返答はなく、ただ隣に突き立てられた雷槍の立てるバチバチとした音が響くだけだ。
「約束って何ですか、少佐」
指先だけでなく、声まで震える。目の前が次第にぼやけていき、横たわる漠夜の姿を見る事が難しくなっていく。体が冷たく、視界が悪い。まるで巨大な水槽に落とされてしまったかのようだ。
「ねえ少佐、返事をしてください!」
瞳から零れ落ちた温かいものが頬を伝う。とめどなく溢れてくるそれを拭うことなく必死に漠夜の死体に縋りつく冷の姿を見下ろしていた馨が笑っていることなど、今の冷の瞳にはまるで映らない。
彼がいない。彼がいない。彼がいない。その言葉ばかりが頭を埋め尽くして、おかしくなってしまいそうだ。
『……始まったよ』
末羽の声が耳に届くが、冷はそれすらも無視して漠夜の死体を見つめ続けた。
背中から灼熱の痛みが体中を襲い、四肢を引きちぎられるかのような錯覚にすら陥る。体が生きる事を拒んでいるのかと思うほど突如として発熱し、耳をつんざくような高音が頭に響く。それは末羽の転移術なんか比べものにならないほど鋭く鼓膜を突き刺し、次第に音として捉えられなくなっていく。
何かが勢いよく千切れる音と共に眼下に姿を現した魔法陣が周囲を包み、漠夜の死体を中心として急激に大きく描かれていく。
それを見ているうちに、冷はこの発熱の正体にようやく気が付いた。これは、背中の紋様が疼いているのだと。
地に描かれていった紋章が完成すると同時に、周囲がまばゆい光に包まれる。天を衝く高い光の柱が立ち上ったかと思うと高音が鳴り止み、周囲が静寂に包まれる。そして視界が戻ってきた刹那、凛とした少年の声が静かに響いた。
『派手な死に方をしおったなあ』
耳に着けられたイヤリングがか細い金属音をたて、高い位置で結われた紫の髪が緩やかに靡く。真紅の瞳は漠夜を捉え、呆れたように少年は呟く。白いマントを翻してこちらを向いた彼は、高いヒールの音をかつかつと鳴らしながら冷の方を向き直った。
「ベル……ゼ、バブ……?」
『久しいな。と言っても、お主が我の姿を見たのは初めてか』
優雅な物腰で一礼をした彼は、地面に付きそうな髪を靡かせながらふわりと舞う。
『あの者は我が引き受けてやろう。お主はその白銀をしっかり守っておれ』
少年――ベルゼバブは、漠夜の死体を一瞥してから冷に背を向ける。彼の視線の先には馨と末羽が立っており、驚いた素振りも見せずにベルゼバブと対峙していた。
末羽を庇い一歩前に出ようとした馨を片手で制すと、末羽もベルゼバブの前へと歩み出る。余裕の笑みを浮かべたまま彼を捉えた末羽はおびただしい量の蝶を周囲に纏いながら悠然とした態度で口を開いた。
『こんにちはベルゼバブ。十八年前の返事を聞かせてもらおうか』
『何度聞かれても同じこと。人間ごときが我を支配しようなど片腹痛いわ』
末羽の言葉を聞いたベルゼバブの表情が嫌悪に歪む。
『だったら力づくでも構わないかな?』
『お主も懲りないガキよの』
末羽の蝶がひらりと宙を舞い、ベルゼバブのイヤリングに触れる。腐敗の呪いを纏ったそれに触れても輝きを失わないそれがか細い音を立てた瞬間に蝶が燃え尽きて、灰が地面に落ちてく。そして地面に付く刹那、それを皮切りに彼らは同時に駆け出して刃を交え始めた。
長大な氷柱を武器にする待つ叛痛いし、ベルゼバブの武器は鋭くとがった長い爪だ。まるで長剣のように研ぎ澄まされたそれが末羽の氷柱や蝶を次々と切り裂き、周囲は一瞬にして赤色に染まっていく。
「少佐……!」
ベルゼバブの取りこぼした蝶が周囲を旋回し始めたのを見て、冷は漠夜の死体を護ろうとして慌てて魔鏡を手に持つ。しかし指が震えて上手く対象を鏡に映せず、なおかつ精神が乱れているために術が上手く発動できない。
助けを呼ぼうにも、月華や一葵、幸と神姫はそれぞれ末羽の仲間と戦闘しており、玲は急激に漠夜の魔力を断たれた反動で地面に倒れてしまっている。彼も助けなければ、しかし漠夜も守らなければ。物事の優先順位すら決められずに混乱に陥っていると、誰かがそっと冷の肩に手を置く感触がした。
「なあ葉邑冷、俺たちと一緒に来いよ」
悪魔の囁きのごとく耳元で囁くのは、漠夜を殺した張本人である奏馨。先ほどの光景が一気に蘇ってきて怒りのままに彼の手を振り払うと、漠夜の身体を抱えたまま冷は馨へと向き直った。
「なんのつもりですか」
「さっき聞いただろ? 術は完成したんだ……死者を蘇らせる術がね。俺たちと共に来れば、月折漠夜をもう一度蘇らせることが出来る」
距離を取っている筈なのに、やけに彼の声が耳に残る。馨が言っているのは、おそらくかつて如月未羽を蘇らせたあの術の事を指しているのだろう。記憶も魔術を使う素養も何もかもが抜け落ちた、如月未羽の形をしているだけの化け物に貶めた蘇生術。
しかし、彼はその術が完成したのだという。完成というのがどの程度を指しているのかはわからないが、それでも漠夜をよみがえらせることが出来るというその一言に冷の心は激しく揺れ動かされた。
「それは、そんな……っ」
視界から入る誘惑を断つように双眸を固く閉じるが、聴覚を犯す不気味な誘惑までは遮断できない。
もう一度漠夜に会える、その一言が染み入ってくる。
「あんたも知ってるだろう? ベルゼバブは魂の王だ。その気になれば、より完全な状態で月折漠夜は蘇るんだ」
漠夜が蘇る、それも生前とほぼ同じ状態のまま。漠夜の死体を目の前にしている今、それは非常に甘美な誘惑だった。冷という人間に初めて向き合い『生きろ』と言ってくれた彼の声がもう一度聞ける。弱音を吐いたら『うるさい』と言う手厳しい一面はあるが、それでも絶対に見放さなかった優しい彼。誰からも嫌われていながら、それでも誰よりも人を信じていた漠夜に、もう一度触れて言葉を交わすことができる。
馨の言葉を聞いて、これまでの漠夜の姿が走馬灯のように頭の中を通り過ぎていく。己の心情を消して揺るがすことなく、ただひたすらに真っすぐ前だけを見て進む彼の背中は、冷が憧れて止まない姿だ。
(……そうだ、少佐は、絶対に信条を曲げたりしない)
目が覚める思いがして、冷は顔を上げる。そこには手を差し伸べた馨が笑みを浮かべて立っていて、冷が手を取るのを今か今かと待っているように見えた。
「――少佐は、そんなこと望まない」
ようやく口を開いた冷に、馨が怪訝そうに眉を顰める。
「少佐の生きざまを否定するなんて僕にはできない」
震えが止まった指で、魔鏡をかざす。しっかりと馨を捉えて発動させた冷の結界は彼を結界の範囲外まで弾き飛ばし、土煙を舞い上げて大幅に距離を開ける。
冷はかつて、理解して理解される関係を望んだ。そして漠夜は冷を理解し、冷も漠夜を理解しているつもりだった。生きてきた年数に比べたらほんのわずかな時間だったが、それでも冷の知っている漠夜の正義を覆すことはしたくない。それが冷の導き出した結論だった
「少佐はどんな屈辱にも耐えてまで軍に残って、軍人として立派に戦って死んだんだ! だから僕がそれを否定するわけにはいかない!」
軍人は、力を持たない者を守るための存在。つまり漠夜にとっての信念は【守る】ということ。冷もそれに深く共感していた。それなのに漠夜が死んだことを嘆いて、それまでの己の信念を曲げて敵に額づいてまで彼を蘇らせるせることが正しいとは、冷は絶対に思わない。
「貴方達のしていることは、悪戯に死者を愚弄しているだけです!」
きっと漠夜にとって殉死は恥じることではなく、それどころか本望とまで思っただろう。現実から目を背けて漠夜のプライドを傷つけてまで、願いをかなえる意味が果たしてあるのだろうか。
「僕は貴方を許さない」
強い意志のこもった瞳ではっきりとした拒絶の意志を示しながら、馨を見る。彼は交渉が決裂したことを察したのか、舌打ちをしながら雷槍を構えて間合いを取った。
「許さない、ね……。結界しか能のないお前が俺を殺せるなんて本気で思ってんのかよ!」
馨が雷槍を振り下ろすと同時に、強い衝撃が結界全体に走る。一度では壊せなかったようだが、二度三度と続けざまに襲い掛かる鋭い雷槍は冷の身体まで衝撃を伝えて、次第に痺れが腕全体を襲う。
幸いにも玲の事は視界に入っていないのか、馨が狙うのは結界を隔てた先にいる冷だけだ。それをなんとか逆手にとって隙をつけないか見計らっていると、不意に頭上に黒い影が差した。
『よく言うた。白銀に仕込まれただけはある』
末羽の相手をしていたベルゼバブが冷の結界の上に立ち、雷槍を構える馨をじっと見下ろしている。
『踊れ』
ベルゼバブの指先から生じた炎が竜の姿を形作り、馨の周囲を包んでいく。彼が引き連れてきた末羽の蝶たちはその灼熱の龍に次々と呑み込まれて消えていき、それが更に火力を強まらせて轟々と燃え盛っていく。
身を焦がすような熱風が巻き起こり、それによって生じた強風が馨と末羽を同時に襲う。その光景を見ていた冷は玲の事が心配になり慌てて視線を周囲に走らせると、少し離れた先で依然倒れたままの彼の姿が目に入った。
(届け……!)
気を失ってしまっている彼は自分を護る結界すら発動できていないようだった。それを見止めた冷はその場に漠夜の身体を横たえると、結界の淵まで走って腕を伸ばす。冷の術の射程範囲から見て、彼が横たわっているのはギリギリの場所だ。届くかどうかもわからずに手を伸ばして魔鏡を操作すると、なんとか頭からつま先までを負う結界を張る事に成功した。熱波から彼の身体が護られた事に安堵の息を漏らして、思わずその場に膝をつく。頭上では今もベルゼバブと末羽たちによる戦闘が行われており、氷と炎と雷がうねりながら衝突を繰り返しているのが目に入った。
『先ほどまでの威勢はどうした!』
ベルゼバブが手をかざすと、炎が一気に轟音を上げて燃え盛る。末羽との相性は良いらしく、彼女の術は強大な炎の前に溶けて焼け落ちてしまっているようだ。
蝶が焼け落ちる燐光が漂い、その一つ一つが周囲の瓦礫を腐り落としていく。炎の中を掻い潜った馨の雷槍がベルゼバブを狙うが、彼はひらりと跳躍してそれをかわし、空中で一回転して雷槍を足で弾き飛ばす。地面に着地したベルゼバブがすかさず炎の術を展開させ、馨を狙って咆哮を上げて炎の龍が姿を現した。
「ちっ……」
その龍に巨大な雷を当てて相殺した馨だったが、爆炎に紛れて接近したベルゼバブの影を見失っていたようだ。馨が気付いた時には横腹にベルゼバブのヒールがめり込んでおり、彼は苦悶の表情を浮かべてその場に膝をつく。
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