7-2
『さあどうした、白銀を殺した時の余裕はどこに行った?』
殺意のこもった瞳に見上げられながら笑うベルゼバブの姿は、まさしく悪魔だった。血に飢えた深紅の瞳を炎で輝かせて立つ姿は、少年の姿にも関わらず荘厳でどこか禍々しい。
『随分と余裕そうだけど、まだ全盛期の半分も力を出せていないじゃないか』
『それがどうした?』
『忌童子なんていう檻から出て私たちと来たら、以前のように思う存分力が震えるのにって話さ』
ベルゼバブと対峙していた末羽の目線がこちらを向く。彼女はもしかしたら、ベルゼバブが術を使うたびに身体に異変が起きていることに気が付いているのかもしれない。冷は細かく痙攣している己の足をさっと服で隠すと、何でもない風を装って彼女の瞳を睨み返す。
先ほどから、ベルゼバブが術を使う反動が冷の身体を襲い続けていた。炎を放てば冷の掌を高音の熱気が襲い、龍を召喚するたびに体が軋む。徐々に悲鳴を上げ始めている身体を隠そうとしたが、末羽にはそれが筒抜けだったようだ。
『真の悪魔は契約を違える真似などせぬ。お主の話は聞けんな』
ベルゼバブも末羽の言葉で冷にかかる負担を察知したのか、今までのように大がかりな術を発動させることなく口を開く。
己の背中の紋様を恨めしく思った事は数え切れないほどあったが、冷はこの時ほどそれに縋りつきたいと思った事は無かった。漠夜の仇を取れる絶好の機会だというのに、ベルゼバブをこの世に留めている己の身体の方が悲鳴を上げている。それがひどく悔しく、惨めだった。
痙攣した足を奮い立たせ、霞み始めた視界を必死に凝らしながら立ち上がる。
「僕に構わず、末羽さんを!」
彼女をここで壊して、すべてに終わりを。そう願って声を張り上げた冷を見て、ベルゼバブが一つ頷く気配を感じる。背中を引き裂くような激しい痛みが走るが、あと一歩耐えればこの戦いに終止符を打つ事が出来るのだ。しかし、冷の心とは裏腹にベルゼバブが術を放つことはなく、周囲がしばし静寂に包まれる。
「そこまでだ!」
お互いの出方を窺って膠着状態になっていた場を動かしたのは、それまでになかった第三者の声だった。
力強く張り上げられた声と、空気を一変させるほどのスピードを伴った影が同時に冷と末羽の前に降り立った。
「君たちが今回の元凶だな?」
「……本隊の奴らか」
間に割り込んできた影を見て、馨が舌打ちを零す。よく目を凝らしてみると、そこに立っていたのは会議の際に元帥である雅也の後ろに控えていた少年が無言で立ちはだかっている。
思わず周囲を見渡すと遠くで戦闘を繰り広げていた一葵や月華、そして幸や神姫の所にも複数人が応援に来ているのが分かった。漠夜の言っていた、本隊からの応援が到着したのだ。
「トランスポートも使えないのにどうやって……」
「如月大佐だよ」
「雪原元帥!」
瞬く間に増援が到着したのを見て呆然と呟くと、少年と共に駆け付けた幸原雅也がそう教えてくれる。どうやら輝は末羽に囚われていたところを自力で脱出し、外部からのアクセスを拒絶していた通信機とトランスポートの復旧に走ったらしい。末羽の仕掛けた対魔術師用捕縛結界を解除するのは至難の業だろうに、よくこの短時間で突破できたと感心するほかない。しかも基地内に留まっていた隊員たちへの結界も維持したまま、だ。恐るべき彼の底力に感服した冷は、安心から力が抜けて思わずよろめいた。
「おっと大丈夫かい?」
「あ、すみません」
体を支えてくれた彼にお礼を言いつつ、なんとか自力でもう一度立ち上がる。
「それで、如月大佐はどちらに」
「今はトランスポートの制御室で怪我人を輸送する準備を整えている。話は無事に撤退してからにしようか」
雅也に促されて、末羽へと目線を戻す。こちらに元帥の部隊が加わった事で圧倒的に不利になった事を直感したのだろう。実力を図ろうとしているのか、目立った動きは見せずにこちらをじっと見つめている。
「あと少しだけ耐えてくれ」
トランスポートが起動するまで、あと数分。起動の時に息のあるものは全員本部へと移動させる手筈になっているらしく、それまで彼女らの攻撃に耐え続けなくてはならない。そう耳打ちした彼は腰に携えていた長剣をすらりと抜いて、自らも末羽と馨の前に歩み出す。
主犯格は末羽であると事前に会議で報告しておいたからなのか、彼の狙いは最初から末羽一人のようだ。先に到着していた少年に目配せすると、二人同時に地を蹴って末羽との距離を一気に詰める。
雅也が斬撃の姿勢に入ると、少年は両手から生み出した炎の術で左右の逃げ場を奪う。しかし末羽の喉元を狙った剣先は横から割り込んできた馨によって逸らされて空を切り、振り抜いた姿勢を逆に狙われる。
「っ術が……!」
「使えないだろう?」
雅也の一瞬の隙をついて雷槍を放とうとしたようだが、何故だか宙に手をかざした彼の手からは何も出てくることがない。困惑した様子の馨に勝ち誇ったような笑みを浮かべた雅也は、返しの刃で馨の腕を貫いた。
「そこのガキ、法術師だな!?」
「ご名答だ。彼の射程範囲内では魔術なんて使えないよ」
法術師と聞いて、冷の目も大きく見開かれる。法術とは、魔術とは正反対の性質を持つ古代の術式である。感情そのもののエネルギーを使う法術は体への負荷が大きい傍ら、魔術を無効化できるという最大の利点を持っている。しかしあまりの負荷に体が耐えきれずに、今では術者は絶滅していると聞いていた冷は驚きが隠せずにいた。
「雅也の敵、お前ら殺す」
少年が感情のこもらない声でそう呟く。右と左それぞれから炎と氷の渦を巻き上げた彼は、馨と末羽を狙って同時にそれらを打ち出した。
「ちっ」
魔術が使えない彼は悔しそうな表情を浮かべながら踵を返すと、術から逃げるように踵を返す。少年の射程範囲外からならば術で応戦できると考えたのだろう。その思惑は当たってしまったようで、一定の距離を取ってから発動させた雷槍は炸裂音を立てて少年の術と相殺される。
しかし、馨の体力もそろそろ限界に近いのだろう。漠夜に貫かれた肩と雅也に貫かれた腕からはおびただしいほどの血液が流れだしており、いまだ止まる気配を見せない。心なしか血色も悪くなってきているのが見えた瞬間、聞きなれた機械音が周囲一帯に大きく響いた。
「トランスポートだ……」
『逃がすか!』
トランスポートの起動を察知した末羽が冷を狙い、一直線に蝶を飛ばす。結界を貫いたそれは術者である冷の身体に強い衝撃を与えるが、彼はそれでも気丈に意識を保ったままその場に膝をついて漠夜の身体をしっかりと抱えた。
「絶対に、貴女なんかに少佐は渡さない」
先ほどの馨の言葉を思い出して、冷は漠夜の死体を基地へと連れて行くべく両手に力を込めて抱きしめる。蘇生術の条件には見当がつかないが、それでも末羽の必死な様子から見て肉体が必要である事は察知できたからだ。
これ以上彼を愚弄させたくない一心で漠夜を身を挺して守った冷は、その僅か数秒後に体が転移していくのを感じた。
***
「手の空いている者は救護室への搬送を急げ! それから第二・第三分隊は白鷺一番隊基地の動きに警戒しておいてくれ」
帝国魔天軍の本部へと転送された冷は、頭上で交わされるやり取りをどこか他人事のように聞いていた。
輝が護った隊員たちは次々と救護室へと運ばれていき、本部で待機していた隊員たちが白鷺一番隊の周辺へと派遣されていく。一葵や幸たちも相当な深手を負っていたようだが、彼らは一様に治療を拒否し、他には目もくれずに漠夜の元へと駆け付ける。
「漠夜! おい!」
冷が抱えていたことにより本部へと無事に移送された彼の死体は、今はもう体温を残さず冷たく横たわっている。月華が必死に揺さぶるが、返事はおろか文句の一つも飛んでくることはない。
「嘘だろ……少佐が」
一葵がその場に膝をつき呆然と呟くのが痛々しくて、冷はそっと目を逸らす。漠夜の死を受け入れられないのは誰しも同じことで、皆が皆なにを言えばいいのかわからない様子でただその場に佇んでいた。すると、その背に遠くから誰かの焦った様子の声が投げかけられる。
「漠夜はどこです!」
常にないほど焦った様子の輝が、冷の姿を見つけて駆け寄ってきたようだ。死んだ、その一言が出せずに口を開閉させていると、冷の様子から何かを察した様子の輝が歩を緩めて静かに歩み寄ってきた。
「……そうですか」
幸や神姫が脇によけて作った道を歩き、冷が抱えていた漠夜の死体の前に輝が立つ。漠夜の横に跪いた輝は、力が抜けてしまった彼の腕を取りながらゆっくりと微笑んだ。
「これが貴方の死に方だったんですね……。長い間お疲れ様でした、漠夜」
掲げた漠夜の手を額に当てて自分に言い聞かせるように囁く輝の姿に、耐えていた筈の涙が零れ落ちる。冷は何も言わずに漠夜の身体を横たえると、震える指先を合わせて敬礼の姿勢を取った。
彼らしい死に方だった。のちに冷から漠夜の最後の姿を聞いた輝は泣き笑いを浮かべながらそう零して、静かに立ち上がる。
「大佐はお強いんですね……僕なんてまだ少佐が死んだことを信じきれなくて、また、一人で勝手にどこかに行ってしまっただけなんじゃないかって……」
敬礼を解いて、涙と共に本音を零す。冷は輝のように頭が良くないので彼の思考回路はよくわからないが、あれほどまでに仲の良かった彼の死をそう簡単に受け入れられるものなのだろうか。いつもの漠夜の事だから、もしかしたら何らかの術を使って死を偽装して裏をかく作戦なのではないかと信じ込んでしまいたくなってしまう。それは心が弱いからなのか、もうそれを判断する能力すら冷には残っていない。
「死を悼むことは大切な事です、葉邑一等兵」
「しかし――」
「私は……そう、知っていただけなんですよ。漠夜が死ぬ事を」
輝の一言を聞いて、冷の目は大きく見開かれる。項垂れていた一葵や、傍で聞いていた月華たちも信じられないと言った表情で輝を凝視しており、一瞬にしてその場に緊迫した空気が漂い始める。
「場所を変えて話しましょう。漠夜の死体も、野ざらしのままでは酷というものです」
唖然とする冷たちの目の前で漠夜の死体を横抱きにした輝は、近くにいた雅也の元へと向かう。おそらく会議室かどこかを借りるつもりなのだろう。険しい顔をした彼らが二言三言交わすと、雅也が頷いてどこかを指さしているのが見えた。
輝に促されて、本部内の一室へと向かう。この本部へも漠夜の悪名が轟いていたのか、向けられる視線はけしていい感情を含んでいるものばかりではなく、それが更に居心地の悪さを助長させる。
叶うならば、本当はパートナー潰しをするような人ではなく、心の底から他人を信じる事が出来る優しい人なのだと大声で言って回ってやりたい。彼に対する僻みだけが独り歩きしてしまっただけなのだと。しかし漠夜が死んでしまった以上は、もう証明しようのない事だ。どれだけ冷たちが漠夜を慕おうとも、証明する手立てはもう存在しない。
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