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数日前の記憶について思いを馳せていた冷は、やはり手の腐敗には何も触れられていないなと頭を捻る。漠夜が名前を出す程なのだからよほど重要なことなのだろうと思うが、全く思い当たらなかった。
「少佐、大佐に相談したほうが良かったです?」
「……いや、治ってるならいい」
どことなく腑に落ちない様子の漠夜に聞いてみても、求めていた答えが得られるワケでもない。彼にしては珍しく要領を得ない言動に、冷は少し不安になってしまう。輝は現在任務にはあまり赴いていないとはいえ、陵の隊員なのだからもしかしたら治療面で優秀なのかもしれない。
首を捻っている間に退院準備が終わったのか、漠夜は新品の制服に袖を通しながら腰を上げた。全く怪我の影響を見せない彼は既に脳が仕事へと切り替えられており、その手には休んでいる間に溜まった書類を持っている。
彼は任務に頻繁に出ているが、書類業務もなかなか多いのだという事に冷はつい最近気が付いた。今回の任務は急を要していたので漠夜へと直接伝えられたが、本来任務の振り分けは漠夜の仕事である。輝の仕事である白鷺壱番隊内の振り分けの中から、特攻隊内に限っては漠夜に一任されている。基本的にランクBB以上の任務は全て特攻隊に流されるため、そこから漠夜の手により個々の隊員に振り分けられていくのだ。
「少佐、もう歩いて大丈夫なんですか?」
「ああ」
慌てて漠夜の後ろ姿を追いかけ、冷は未だ会った事のない特攻隊委員に思いを馳せる。現在そこに所属しているメンバーは、わずか四人。漠夜のパートナーにはなれなかったが、いずれも能力が秀でており数少ない漠夜の理解者であると輝は言っていた。
「俺はこれから輝のとこ行ってくるから、俺の執務室から報告書とってきてくれ」
「あ、はい! 先日の任務のですか?」
「ちげーよ。一週間も経ってりゃ一葵辺りが任務から戻ってくるはずだから、それのだ」
一葵というのは内容から察するに、例の特攻隊員の一人なのだろう。初めて会った日に、一葵がどうのと輝と話していたのを思い出した。
漠夜は冷を執務室に体よく追い払うと、輝のもとへと足を向ける。今回の任務は悪い意味で特別な物だったせいもあり、まだ冷を交えて言葉を交わすには早すぎるのだ。漠夜自身にとっても不可解な事が幾つか残っている何とも後味の悪い任務で、何度も彼に質問されては苛立ちが限界点を振り切ってしまう。
(今のあいつらに末羽の相手は厳しいな……基礎能力向上のトレーニングと、実戦形式の演習をもう少し増やすか)
脳内で今後の展望について考えながら、輝の執務室の扉を叩いた。
「……一番隊の基地って……思ったより広い」
疲れ果てた様子でゆっくりと歩く冷が漠夜の執務室にたどり着いたのは、彼と別れてからおよそ一時間ほど経過した頃。彼の執務室と簡単に言っていたが、階層こそ少ないものの壱番隊基地の規模はとても広い上に複雑な造りをしている。壱番から伍番までの隊の中で随一の敷地面積を誇る白鷺壱番隊の基地で、まだロクに地図を覚えていない彼一人で歩いては迷子になるのも仕方がないだろう。なにせ冷は漠夜の執務室に入るどころか近くまで行ったことすらないのだ。
「ふう……地図くらい作ってくれてもいいのに」
基地内をさ迷い歩いた末にようやく目当ての物を手に入れた冷は、今度は輝の執務室に戻らなければならない事を思って気分が下がる。
どんよりと盛り下がる気分のまま歩いていた彼の足は、聞き慣れないサイレンのような物がけたたましく鳴り響いた事に気付いてその場で止まった。館内に鳴り響くそれは、緊急事態を表すものだと輝から入隊時に教えられていたものだ。基地内に侵入者が入った可能性が極めて高いその状況に、冷は一体何をすればいいのか分からずに戸惑ってしまう。
「逃げやがった、あの野郎!」
「追いなさい漠夜!」
困惑する耳に入ってきたのは、緊急時に指示を出す為にと館内全てに繋げられた放送回路からの声。通常の連絡ならば専用の通信室から行われるのだが、こと緊急放送となれば特例が適用される。
輝を含む一部の隊員に許可されている通信機を使用することにより、館内への緊急通信がどこにいても可能になるのだ。一般隊員は右耳に受信用の三連ピアス、左耳に送信用の二連ピアスが支給されており、冷の通信機もそれに当たる。それが緊急放送などの権利を与えられている隊員に限り、送受信用共に三連ピアスになるのだ、
『基地内の全隊員に告げます。たった今基地内の培養プラントから、識別ナンバーMR四二五が脱走しました。現在三階BブロックからAブロックに向けて逃走中。発見した場合は手出しをせず、速やかに私か月折少佐に報告して下さい』
走っているのか少し息を弾ませている彼の声を聞きながら、冷も三階のAブロックに向けて身を翻した。
館内で緊急時の指示が下された場合、優先的に対応に当たるべきとされているのが冷を含む特攻隊員である。現在彼はパートナーである漠夜とは離れた位置にいるが、放送に従って逃走者を追っていけば自ずと合流できるだろう。
幸い階層こそ違うもののAブロックを歩いていた冷は、長い階段を駆け上りながら三階を目指す。しかし懐の魔鏡を確かめながら地を蹴る彼の足は、突如横切った影に気を取られ、そこに縫い付けられる事となった。
「……クリオネ?」
すれ違いざまに視認したその物体は淡い水色の体を持ち、陽光が微かに透けて見える程度の透明な体で彼の横を飛び去って行った。見た事もない珍妙な生物に気を取られて足を止めていた冷は、まさかあれが件のMR四二五かと思い至る。おそらくそうだと見当をつけて足を動かした所で、今度は上階から駆け下りてきた漠夜が先ほどの生物よりも速い速度で彼を追い抜いていった。
「ぼさっとしてんじゃねえぞ!」
駆け下りるというよりも飛び降りるかのような動作でMR四二五を追いかける漠夜の後に一拍遅れて輝が続く。豪快な足音を響かせながらあっと言う間に姿が見えなくなった二人に呆気にとられていた冷だが、何度目かの爆発音で我に返り、急いで彼等の後を追いかけるべくたった今歩いてきた道を引き返した。
道すがら目にした丈夫な石材で作られた筈の乳白色の回廊は所々穴が空き、大量の焼け跡も窺える。MR四二五による物も少しはあるのだろうが、おそらく漠夜の炎術による物が大半であろうその数々に、冷はそっと目を背けた。
「くそ……どこ行きやがった」
「落ち着きなさい、漠夜。苛立っても見つからないものは見つかりません」
二人を追いかけてから数個目の角を曲がったところでようやくその姿を目にし、安堵の息を漏らした所で冷は彼らが何やら言い争いをしているのが目に入った。運悪くそこはAブロックの中でも一番大きな分岐路であり、たった今通ってきた道を含めて訳五つの通路に分かれている。
「どうしたんですか!?」
「見りゃわかんだろうが」
「見失ったんですよ……」
忌々しそうに表情を歪める二人の視線は通路の向こう側を見透かそうとしているかのように細められ、言葉尻に僅かではあるが焦燥が滲んでいる。魔天軍分隊基地随一の広さを誇るこの基地内で追い詰めることすら困難であるというのに、見失ってしまっては最早どうしようもない。手分けしてしらみつぶしにするという手も無い訳ではないが、今現在揃っている三人ではそれが難しいというのが漠夜の見解だった。なにせ漠夜以外の二人は魔力探査にめっぽう弱い支援専門で、そもそも冷は実戦経験が少なすぎるが故に戦力外であるも同然だ。
(せめて
おろおろと忙しなくあちこちに視線を彷徨わせる冷に呆れ混じりの視線を向けながら、漠夜は分岐路に意識をもどす。
「こういう時に
「一葵は間の悪さも天下一品だろうが」
魔力探知に優れた人間さえいれば、少なくとも魔物を追いかける上でこのように見失い時間をロスする事も無かったと、輝は残念そうに溜め息をつく。どのような魔術を使用するにしても術者によって得手不得手が存在し、漠夜のように炎術に長けた者を始めとする様々な能力者が存在する。荒野准尉こと荒野一葵は、二人が知る中で最も魔力探知に優れた術者だ。
任務から戻ってきていない隊員に対し理不尽な苛立ちを感じながら、漠夜は僅かに残った魔力残渣を感知する為に足を動かした。
「そういえば聞いたか? 少佐、今日ようやく退院するんだと」
MR四二五の脱走から数時間が経った頃、傾きかけた太陽光が差し込むエントランスホールでは三人の青年と一人の少女が世間話に花を咲かせていた。四人の中で主に黒髪と茶髪の青年が話し込んでおり、もう一人の青髪の青年と茶髪の少女はさほど興味なさそうに佇んでいる。
「この前のやつか? 結局医務室送りになったのか」
「え、何それ」
それまで興味なさそうに会話を聞いていた青髪の青年は、腰まで伸びた長い髪のもみあげ部分をまとめていた飾り帯を弄ぶ手を止め、意外そうに目を瞬かせる。彼にとってはどうでもいい部類に入る話題だったため聞き流していたが、よく知る人物のわりと信じられないニュースに気を惹かれて口をはさんだ。
「なんだ
「俺寝てたし」
全く悪びれずに言ってのける月華に呆れたと言わんばかりのため息をつきながら、黒髪の青年は件の会話内容を掻い摘んで彼に説明した。
「ありえねえ。だって、腹に穴が空いた状態でも戦うような奴だろ」
「……少佐も一応人間だからな?」
重傷を負ったいきさつを聞いた月華は、それこそ有り得るはずがないと首を振る。平均を遥かに下回る身長の彼の頭を軽く小突きながら嗜める黒髪の青年に対し、それまで黙って聞いていた茶髪の少女が否定の声を上げる。
「何言ってんのよ一葵、漠夜がそんな怪我程度で何日も寝込む訳ないじゃない」
「
茶色の長い髪をサイドテールにした神姫は隣のパートナーである青年に同意を求めるように顔を向けるが、彼女も月華同様に頭を軽く小突かれてしまった。
そんな呑気に会話を交わす神姫と月華は陵の、一葵と茶髪の青年は皇の隊服にそれぞれ身を包んでおり、多くの人間が行き交うエントランスの中で遠巻きに見つめられている。向けられる数多の視線の中にはあまり良くない感情から来るものも混ざっていたが、彼等に気にした様子は無かった。
「……月華、何か変な気配がする」
周囲に気を止めずに話を続けていた一葵が不意に言葉を切り、辺りを見回した後で小声で伝えられた内容に月華は訝しそうに眉を顰めた。
「どこだ?ここから近いか?」
「すごく近い……それに、何だか大佐の魔力に似てる気が……」
周囲を警戒するように鋭い目つきになった月華と一葵に何かを感じ取った神姫は、隣にいたパートナーに目線を送る。エントランスホールは人々の交わす声や雑踏の響く音のみが聞こえており、特段変わったことはない。しかしそんな中でも、一葵が何かいると言ったのなら、そうなのだろう。たとえ魔物に関して鉄壁の防御力を有する、白鷺壱番隊本部内であったとしてもだ。
「幸、隔離は?」
「今の魔力じゃ、ちょっと厳しい」
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