1-3
互いに隙を探るように軽口を交わし合う二人の姿を、地面に座り込んだまま眺めていた冷は、ここに何をしに来たのかを思い出して息を飲んだ。二人の圧倒的な実力の前に呆然としていたが、冷は漠夜をサポートし末羽を破壊するという目的でここに居る。目の前に立つことすら畏怖してしまいそうな、この強大な力に向き合わなくてはいけないのだ。
(やらなきゃ……僕はそのために来たんだから……)
意を決して冷が腰をあげた瞬間に存在をようやく思い出しのか、漠夜の眼が一瞬こちらに向けられる。僅か数秒の事だったが、末羽が先に攻撃を仕掛けるには十分すぎる時間を意図せず与えてしまったことに、冷は気付くことができなかった。
「バカ野郎、伏せてろ!」
「え?」
蛟の口から響く耳を劈くような高音に耳を塞いだ冷は、漠夜が声を張り上げた気配を感じて反射的に問い返す。彼が何を言っていたのか気付いた時には青い水が視界いっぱいに広がっていて、漠夜の姿を覆い隠す。
蛟から発せられた高圧の水柱は真っ直ぐに冷を狙っており、全く反応出来ていない冷は格好の的だったのだろう。彼の反射速度では到底躱しきれないと早急に判断したのか、漠夜は素早く身を翻すと呆然としている冷の体を迷わず蹴り飛ばした。
漠夜によって飛ばされた冷は水柱の軌道から逸れて草むらへと倒れ込み、腹部から背部にかけて広がる鈍痛に呻き声を上げる。水柱から突然草の中へと視界が目まぐるしく変わっていく状況が把握できず、痛みに顔を顰めながら少しでも情報を集めようと上体を起こした冷は、その瞬間に視界に入った後ろ姿に思わず声を張り上げた。
「――っ少佐!」
真後ろにいた冷を蹴り飛ばしたことで自分は避けることが出来なかったのか、水柱を真正面から受けた漠夜の姿がそこにある。木々をなぎ倒すほどの水圧を正面から受けるその姿を目にした冷は、悲鳴交じりの声を上げながら立ち上がった。
「少佐、大丈夫ですか!」
漠夜のもとへと駆け寄った冷は、彼の負った傷を確認するために視線を上から下まで走らせる。どれほどの深さかはわからないが、あれほどの水圧だったのだから体の内側が深刻なダメージを受けている可能性がある。もしもそうだった場合は、冷が治癒魔術をかけなければ漠夜は立つ事すら困難だろう。
そう思って観察していると、ふと違和感があることに気が付いた。水柱の直撃を受けたことを物語るように漠夜の周辺は深い水たまりを作っていたが、肝心の彼は衣類どころか足元すら一滴の水分に侵されてはいない。
「え……?」
漠夜の体を注視していた冷は、一つの札に気付いて視線をそこに留める。彼の手に握られていたのはフェニックスを召喚したものとはまた別の青い呪符。役目を終えたように光を収縮させて行く札の正体がわからず戸惑った冷に答えを与えてくれたのは、敵であるはずの末羽だった。
『なんだ、君知らなかったの?漠夜はね、一人で攻撃も防御も治療も……何でも一人で出来ちゃうの。本当はね、パートナーなんて必要ないんだよ』
その言葉を聞いて唖然とする冷に追い打ちをかけるように言葉を紡ぐ彼女の横では、蛟が次々と水柱を二人に向けて放水させていく。けたたましい音を立てて水柱を弾いていく漠夜の術――結界を見ながら、冷は彼女の言葉の意味を痛感して目を見開いた。
『君は用無し、ただの足手纏い』
本来ならば不可能な筈の二系統の魔術を、漠夜は適切に使い分けながら一人で末羽と渡り合っている。その姿は彼女の言葉を肯定しているようにも思えて、末羽の言葉が冷の意識深くまで侵食し、戦意の一片すら葬り去ろうとじわじわ染み込んでいく。
「余計な口叩いてんじゃねえ末羽っ!」
冷を庇って防戦一方だった漠夜が、彼女の言葉を遮るようにフェニックスの炎術を発動させて水柱の全てを蒸発させる。大量に発生した水蒸気は冷の姿を覆い隠し、辺り一帯の視界を遮るように包み込んでいく。
視界が悪いうちにと思ったのか、漠夜は再び冷を近くの草むらへと蹴り飛ばすと、末羽に向けてフェニックスをけしかけながら追加で魔術を発動させた。
『おや、怒っちゃったかい?』
「お前はそうやって、何人も殺してきたのか!」
フェニックスが発生させる火粉と蛟の発生させる水滴の間を掻い潜り、漠夜は自らの呪符によって作り出した長剣を末羽に向けて振り下ろす。しかし、もともと背丈が小さく的としては狙いづらいせいもあってか、彼女へと振り下ろされた剣先は空をかすめ木の幹を抉るだけだ。向けられる剣を躱しながら、末羽は弾くように氷柱を漠夜に向けて発生させていく。その一つ一つがまるで弾丸のように漠夜を狙い、時にはフェニックスにさえ当たりそうなほど正確に飛んでくるのだから彼にとっては動きにくいことこの上ないだろう。
「くそったれが……」
雨としか形容できない程膨大な量の氷柱を打ち付ける末羽に舌打ちをした漠夜は、僅かに息を切らしながら懐から新たな呪符を取り出した。数十枚が束になった赤い符を扇状に広げ、剣先から発生させた気流に乗せて空高くへと舞い上げる。
「爆炎舞!」
巻き上がった赤い符が、まるで重量を持っているかのように垂直に落下し、物体に接触した瞬間に爆発を繰り返していく。符一枚でも小型爆弾と見紛う程の爆発力を誇るその術は、漠夜が好んで使用するものの内の一つだと聞いた。爆符と銘打たれた赤い札が大量に舞う様子は、曼珠沙華の花びらが風に煽られる様子とよく似ていて、己の置かれた状況を忘れるほどに美しい。
風によって縦横無尽に巻き上げられた爆符は無差別に周囲のものを爆発させ、瞬く間に森の一角を火の海に変えていく。鳴り止むことのない爆音の中で蛟の悲鳴が途切れ途切れに鼓膜を突き刺し、その刺すような痛みは軽い頭痛へと変わる。
「うわっ!」
サポートにと着いて来た冷ですら、初めて目にする漠夜の術に驚きの声を上げた。咄嗟に頭を庇うように腕を上げるが、すぐ頭上で響いた爆発音に自分が漠夜の結界に守られているのだと窺い知れた。冷静に神経を集中させて探って初めて、己が隔離されているのだと気付く。
(なんて強い結界……こんなの如月大佐でも作れるかどうか……)
すぐ目の前で繰り広げられる水と炎の攻防を眺めながら、ただ呆然と座り込むしかできない。現役の少佐である漠夜に対し、冷はただの一等兵。術の質も、経験も、魔力の膨大さも、全てを遥かに上回る実力をまざまざと見せつけられた冷が感じるのは計り知れない無力感。
精神的にも一歩引いた所からその戦況を見ていた冷が漠夜の制服を汚すものがただの水滴や泥の類ではないことに気付いたのは、それからすぐのことだった。
「少佐、血が!」
「いちいち騒ぐな!利き手じゃねえから支障はない」
漠夜の腕を滴る尋常ではない量の血液に取り乱す冷を、彼は末羽の氷柱を回避しながら爆音に負けない大きな声で叱咤する。氷柱の嵐を回避しきれずについてしまったのだろうその傷を、漠夜は治癒しようとすらせずに目の前の末羽に向けて攻撃を続ける。
舞い上げた爆炎舞はとうに尽き、左腕を負傷した彼は剣で薙ぎ払うだけの単調な攻撃へと変わってしまっている。さらにフェニックスは相性が最悪であるせいもあってか。蛟の相手をさせるのが精一杯で、氷柱を焼き払う余裕がない状態のようだ。
「少佐、傷の治療なら僕だってできます!腕を……」
「やかましい!腰抜けは引っ込んでろ!」
追いすがる冷の腕を振り払いながら、漠夜は目の前の氷柱をなぎ払う。軽い音を立てて砕けていった氷柱の中身は空洞で、氷柱の生成自体には魔力をあまり込めていないことが窺い知れた。空洞であるからこそ、その軽さからもたらされる速度とそれを飛ばすために必要とする魔力量は本物の氷柱の比ではない。速度が上がることで殺傷力もぐんと上がり、結果的に末羽は必要最低限の魔力で大量の凶器を生み出すに至っていた。
「キリがねえ……っ。爆炎舞!」
降り注ぐ氷柱の間を縫うように爆符を高く舞い上げた漠夜は、一旦体勢を整えるために一歩下がる。狙いが分散している所を見ると、先程の爆炎舞とは違い今度の術は単なる目眩ましなのだろう。爆符に気が逸れる一瞬の隙をついて、左腕の治療をするつもりなのかもしれない。
『これは流石に面倒だね』
隙を窺う漠夜に気を取られていた冷は、末羽が零した小さな言葉に対して反応が一瞬遅れる。彼女は面倒臭そうに呟くと、両腕の袖をひらりと翻し、血で染め上げたような真っ赤な蝶を無尽蔵に生み出していく。着物から抜け出たように立体感の無い数多の蝶は一瞬にして空を覆い尽くし、ゲタゲタと不気味な笑い声にも似た羽音を響かせる。
『避けるよりもさ、全部消してしまう方が手っ取り早いと思わないかい?』
鼓膜が引き裂かれたかのように一瞬にして周囲は音を無くし、目に映る世界は黒一色に塗り潰される。次いで響く酷い耳鳴りに目の前が歪んでいき、冷は自分の存在すら分からなくなる程の、絶大な何かに囚われる感覚を覚えた。煩く脳髄に響く胸騒ぎと鼓動に導かれて開いた視界に広がるのは、黒と赤に支配された空間。
――取り込まれたのだ。
冷がその事に気づくのに時間はかからず、気づいた瞬間に恐怖が思考を支配する。末羽の魔力によって生み出された固有空間は、その場にいた人間を飲みこんで姿を変えたのだろう。誰もいない空間の中で、遠くから子供の笑い声と大人の怒号が響いてくる。
(なんか嫌だな……妙に落ち着く)
悍しい空間である筈なのに、冷が感じるのは恐怖だけではない。まるでゆりかごのような安堵の中で冷が感じるのは、虚無という名の郷愁。遠い子供達の笑い声が、自分に向けられたものであると、冷は知っていた。
(そういえば、少佐はどこだろ……)
かすむ思考の中でぼんやりと思い出した漠夜の姿に、自分の体の感覚が戻ってくるのを感じた。有象無象の声が遠ざかり、かすかに震える足は漠夜を探すために歩みだす。重たい体を引き摺りながら漠夜の姿を探し始めた冷が、間違いに気付いたのはそのすぐ後。
目の前が揺らいだかと思うと、まるで陽炎のように目の前に小さな影が現れる。赤い蝶を伴って姿を形作ったのは、先ほどまで漠夜と対峙していた小さな少女。単独で取り残されてしまった状態で、末羽に目を付けられてしまったのだと瞬時に理解し、緊張が背筋を突き抜ける。
「あっ……」
『やっと二人で話ができるね』
緊張と恐怖で声を出す事も出来ない冷に構わず、末羽は微笑みを浮かべながら静かに口を開く。その声は先ほどまで漠夜に投げかけていた楽しげなものとは違い、ひどく冷徹で温度のない声だ。
ゆっくりと歩み寄っていた彼女は、一歩も動けないでいる冷のわずか数歩手前で立ち止まる。
『――君は【忌童子】だよね?』
「え……」
末羽の言葉を理解した瞬間、冷は自分の血の気が引いていく音を聞いたような気がした。突き抜ける悪寒は恐怖としか言いようがなく、【忌童子】とはなんだと白を切ることすらもできない程動揺してしまう。
一歩後退し、力なく首を左右に振る。自分は違うのだとアピールしようとしたその仕草だったが、おそらく彼女には虚勢だと見抜かれているだろう。
『ばかな人。どうせ人間なんて信用できないのに、どうしてこんな所にいるの?』
彼女が言葉を紡ぐ。それから逃げるように耳を塞ぐ。しかし、彼女の声は張り上げているわけでもないのに不思議とよく通り、耳を塞いでいてもまるで直接語り掛けられているような錯覚に陥る。
『君は異端者。誰にも受け入れられないと知っているのに、どうして人間に混ざろうとするのかな? 信じて、裏切られて、虐げられて……なんて哀れで素晴らしい道化だろう!』
「っうるさい!」
彼女の周囲を埋め尽くす蝶がゲタゲタと笑い声に似た羽音を立てる。それが過去に投げかけられた嘲笑を思い起こさせて、冷は思わず大きく声を張り上げて叫んでいた。
「そんなの知ってる……!」
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