7-4
最後は吐き捨てるようにそう言うと、ベルゼバブは立ち上がって窓際まで歩き出す。その背を目で追いかけながら、冷は愕然としながら口を開いた。
「そんな……まさか少佐は、僕のせいで……?」
信じがたい心地で口を開く。ベルゼバブの話を聞いている限り、彼が宿った先天的な魔術師というのは間違いなく冷の事だ。つまり漠夜は一度死んだにも関わらず、冷を護るためだけに蘇らせられたことになる。
漠夜ほど明晰で、世間を知っている人間なら、きっとすぐに察することが出来たのだろう。この世に生まれた魔術師が行きつく場所、そんなの一つしかない。
あまりの事実に吐き気がしそうだった。彼はどんな気持ちで、婚約者を失った世界で冷を護りながら生きてきたのか、それを考えるだけで胸が張り裂けそうに痛む。自分が彼の死を悼むことなど烏滸がましいのではという思いに駆られて思わず嗚咽を漏らすと、隣のソファに腰かけていた輝が項垂れたまま口を開いた。
「私は、結局なんなのでしょうか……私はいつも中心にいながら、何も出来ていない。いくらソロモンの血を引いていようと、あまりにも無力だ」
冷の嗚咽が響く室内に、小雨が降る音が混ざり始める。おそらく、その時は誰も慰める事もできず、ただ聞いているだけしかできなかったのだろう。冷を襲っていた無力感と罪悪感は、きっとその場の誰もが感じていた事だ。
「無力……ね。少なくとも俺が此処にいるのは、あんたがいたからだよ」
沈黙が降りた室内で、玲の言葉が響く。
「あんたは自分を否定しないでくれ。俺が此処にいることを、否定しないでくれ」
そう言い終えると、彼は唇をきつく噛み締めて部屋を出て行った。かつて白鷺一番隊の実験により生まれ、輝の手により自我と肉体を得た日比谷玲という青年。輝が自身のことを否定しては存在すら否定されてしまうと気が付いたのだろう、彼は表情を更に悲壮に歪めて顔を上げる。
「申し訳ありません……」
輝は玲の背中を見送ると、目を伏せて小さな声で謝罪した。それは玲への罪悪感か、かつての行いの後悔かは、輝にしかわからない。
小雨が降る中、冷は己が濡れるのも構わず一人で外に佇んでいた。小さな噴水がある広場には今は人の気配もなく、冷とベルゼバブの息遣いだけが聞こえている。
「世界ってこんなに静かなんだ……」
どんなに耳を澄ませてみても、あの特徴的な靴音が聞こえる事はもうない。報告書はきちんと出せと怒る声も、落ち込む冷を叱咤する声も、もはや遠い。物音一つ聞こえない空気に漠夜の面影を追っているのだと自覚した冷は、そっと自嘲の笑みを零した。なんて滑稽なのだろうか、と。彼の事を理解したつもりでいたが、まったく理解できていなかったのだと、この短時間で泣きたくなるほどに痛感した。
相互理解の関係どころか、漠夜にとっては契約遂行の為の関係にすぎず、本当の意味でのパートナーになれていなかったのではないだろうか。
「ほんと……最低」
ただ、彼のパートナーでありたかっただけなのに、現実はこんなにも非情だ
『さっきから黙って聞いておれば、見当違いのことをぐちぐち抜かしおって……』
「ベルゼバブ……」
膝の辺りにわずかな衝撃を感じ、振り向くとベルゼバブが呆れた表情で立っている。
『何かに特別な人間など、いるはずがなかろうが』
ベルゼバブはおそらく、漠夜の能力が彼の加護によるものだと知って失望していると思っているのだろう。だが、冷が納得できないのはそうではない。今なにより冷を落胆させているのは、漠夜と過ごした時間が全てかりそめの物だったと気付いてしまった事。
「僕は少佐にとって、一体なんだったんでしょう……」
『契約の話か? 一つ言わせてもらうが、あの者はお主の紋章を見るまで例の赤子だと気付いておらんかった』
「うそだ……だって、」
『ならば聞くが、契約を遂行するための【条件】を、奴自ら突き放すと思うか?』
そう言われて思い出すのは、出会ったばかりの頃の漠夜。最初の頃は他の隊員たちと同じように邪魔だと何度もあしらわれ、任務に連れて行ってくれなかった時もあった。時には厳しい言葉も投げかけられ、周りからはパートナーを変えた方が良いと何度も勧められていた。
ベルゼバブの言葉を聞いて、目が覚めるような思いで冷は記憶を掘り起こす。きっとあの時に他の隊員と同じように漠夜のパートナーを降りていたら、きっと冷は生きていなかった。心を過去に置き去りにしたまま、末羽に言われる通り世界を憎んでしまっていたかもしれない。
『ここまで言わなければ気付けぬのか……馬鹿め』
「それじゃあ僕は……」
漠夜のパートナーでいいのかと、聞きそうになった。しかし踏み止まる代わりに頬を叩くと、大きなため息をついた。
「少し、後ろ向きになってました」
こちらの動向を見守るベルゼバブに向けて、冷は眉を下げて微笑んだ。冷は漠夜に命を救われた時に、彼にとって必要のない存在である事を望んだ。いつの間にかそれが崩れていた事に自分で苦笑し、冷は静かに彼の深紅の瞳を見据える。
「これから、僕はどうなりますか?」
彼の眉がピクリと反応したのが見えた。漠夜の一件がショックで聞き逃しそうになってしまったが、ベルゼバブは確かにあの時言っていた。冷の魂を食らうために肉体に乗り移って、そして機が熟すのを待っていたと。そして契約が遂行され漠夜が死んだ今、彼がとる行動は自ずと見えてくる。
彼は冷の魂を食らう。それはもう決定事項なのだろう。
『随分と落ち着いておるな』
「……本当は僕が少佐の仇を取りたかったのですが……どうしてでしょうね。なんだかすごく落ち着いているんです。少佐のいない世界で生きていく自信がないからでしょうか」
怪訝そうに問い返すベルゼバブに、冷はどこか他人事のように答える。
信じられないほどに真っ白になった頭では後悔一片も湧かず、あるのはこれで終わりになるのだという安心感とも呼べる何かだ。冷はずっと探していた。自分が心安らかにいられる居場所を。それがベルゼバブの胎内だというのなら、それは歓迎するべきことだと思えるのだ。
漠夜に生かされたこの命が、漠夜の仇を取るための一助になるのなら、それはきっと冷にとって幸せなのだろう。
ベルゼバブが呆れたように溜息を落とす。
『我が魂を食らえば自我は完全に消滅するだろう。そして肉体はまもなく活動を止め、葉邑冷という人間は肉体的な死を迎えることになる』
彼の言葉を聞いて一つ頷いた冷は、自分の自我が無くなるとはどういうことかを考えかけて、すぐに思考を止めた。自我が無くなった後のことなど想像しようも無い事で、それを考えてみたところで変に怖気づいてしまってはどうしようもない事だ。
自分は今から漠夜の仇を取るための希望を託す。それだけなのだ。
「完全な力を取り戻したあなたなら、少佐の仇を討ってくださるのだと信じています」
『驚くほど生に執着が無いのだな。主には心残りというものが無いのか?』
「少佐にまだ言いたい事がたくさんあった……それくらいでしょうか」
最後に念を押すように尋ねるベルゼバブにそう嘯くと、彼は複雑そうな表情を浮かべて冷に歩み寄った。
雨が降り始めたこの広場の中で、ベルゼバブの周囲だけが切り取られたように静寂を保っている。ゆっくりと差し伸べられた手を取ると、血の通わないひんやりとした感触が掌一杯に広がって、冷は静かに目を閉じた。
魂を食らわれてしまえば、来世はもう望めない。やはり漠夜の仇を取れない事だけが無念だと思いながら彼に誘われるがまま足を動かす。
「ちょっと待ってくれ!」
その声は、冷がベルゼバブの前に跪いた瞬間だった。体の奥底、心臓がある位置に彼の掌が添えられ、死を覚悟した刹那にかけられたその言葉に、冷は閉じていた瞳を開く。
声の主を探して後ろを振り向けば、そこに立っていたのは息を切らした様子の玲だった。
「玲……さん?」
目を瞬かせて彼を見つめる。彼はひどく焦った様子で膝に手をついて肩で息をしており、急いでこの場まで駆け付けた事が一目でわかった。
何か末羽たち動きがあったのかと思って慌てて近寄ると、彼は冷の両腕を掴んで顔を上げた。
「それ……俺じゃダメなのか?」
鬼気迫る様子の彼が放った一言に、背後のベルゼバブも目を見開いた雰囲気を感じ取る。玲の意図が掴めずに言葉を詰まらせていると、彼は一つ深呼吸してから再び口を開いた。
「冷の代わりに俺が食われるから、こいつだけは生かしてくれよ!」
彼は冷というより、その後ろにいるベルゼバブに語り掛けているようだ。まるで同化しかけた魂を引き留めるようにしっかりと両手で冷の腕を掴んだまま言い募る玲の双眸は、強い意志を持ってしっかりとベルゼバブを見据えている。
『理由は?』
必死な様子の玲に対し、ベルゼバブはあくまで冷静だった。戸惑う事なくそう問いかけると、硬質な靴音を立てながら一歩前に歩み出る。
お互いに対峙する形になった彼らは見つめ合い、一呼吸おいてから玲がその場に頭を垂れた。
「俺は、漠夜たちの霊力で構成された肉体に宿った自我にすぎない。だから漠夜が死んだ今、遺った魔力を使い果たせば消えてしまう」
その言葉を聞いて、冷は思い出したようにはっとする。彼は元々MR四二五という番号の振られた人工生命体。それがたまたま漠夜の魔術と冷の魔鏡を取り込んで自我を持てただけなのだ。漠夜が生きている限りは彼からの魔力供給があるため生きられるが、死んでしまった以上はもう姿を保っているのもやっとなのだろう。漠夜の魔力はあまりにも強大で、冷と輝だけでその不足分を補うのにも限界がある。風前の灯ともいえるその命が、冷の目の前で代わりに犠牲になるからと懇願している。
「そんなの駄目です! あなたが消えたら大佐が……」
「でも放っておいてもすぐ消える命だ」
現実を突き付けられた冷が慌てて彼の身体を起こそうとするが、彼は頑としてその場から動こうとしない。
自らの魂を差し出すようにしている玲を説得しようと試みるが、次に続いた彼の声を聞いて冷は言葉を失った。
「漠夜の魔力が尽きる前に、俺が俺でいられるうちに、殺してくれ……!」
それは悲痛な叫びにも似た懇願。
彼がMR四二五としてでなく、日比谷玲として一人の隊員になれたのは、輝の尽力のおかげだった。本来ならば処分対象である彼を生かすために、輝は様々な侮辱も上層部からの数多の批判にも屈することなく、自らの意志を貫き通した。そして輝は自らが後見人になる事を条件として玲の【個】を確立させた。
「輝は俺に居場所と自我を、そして自由をくれた。だからせめて、俺がいた事を輝に後悔させないでやってくれ!」
彼の意志は固く、冷ではどうしようもない事がすぐに理解できた。
冷は何も知らなかった。日比谷玲という心強い存在がいるという事実の下で、どれほどの想いが積み重ねられていたのかを。常に飄々としている輝に騙されていたのだ。
「玲さん……ごめんなさい」
何もできなかった。彼の頼みを受け入れるしかできない自分の不甲斐なさに涙が零れ落ちそうになるが、気丈に振る舞う彼を前にしてはそれすらも許されない。
愕然とする例の前を通り過ぎ、ベルゼバブが玲の前に立つ。
『お主の願い通り、葉邑冷の自我だけは助けよう。しかし魂は我がもらい受ける。それでいいな』
「……はい」
「ああ」
玲の自我が宿った魔鏡を食えば、冷の自我は助かるとベルゼバブが言う。一人の人間の自我よりも重く、そして魂にも等しい彼の人格は、まさしく自然界に宿る精霊に近い存在だった。
ベルゼバブの指先が彼の胸元に触れ、肉体という器を通り越して体の【核】に触れる。
「やっと、輝とあんた達の役に立てるんだな」
肉体が消える刹那、玲はそう言ってとても綺麗に微笑んだ。魔鏡に宿った自我を奪われた途端に彼の肉体はその場で消滅し、遺ったのは彼が纏っていた白い隊服と魔鏡のみ。
音もなく地面に落ちたそれをそっと取り上げた冷は、そこに宿る圧倒的な魔力に目を見開いて、これこそが漠夜の魔力だと理解した。
漠夜の魔力を中心に一つになった魔力が冷の身体の中に流れ込んできて、魂を失った体を作り替えていく。
『滑稽な話だな。誰よりも人間で在ることを望んでおったのに、何よりも精霊に近い存在だったとは』
「そうですね……立派な方でした」
魔鏡を強く胸に抱き、冷は静かに泣いた。
その日の夜半、小さな紙片が漠夜の手の上に置かれているのが輝により発見された。存在も記録から消され、静かになくなっていく【彼】の筆跡でただ一言だけ書かれたそのメモは、報せを受けた冷が到着する頃には灰となって消えてしまっていた。
――『負けるなよ』
迷いなく、力強い筆跡でそう書かれた紙片は、もう存在していない。日比谷冷という一人の人間は確かに存在していた筈なのに、どこにもその証は残されていなかったという。
輝がどんな表情で消えゆく紙片を眺めていたのか、それを知る人間は誰もいなかった。
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