5-2
一夜開けて、いよいよ任務に向けて本格的な調査に乗り出す事となる。冷の様子は変わる事はなかったが、きちんと定刻通りに姿を現したことから、任務を継続する意思はあるのだろう。最悪の場合、漠夜は彼をここに置いて出発しようとしていた事を知っている玲としては胸を撫で下ろす気分だ。
当初は龍の様子を下見に行くことになっていたが、昨夜の情報を受けて予定を変更しており、今日は【忌童】の本尊がいるという村に向けて出発する手はずとなっている。馬車で一時間程の距離を移動した先にあるそこは、漠夜たちが泊まっていた街に比べるとひどく小さくて寂れた村だ。
総人口もそう多くはなく、聞くところによるとここ最近の竜の暴走以前から少しずつ村人が出て行っているらしい。これはいよいよ何か関係があるかと思い気を引き締めていると、急に視界の端を青い物が横切った。
冷の腕である。彼は鬼気迫った表情をして、漠夜の腕をしっかりと握り締めていた。
「少佐、あの村に行くのは止めましょう。今回の任務とは関係ありませんよ」
「関連を否定できる証拠は無い」
ようやく口を開いたかと思えば、彼の口から出るのは今日の進行を妨げるような意見ばかりだ。行く必要が無い、の一点張りで、漠夜の言う事になど全く聞く耳を持とうとしない。徐々に漠夜が苛立っているのが感じられて、見ている玲の方がハラハラとして神経がすり減っていきそうだ。
「あの村にいる人たちの事は気にしなくて大丈夫です。わざわざ少佐が出向かなくても――」
冷が声を張るのと同時に、鈍い音が響く。それと同時に彼の声がぷつりと途切れて、馬車の中は水を打ったように静まり返った。
静寂を作ったのは、冷の言葉を聞いた漠夜が彼を殴ったからだ。張り手などではなく拳で殴られた冷は頬を痛々しく真っ赤に染め、呆然とした様子で漠夜を見ている。その様子は、まるで自分が何を言っていたかすら理解していないかのようだ。
「それが本心なら俺はこの場でお前を見捨てる」
狭い馬車の中で立ち上がり、漠夜はそう淡々と告げる。その表情は冷たく凍り付いていて、心の底から冷に失望したとでも言わんばかりの表情をしながら彼を見下ろしている。
「あ……違うんです、今のは……」
「馬車を止めろ」
縋るようにして手を伸ばした冷を無視して、漠夜は御者に声をかける。会話が聞こえてきていたのか、御者は気まずそうにこちらに一瞥を向けてから何も言わずに馬を止めた。
「お前は誰だ」
「え……?」
「葉邑冷じゃなかったのか?」
漠夜は一人で馬車を降りると、振り向きざまにそう問いかける。彼の言葉に首を傾げたのは玲だけではなく、冷も言われた意味をよく理解していなさそうだ。その様子を静かに見ていた漠夜は、御者に何かを告げると馬車の扉を閉めてこちらに背を向けてしまった。
「この先の村には俺一人で行く。お前らはあの街に戻って情報を集めてろ」
それだけ告げると、漠夜は一人で歩き出して馬車から遠ざかって行ってしまう。追いかけようと腰を上げた時にはもう遅く、馬車は方向を変えてきた道をゆっくりと戻り出して行った。
「ちょっと先輩!」
馬車の中に取り残された玲たちの声を無視して一人で歩き出した漠夜は、先ほどの冷の様子を思い返しながら足早に道をまっすぐ進んでいく。
彼はこの地方に来た時から顔色が優れていなかったが、この先の【神代村】に行くと聞いた時には血相を変えていた。その様子から、彼が出身地などの個人情報を偽っていた理由に繋がるような気がしたのだ。【忌童子】という独自の信仰を掲げているその村に何があるのかを確かめるために、漠夜は一人で村へと向かうことにした。
「……ぼろいな」
暫く足を進めて着いた街道沿いにある村は、信仰の中心にあるとは思えない程の小さな村だった。所々に朽ち果てた民家も見受けられ、道を歩いているのは中年から老人にかけての人間が多い。若い人間はほんの一握りといったところだろうか。
そんな辺境の地に本当に本尊がいるのかと訝しくなった漠夜だったが、手始めに一番近くを歩いていた村人を捕まえて声をかけた。
「帝国摩天軍、白鷺一番隊の月折漠夜だ。最近ここいらで暴れているという龍について話を聞きたい」
その問いかけに振り返ったのは、やけに老け込んだ男性だった。ぼんやりと窪んだ瞳からは活力が感じられず、まるで惰性で生きているかのような印象を受ける。
「はあ……儂もよくわからんのですが」
「構わねえ、どんな些細な事でもいい」
頭を掻きながら視線を泳がせた男性は、『本当によく知らねえのですが』と前置きをしてぽつぽつと話し始めた。
龍が出没するのはここら一帯が特に多いらしく、時には毎日のように現れては咆哮を上げているのだという。行商人が襲われたのはこの村近くの街道という事もあって、すっかりこの村に行商人が寄り付かなくなってしまい、村は物資が不足して困っているようだ。
おそらく知らないだろうと思いつつ、龍が暴走した原因について尋ねてみるが、老人はやはり黙って首を横に振った。
「本当に、最近まで平和だったんですがねえ」
老人は顎に手を当てて首を傾げる。
「これで【忌童子】を奉らなくても良くなると思っていた矢先にこんな事ですから、もう訳が分からんのですわ」
老人の口からついに出てきた【忌童子】の言葉に、漠夜はわずかに目を見開いた。その話をしている時の男性は心の底から落胆している様子が顕著で、まるで奉るのは本意ではないとでも言いたそうな表情だった。信仰の対象ではなかったのかと漠夜が問いかけると、男性は信じられないとでも言いたそうに大仰な仕草で首を振った。
「とんでもねえ! あれは呪われた化け物だ!」
男性はそう大きな声で話すと、村の入り口から真っすぐいったところにある古びた民家を指さした。他の家よりも老朽化がひどく、まるで数十年以上も放置していたかのようだ。
男性いわく、あれが【忌童子】の住んでいた家なのだという。【忌童子】が指すのは神を象った偶像的なものではなく生きた人間だったらしいが、それがとんでもない化け物だったせいで村中が扱いに困っていたと彼は話す。
【忌童子】は鎮守の象徴であると同時に畏怖の対象である。そう語る男性の眼には、嫌悪が色濃く浮かんでいた。
「忌童子は掟を破って、二年前にいきなり村から飛び出しちまったよ」
【忌童子】とは、この地方に代々伝わる守り神の生き写しだった。生まれる際には神官が神からの啓示を受けるらしく、その直後に生まれた赤子は忌童子と呼ばれて生涯奉られるのだという。
体には癒しの力を宿していると聞いて、漠夜の頭に浮かんだのは『忌童子=魔術師』という仮説だ。世界の全人口から見ても魔術師の数はほんの一握りしかおらず、その存在はとても稀有なものとして扱われてきていた。この辺境の地ならば、魔術師の事を知らずにいても不思議ではないだろう。
しかし、それがどうして畏怖の対象になってしまったのかと不思議に思った漠夜だったが、次いで離された事実に現状を理解した。
今代の忌童子は、生まれた瞬間に母親が腐り落ちて死んでしまったのだという。触れたものを腐らせるという、癒しとは正反対の力を持つ忌まわしき子供。それが、二年前に突如として行方をくらませた【忌童子】の正体。
「――忌童子は本来、体に宿した力を使ってこの土地の邪気を中和させる役割を担っていた。それが突然行方をくらましたせいで、土地の邪気が抑えきれなくなったんだろう」
「……じゃあ、龍が暴れたのは邪気の影響ってわけっすか?」
「その可能性が高い」
男性を始めとした数人の村人から得た情報をもとに推論を立てた漠夜は、街に戻って玲たちと合流してからそのいきさつを話していた。冷は複雑そうな表情で目を逸らしていたが、漠夜の話を聞くうちに徐々にその顔色を青く変えていっている。玲はまだ状況が掴めておらず、冷の状況にも気が付かずに話を進めようとする。
「いくら魔術師とはいえ、そんな邪気に晒されてたら死んじゃうじゃないっすか」
「ああそうだ。だから忌童子は代々短命とされてきていたらしい。ついでに言えば、『村から出してはいけない』という掟まであったくらいだ。ようは人柱だな」
【忌童子】が離れてから約二年、それはまさに束の間の平和だったようだ。徐々に溢れ出てきた邪気が土地を汚染し、ついにそこに住み着いていた龍に影響を及ぼした。このままいけば村人たちに被害が及ぶのは必至で、対処は急務と言えた。
しかしここで問題になったのは、消えてしまった【忌童子】の代替をどうするかという点だった。この土地の性質上、ここで竜を討伐したとしてもいつか再び同じ事件が巻き起こるだろう。それこそ、邪気を引き受ける【次の忌童子】が生まれるまでずっと。
村人の話によると、邪気を引き受けられる人間は一度に一人しか生まれないらしく、同じ時代に二人存在することはあり得ないのだという。つまり対処法を見つけないうちは、前の【忌童子】が戻ってくるか、死ぬか、どちらかの選択肢しか残されていない。
「そんな、どっちにしても死ねって言ってるようなもんじゃねえっすか! 何とかならねえんですか?」
漠夜の話を聞き終えた玲が、思わずといった様子で声を張る。彼らが聞いた話によると、この【忌童子】信仰はかれこれ数百年は続いている。それだけの間誰にも解決できなかった【忌童子】の本質的な問題を、一朝一夕でどうにかするなんて不可能と言えた。
何か対処は無いのかと心を乱した玲は、漠夜が戻るまでにまとめておいた情報を見ながら頭を掻きむしる。邪気の発生を止めるとなれば、それこそ何十年もかけて相当大がかりな手順を踏む必要が生じてしまう。末羽一派のことで荒れている帝国魔天軍において、それだけの人員を割く余裕は今は無い。
せめて輝のような頭脳があれば、と悩み始めた玲の耳に静かな声が響いてきたのは、そんな時だった。
「……見捨てたらいいじゃないですか、あんな村の住人なんて」
それは、今朝あれほど取り乱していた人間と同一人物とは思えない程奇妙に凪いだ声だった。
はっとして顔を向けた先では冷が感情のこもらない瞳を向けていて、そのあまりの仄暗さに玲の背筋を冷たい物が走る。まるで底のない虚を覗き込んだような得体の知れない悪寒に体が支配されて、玲は言葉を忘れたように黙り込んだ。
「それはできない」
「どうしてですか? 死んで当然ですよ、あんなひと達」
静かに首を横に振る漠夜に、不思議そうな表情をした冷が首を傾げる。不自然に感情の削がれた顔は不気味としか言いようがなく、本当に人間なのかと疑問が湧き上がるほどだ。
「救いようのない人間なら腐るほどいるが、救わなくていい人間はいない」
「っ、でも! でもあの人たちは言った! さっさと死ねって、生きてる必要のない呪われた化け物だって!」
漠夜の言葉を皮切りに、激昂した冷が机の上に置いてあった資料を払いのける。はらはらと飛び散っていく書類を見ながら呆然としていた玲は、冷の表情を見てさらに動揺を覚えた。
彼は目を見開いて泣いており、怒りと嘆きがないまぜになったような顔をしながら漠夜を見下ろして叫んでいる。
「少佐だって、僕がその【忌童子】だって知ってるくせに!」
喉の奥から張り裂けるような叫びを上げた冷の言葉に、室内は一瞬静まり返る。聞こえるのは息を乱した冷の呼吸音だけで、時計の針すらも止まったかのように室内から音が無くなった。
「どうなんです? 気付いていたんでしょう?」
「ああ。お前が【忌童子】だってことは、末羽を通して全部聞いた」
冷の言う通り、漠夜は村人たちの指す【忌童子】が冷の事であると早いうちから気が付いていた。それは、森での任務で末羽と彼のやり取りを間接的に彼も聞いていたからだ。
末羽の固有結界は、記憶を乗っ取り恐怖の対象を末羽自身に置き換えることで自らに対する敵意を根こそぎ削ぐ術だ。その術中にはまってしまった冷の退路を断つようにして、一番ばらされたくない事実を彼女は漠夜にも全て伝えていた。
冷が【忌童子】である。それは、個人情報を偽るという違法な手段を使ってでも隠したかった冷の急所だ。
「ならわかるでしょう。僕は呪われた化け物なんですよ……本物の」
全てを諦めたように微笑んだ冷は、そう言うと静かに自らの隊服を脱ぎ始めた。何をする気かと目を剥いた玲だったが、その服の下から現れた『もの』に息を呑んだ。
白く傷一つない華奢な背中に広がるのは、毒々しい赤色をした紋様――ベルゼバブのペンタクル。背中一面に留まらず二の腕まで侵食したそれが禍々しい邪気を宿している事は一目瞭然だった。
「僕は生まれた時から、この紋様のせいで全てを失ってきた」
「……母親の件か」
「ええ……まず最初に僕を生んだ母親が腐り落ちて、次に、僕を抱えた父親が」
冷の口から出てくるのは、ひどく無機質で他人事のように温度のない昔話。まるで古くからの伝承を紡ぐように淡々と話す冷からは何の感情も感じられず、漠夜はそれを見てすぐに勘付いた。心を殺さなければ、耐えきれないほどの事があったのだと。
それでも聞かなければならないと思ったのは、事件の解決だけではなく冷を過去の呪縛から解き放つ為だ。
「村の人たちはこぞって僕を化け物扱いして、でも掟があるから追い出せなくて、そうとう鬱憤が溜まっているようでしたよ」
そう言い置いてから冷が話し始めたのは、耳を覆いたくなるほどの凄惨な仕打ちだった。暴力は日常のように振るわれ、時には刃物まで出されるほどの疎まれ方だったのだという。木造の家では腐り落ちてしまうからと、冷は置換い作られた石牢のような場所で過ごしていたのだという。治癒魔術に特化していた事が災いし、受けた傷は瞬く間に完治していたことから、その仕打ちは徐々にエスカレートしていったという。
直接触れなければ腐食は受けないと気付いた村人たちに上から下までボロ布のような服を着せられ、冷はただ人形のように十六年以上生きてきた。
「正気の沙汰じゃねえっすよ、そんなの……」
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