第六章 誰が為に
「まさか大佐が控えている本部が襲われるなんて……」
眠りに就こうとしていた龍を起こして状況を説明した冷たちは、今は彼の背中に乗って本部を目指していた。無意識のうちに固く握りしめた腕をじっと見下ろしていた冷は、目の前に座る漠夜の長いため息と共にそちらに意識を向けた。
「あり得ない話じゃない。あいつはタイプ【M】だからな、大勢の非魔術師を護りながら戦うなんて不可能だ」
冷静な口調で淡々と話す漠夜だが、その瞳には隠し切れない憤怒の炎が燃え上がっている。輝とは同期であり友人でもあると聞いていたので、おそらく彼が抱いている怒りは相当なものだろう。
「少佐……」
漠夜にかけられる言葉がわからず、遣る瀬無さに冷は顔を背ける。沸々と湧いてくる遣る瀬無さと憤りは冷の心をはやらせ、握っていた拳に更に力が籠る。やり場のない思いに駆られて思わず立ち上がりそうになると、背後から軽く肩を押さえて制された。
「気持ちはわかるけど、今は堪えるんだ」
背後から冷を押し留めたのは、たまたま通り道で任務に当たっていた一葵だ。特攻隊員たちに割り振った任地は全て暗記しているらしい漠夜の提案で連れてこられたのは、一葵と月華のほかに葛葉幸という青年と天照神姫という少女の二名。どちらも白鷺一番隊の中ではとても特殊な術の使い手らしく、近くにいたのは幸運だったと漠夜が話していた。
それだけの信頼を得ている二人の事を羨ましく思うが、今はそれを言っている暇はない。一葵の言う通り、今のうちにできるだけ体を休ませて体力を温存しなければならないのだ。本部にいる末羽たちの仲間がどれほどの勢力かは知らないが、入念に準備をしていくに越したことはないだろう。
「見えてきたぞ!」
目を閉じて己を落ち着かせていた冷は漠夜の言葉を聞いて顔を上げたが、次の瞬間には愕然として言葉を失った。
遠くまで見渡せるほどの高層階だった建物は、その半分以上が破壊され黒い煙を濛々と吐き出し続けている。特に破損が酷かったのは輝の執務室があった棟だ。『いってきます』と言えば『行ってらっしゃい』と笑顔で輝が送り出してくれていた場所は見る影もなく破壊し尽されており、今はもうその面影をどこにも残していない。
「うそ、ほとんど壊れてるじゃない!」
「そんな……っ」
背後から身を乗り出した神姫の言葉を聞きながら、冷は絶句して肩を落とす。冷が初めて得た『家』にも近い存在が破壊され、今は生活感を一切感じさせずただ静かにそこに鎮座している。
喉から競り上がってくる嘔吐感に耐えながら言葉を吐き出した冷の頭は、それでも冷静に現状を分析している。
先ほどの宣戦布告の事を考えると、おそらく通信機を始めとするいくつかの設備はまだ生きているのだろう。しかし、あそこに滞在していた隊員たちの何割が殺されてしまったのかを考えると、途端に背中を嫌な汗が伝う。無意識のうちに強張らせていた体のまま無残な姿になった本部を見つめていた冷は、漠夜の声を聞きながら目線を動かした。
「いずれ本隊から応援が来るはずだ。いいか、それまで奴らの足止めだけに専念しろ」
冷の後ろで白鷺一番隊の本部の様子を見ていた一葵や月華らが返事をする。漠夜の言葉に反応するだけの気力も残っていなかった冷だったが、それでも微かに頷くことはできた。
まもなく本部が接近し、近くにある丘を目指して龍が高度を落とす。かつて漠夜と共によく訪れたそこに降り立った冷は、そこから見える景色があまりにも変わってしまっていることに愕然とした。輝は、隊員たちは無事なのか。それだけが頭を埋め尽くす。
漠夜の指示に従い本部までの道を駆け出し、彼の背中を追う。この辺り一帯まで瓦礫が飛んできており、かつて閑静で穏やかだった丘はどこにも見つからない。
足を取られないように気を付けて走り、本部を目指す。断続的に響く爆音は今も蹂躙が続いている証のようにも思えて、無意識のうちに気ばかりが急いて行く。
早く助けに行かなければ。その一心で足を動かしていた冷は、目の前に広がる光景に目を見張った。
「あそこに人が!」
丘を越えた先にある白鷺一番隊本部のエントランスホールに、無数の人影が倒れている。しかし何よりも冷の目を引いたのは、しっかりと己の足で立ち剣のようなものを携えた少女の姿だった。
「撃て!」
会議の際に写真で見た唯という少女だと冷が思い至る前に、漠夜の鋭い声が飛ぶ。乾いた破裂音と共に一葵の持つ銃から弾丸が飛んでいき、唯の持つ剣を弾き飛ばす。
「あらやだ、まだ元気なのが残ってたのかしら」
持っていた武器を吹き飛ばされた彼女は、驚く様子も見せずに平然とこちらを振り向いた。腰まで伸ばした髪をさらりとなびかせ、埃一つ付いていない純白のスカートを翻してこちらを見た彼女は、幼さの残る容貌を歪に歪めて笑う。
「ふふ、主役のご登場ね」
漠夜の姿を見留めて鬱蒼と笑った唯は、腰のベルトに携えた麻縄のようなものから一筋の意図を引き抜く。それが彼女の媒体であると気付いた拍子に鋭い剣劇が飛んできて、すぐ隣にいた漠夜の髪の切っ先を掠めた。
(早い……っ)
目にも止まらぬ速さで距離を詰めた彼女は、距離を取って四散した一葵たちの中心で剣を突き上げる。途端に吹き荒れる風は周囲の瓦礫を宙へと舞い上げ、瞬く間に石礫の嵐を作り出した。
彼女のスピードに後れを取っていたが、咄嗟に結界を張ることに成功してなんとか石礫を防いだ冷は、慌てて周囲の状況を見回す。漠夜と玲、そして月華と神姫は既に結界を解いて少女の次の行動に対する迎撃の準備を整えているようだ。
「お前は末羽の手先だな? 何を企んでる」
「それはあの人自身に聞いたらどうかしら。貴方の事お待ちかねよ?」
一葵の銃弾を軽やかにかわした唯は、笑みを崩さずに平然と答えた。息つく間もなく幸の蹴りが頭部を狙って飛んでくるが、彼女はそれも難無く避けて体制を整える。縄から引き抜いた麻の一片を鋭い刃のようにして照射され、神姫によって作り出された結界の一部を削り取って行った。
「なによお、私はあんたたちに用なんて無いの」
「お前になくても、こっちにはあるんでね!」
彼女の鋭い矢を避けた幸が、態勢を低くして足元の影に手を当てる。彼が手を当てた部分から伸びて行った影は徐々に立体感を持って彼女へと襲い掛かり、頭上からその四肢を拘束しようと広がりを見せた。
彼は現代でも珍しい影使いである。そう理解したのは唯の身体がすっぽりと影に覆われてしまった後の事で、日光を吸収する深い黒色の球体がその場に転がった。
「少佐たちは先に進んでください。ここは俺たちが」
幸と唯の攻防に呆気に取られていた冷は、急にこちらを振り向いて声を張り上げる彼の言葉で我に返る。
「しかし!」
「大丈夫、これでも俺たち強いんだ」
冷が反論の言葉を言い終えるよりも先に、幸の影を切り裂いた唯の剣先が彼の首を狙って薙ぎ払われる。背をのけぞらせてそれを紙一重で避けた彼はこちらを振り返らずにそう言うと、足元の影を再び伸ばしながら彼女との攻防を再開してしまう。
この場に彼らだけを置いて先に行っていいのかと逡巡していると、背後で見ていた漠夜が玲の肩を軽く叩いた。
「幸、最優先は輝の奪還だ! それを忘れんじゃねえぞ」
「了解!」
それだけを言い残して、漠夜は一葵達と玲を伴ってエントランスホールの奥へと走り去る。その姿と幸の背を戸惑いがちに何度も見比べていた冷だったが、彼のパートナーである神姫に無言で促されて、後ろ髪惹かれる思い出その場を走り去った。
「――幸の術は広範囲系だから、むしろ俺たちがいると邪魔になってしまうんだ」
彼らを置いてきた後悔に苛まれていた冷を励ましたのは、一葵のその言葉だった。どうやら影使いとは普通の術者とは一線を画した存在らしく、その効果範囲は絶大にして凶悪。下手をすれば周囲の人間を見境なく呑み込んでしまう事もあるらしい。彼はかつてそれでパートナーを巻き添えにしてしまったことがあり、周囲から怖がられていたところを漠夜に拾われて特攻隊に籍を置く事になったらしい。
つまり、あの場に冷が留まるということは幸が全力を出す妨げになるばかりか、下手をしたら影使いとしての本領を発揮できなくなる可能性だってある。だからこその漠夜の判断だったと言われてしまえば納得する他なく、冷は口から出かかった不満を呑み込んで息を吐いた。
「そうだったんですか」
「知らないのも無理ねえよ、ただでさえあいつら本部に寄り付かねえし」
月華が軽い調子で言うのを見ながら息を吐いた冷は、走りながら首だけもう一度だけ背後を見遣る。無事でいてくれと願うしかできない己が悔しく感じた。
「それにしてもひどい壊れ方っすね、何もここまで壊さなくたって……」
ひときわ大きな瓦礫を飛び越え、玲は上層に繋がる道を探して当たりを見回す。特に損傷が強い輝の執務室は上階にあるため、どうにかしてそこに行くまでの道を探さなくてはならない。左右上下を見回していた玲は、上の方に佇む黒い人影を見つけて動きを止めた。
「だって、それが末羽の命令なの」
「が、は……っ」
瓦礫の合間を縫ってこちらに飛び降りた影が、玲の腹部を足で踏み抜く。体重に重力まで加わったその重みに玲は苦悶の表情を浮かべ、足場にしていた瓦礫から落下していってしまう。
「誰だ!?」
音に気が付いた一葵が、先ほどまで玲が立っていた場所に銃口を向ける。言葉と同時に放たれた一つの弾丸は周囲の空気を切り裂いて影の元へと向かうが、それは見えない何かによって弾き飛ばされてしまった。
「煤、先走るのは良くないな」
「……ごめんなさい」
玲の身体を助け起こした冷の目線の先で、二つになった人影が何やら話をしている。
その姿は唯同様、先日の会議で映し出された写真そのままの姿を下一組の男女の姿。タイプ【S】である柊煤、そしてタイプ【M】である覡魁だ。彼女らはやはり本部を襲撃した張本人だとは思えないほど傷一つない姿でそこに立っており、事態の異様さをさらに加速させる。
帝国魔天軍でも指折りの隊員たちが集う白鷺一番隊を壊滅に追い込んでおきながら、彼女らの服には汚れの一つも付いていないのだ。
「貴方たちは……!」
「唯はどうしたの?」
驚き、体を強張らせる冷に対し、煤と呼ばれた少女は無垢な表情でことりと首を傾げる。ゆるくカールした金髪が揺れるさまはこの場に似つかわしくなく、そもそもこの惨状の意味を理解しているのか不思議になるほどだ。
「貴方らの仲間なら、今ごろ幸にやられてるんじゃないかな!」
リボルバーに装填された銃弾を全て発射して答えた一葵は、月華に目配せしてすぐに陣形を整える。魔力の込められていない弾丸は再び結界によって弾かれてしまったようだが、その間に彼らの間で作戦が決まったようだ。懐から取り出した水晶の破片を片手に持ちながら、通路の先を目で示して月華の姿が見える。
(そんな、無茶だ!)
弾き飛ばされた銃弾が周囲の瓦礫に着弾して土埃を舞い上げている隙に、先に進めという事なのだろう。しかし、実力もまだ未知数の二人を前にしてそれをしてしまうのは躊躇いが勝り、冷の足を鈍らせる。
漠夜も玲もいるうちに三人がかりで戦った方が勝算が高いのではないかと思い口を開こうとするが、それを制したのは今まで沈黙を続けていた漠夜だった。
「お前はそんなにあいつらが信用ならねえのか」
言われて、はっと気付く。彼らの言葉に反抗するという事は、つまり彼らの実力を信じていないことと同じだ。下手をすれば侮辱にも等しいその行為を無意識のうちにしてしまっていた事実に直面して息を呑んだ玲は、今まで漠夜が無言を貫いていた理由にようやく気が付いた。
漠夜も、彼らを信じていないわけはない筈だ。だからこそ先ほども、幸の言う通りにあの場を任せてここまで来たのだろう。自らが選んだ大切な部下たちを置き去りにして先に進むという、苦渋の決断にも関わらずだ。
漠夜は彼らの実力を誰よりも信じている。それを痛感させられてなお『この場に残る』とは口が裂けても言えそうにない。
「……っご無事で」
駆け出した矢先に、背後で爆発音が響き渡る。けたたましい音を立てて燃え上がる炎は冷の背中を焼き、その暑さに汗がにじみ出るが、それでも冷は先を行く漠夜と玲の背中を見ながら走り続けた。崩れかけた階段を幾段も登り、瓦礫の下を潜り抜けてひたすらに駆ける。
輝の執務室へと向かう道すがら、崩壊しかけた通路の端で倒れ伏している隊員の姿を何度も見かけたが、不思議なことに彼らの身体には外傷があまり認められず、ただ気を失っているだけのようにも思えた。もちろん傷を受けて制服を真っ赤に染めている者もいたが、傷は全て塞がっている。
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