1-5
「少佐、今治しますから!」
既に呼吸しているかどうかも怪しい漠夜の身体を支えながら、焦りでもたつく手で軍服を剥ぎ取る。血でまみれていたためある程度の負傷は覚悟していたが、その予想を上回る負傷具合に冷の顔色は蒼白になる。縦に走る裂傷に、あちこちに焼け焦げた跡や細かい刺し傷。左肩を貫通した傷跡は辛うじて筋肉の断裂だけが直されている状態だ。
「こんなに傷を負っていたなんて……」
全身のあらゆるところに傷がついている姿を目にし、冷は改めて漠夜の超人的な身体能力を痛感した。これほどまでに傷を負っていながら、彼は冷を護りながら末羽と互角に渡り合っていた。
まじまじと体を観察し、ある程度傷を把握できたところで懐から媒体である魔鏡彼へと向ける。妖しげに光る鏡面に漠夜の体を映し、冷は治癒魔術を発動させる為に魔力を込めていった。
(内臓までいってる傷もある……どれだけ治せるか……)
漠夜の傷に意識を集中させながら、深い傷から先に傷口を塞いでいく。完治はしない程度に止血を優先させていかなければ、先に冷の魔力が尽きてしまうことは容易に理解できる。もともとの魔力はそこまで少なくないが、立て続けに起こった衝撃のせいでうまく集中できずに魔力を通常以上に消耗しているせいもある。
「うっ……」
一番大きな裂傷が塞がり始めた頃、僅かな呻き声と共に漠夜が目を開く。深い青の瞳が見えたことに安堵するものの、そのすぐ後に喀血してしまう姿を目の当たりにし、冷は魔鏡を取り落としそうになった。
「少佐!」
先ほどよりも血色の良くなった漠夜の瞳が焦点を取り戻し、冷の顔をまっすぐに見つめる。
「よお……やっと復活したのか」
「はい。ありがとうございました」
軽口を叩きながらも肩で息をする姿から、かなりの疲弊状態が伝わってくる。冷は心の中で謝罪し、感謝の言葉を音に変えて口に出す。そんな彼に対し、漠夜は軽く笑っただけだった。
『……そういう馴れ合い、大嫌い』
忌々しげに表情を歪めた彼女は手を振りかざし、そこから生まれた炎が辺り一帯を取り囲んでいく。地面を駆け巡る炎はあっと言う間に二人の周囲に燃え上がり、焼け付くような熱気が器官を蝕んだ。
熱を逃がすように深い息を吐いた隣で、血で重たくなった制服を捨て数枚の呪符のみを携えた漠夜が同じように息を吐く。お互いこれが最後のチャンスだと思っているのは同じだと、腐敗し引き攣れた腕を持ち上げながら笑った。
「タイミングを間違えるなよ」
「はい。……信じてます、少佐」
冷の言葉に満足そうに瞳を細めた漠夜は、呪符の中から爆符を選び取って末羽の足元めがけて投げつける。爆発音と共に粉塵を巻き上げ、ともに舞い上がった灰が彼女の着物をくすんだ色に変えた。
虚を突かれた末羽は一瞬気を逸らすが、すぐに気を取り直して炎を巻き上げる。粉塵の中では相手の姿が全く見えなかったが、豪火によって発生した風が粉塵を巻き上げ、瞬く間に彼女の視界を晴らす。
『面白いことをしてくれるじゃないか』
「うるせえ、これは遊びなんかじゃねえ。お前は死ぬんだよ。今此処で、もう一度」
先ほどよりも離れた位置に立つ漠夜が言い放つ。伸ばされた指は血にまみれ、お世辞にも綺麗とは言えない程血液を纏ったその姿。
「末羽さん……一つ教えて下さい、どうしてこんな事を?」
『理由なんて、今更そんなものは意味を成さないよ』
「そう……ですか」
無感動に返された言葉に目を伏せる。漠夜とは正反対に立つ冷の姿には視線を向けず、ただ末羽はそこに佇む。もしかしたらまだ何かを企んでいるのかもしれない、と気を引き締めた冷だったが、最後に一言だけ呟いた。
「こうなる前に助けたかった……」
彼女に向けた、葉邑冷としての最期の言葉は空気中に溶けていく。それが届いたのかどうかわからなかったが、末羽の着物の袖から一匹の蝶が生まれて空高く舞っていった。
魔鏡を空高く向け、冷は深く息を吸う。逸る気持ちを抑えながら対極の位置にいる漠夜の姿を見れば、彼はただ冷の準備が整うのを彼女の行動に気を付けながらじっと待っていた。彼の気持ちに応えるために極限まで集中を高め、別に取り出したもう一枚の鏡を末羽に向ける。魔鏡ほどの輝きはないが、磨きぬかれた鏡面がその姿を全て映したところで手を留めた。
「貴女は、今ここで破壊する」
光を浴びてその魔力の質を高めた魔鏡から次々と薄い板のような物が生み出され、末羽を取り囲むように連なって回る。鏡のように目の前の光景を映し出すそれは、冷の魔力によって生み出された結界の応用術だ。
合わせ鏡のように際限なく彼女の姿を重ねていく鏡面を見据えながら、漠夜は手に持った呪符の魔力を開放した。
「炎符、陽符、連結合成」
炎を生み出す炎符と眩い光を発生させる陽符の魔力を掛け合わせ、漠夜が己の内の魔力を高めていく。あらかじめ魔力を込めた幾つかの種類の符を好んで使う彼は、限られた種類の札を掛け合わせて魔術を発動させることが多い。
今回も複数の呪符を使って大掛かりな術を展開させるため、使用する札に合わせて冷も結界を張ることに神経を集中させる。
「蒸発して消し飛べ! 炎舞・雛菊!」
掛け合わせた二つの呪符から閃光が弾け飛び、一直線に幾筋もの赤い光が冷の結界に反射していく。
炎舞・雛菊は冷の術の特性に合わせて練り上げられた、漠夜自身も初めて使用するという術だ。雛菊の実態は、反射効果を持つ光速で動く炎。炎と光の特性を兼ね備えたこの術は、一直線にしか動けないという難点を抱える傍ら、ある程度の物ならば貫通して燃やし尽くしていくという威力を有する。
鏡面の所々で屈折率を変えた結界を反射していく炎は跳ね返るたびに分散し、一秒もかからないうちに光の束を作りだす。
「終わりだ、末羽」
彼女の姿を写した鏡の角度を、少し斜め下へと変える。たったその程度の小さな動作であったが、張り巡らされたすべての結界が角度を変え、反射していた光の全てが彼女へと向けられる。
おびただしい量の熱光線が彼女とその周囲を穿ち、焼け焦げる匂いが鼻腔を満たす。炎が空気を震わせる独特の音がいつまでも鳴り止まない。
音が鳴り止むまで数秒を要したが、これだけの時間熱線に晒されていれば跡形も残ってはいないだろう。発火している様子は見られないが、恐る恐る鏡を下げた冷にはただの焼け落ちた燃え滓しか見受けられない。
「討伐できた……でしょうか」
「あれが本物なら、あるいは」
冷の疑問に曖昧な返事を返した漠夜は、深く息を吐いてその場に倒れ込む。支える間もなく気を失ってしまった彼に慌てて手を伸ばせば、その全身がひどく冷えているのに気が付く。やはり単純に傷口を塞いだ程度では気休めにしかならなかったのかと、自らの上着をかぶせて保温に努めながら考えを巡らせた。
慣れない手つきで総し尿の通信機を接続させ、任務の達成報告と重傷者がいる旨を伝えてトランスポートの使用許可を申請する。すぐに開かれた転送陣になんとか漠夜の身体を乗せた冷は、頭上を飛翔する蝶の影には気が付いていなかった。
***
任務から戻った冷を待ち受けていたのは、全くもって嬉しくも楽しくもない各方面への謝罪ツアーだった。森の一部を吹き飛ばしてしまった事は予想以上に騒動が大きくなっていたようで、地元住民は災害だ天災だと恐怖し、やれテロだ放火だと正規軍を始めとする様々な機関に通報が殺到していた。それら全ての対応に追われた輝と、その助手にと捕まえられた哀れな隊員二名が三日徹夜する事態となってしまったのだ。
撮影に来た報道各人の機材全てに対し電波障害を装って一時的な機能不全を起こさせたのは流石にやりすぎな気がしないでもないが、そうでもしなければ帝国魔天軍の不名誉甚だしい戦歴が残っていただろう。表向きには焚き火をしていた山男が誤って掘削用の火薬に引火させてしまったということで落ち着いていた。
そんな苦行を強いられていた間、漠夜はただ眠り続けていた。基地に帰還してから思い出したことだが、彼は直前まで一つ任務をこなしていた身だったのだ。体力も魔力も平素より消耗していた状態の彼が、こうして五体満足で戻ったことは奇跡だと軍医にこってり絞られた。腕の変色に気付いた軍医の手によって巻かれた包帯を目にしながら、冷は日課となっている見舞いを終えて席を立つ。
(少佐は顔色を変えてたけど、そんなにひどくない怪我だったんだ……まあ、痛いのは最初だけだったし)
かすかにかおる消毒薬の匂いを嗅ぎながら、毎日取り替えろと渡された包帯を抱えて自室への道を歩く。辛い思い出しかない謝罪ツアーを終えた今は、漠夜の回復を待つだけだった。
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