12、メグさんと兄貴

 旭丘高校は、近隣では難関な部類の高校だった。

 県下で大きく見ればそこまでじゃない。兄貴が通った高校の方が上だったけれども。

 それでも俺にとっては、決して低いとは言えない壁だった。

 中の下を彷徨っていたような俺の成績。

 ……だけど俺は必死に勉強した。

 すべてが、あの言葉のためだった。

 ――待ってるから。

 メグさんが待ってる。卒業式に交わした約束。

 それだけのために俺は中3の1年を過ごし。

 最終的に、何とかそこに滑り込む事ができた。

 まぁ、入ってから現実に直面する。あの合格は奇跡だったなと。

 だって、同級生の他のメンツの出来のよさったら。

「同じ馬鹿がいてよかった」

 ……互いにそう思って安心できたのは、堺だけだった。

 合格が決まった事を、俺は真っ先にメグさんに伝えた。

 メグさんは凄く喜んでくれた。

 卒業してもメグさんは中学に顔を見せてくれた。でも、前ほど会えなくなった。

 また同じ学校に通える。同じ空気を吸って、同じ景色が見える。

 それだけが、たまらなくて。

 ……その時の俺には喜びしかなかった。

 高校で味わう事になる葛藤とか。

 ……転じる、色んな感情を。

 何一つ、想像なんて、できなかった。

 ――学校へ通うために電車に乗る。

 凄く新鮮で、それだけでまるで大人になったみたいだった。

 一つ階段を上ったみたいに。

 満員の電車も、別世界のようで最初はドキドキだった。

 入学式、始業式。

 バタバタとした日々を終え、俺達は部活を決める時期になった。

 1年は部活必須。2年、3年は自由……担任のそんな説明も耳をすり抜ける。俺には1つしか見えてなかった。

 部活見学で、俺は弓道場を探した。

 そこしかなかった。ずっと、そこへたどり着く事しか考えてこなかった。

 ――矢を番え、やがて解き放たれたそれが的に向かうように。

 まっすぐに。純朴に。

 ……他の何が見えただろう。あの頃の俺に。

 だから。

 弓道場が見つかった時、俺は気がつかなかった。

 聞きなれた音がする。誰かが弓を打っている。背中がゾクっとした。

 中を覗く、中学の時とは違う……そこにいるのは、一回り体の大きい人たち。

 その中に、今まさに弓を持ち。

 まっすぐ的に向かう人がいる。

 髪が伸びた。でもあれはメグさんだ。そんな事はすぐにわかったのに。

 なのに。

 ……打ち終えた彼女が一息吐きに射位から離れる。咄嗟に声を掛けようとしたそれより早く。

「あ、ユキ兄ちゃん」

 ――メグさんは明後日を見て笑った。

 ユキ兄。……メグさんの口からこぼれたその言葉。

 まさか、と思った。いや、あり得ない。

 そう思いながら、俺はメグさんが見た方を見た。

 ……それが、俺の高校生活の始まりだった。

 兄貴がいた。

 兄貴は笑って手を振ってた。

 メグさんは兄貴に駆け寄って。

 ……笑ってた。





 俺が知る限り、メグさんと兄貴が仲良く話している所なんか見た事なかった。

 3つ年上の兄貴は、俺とメグさんがいるような場所にはいなかった。

 兄貴はいつも、俺にとって大人だった。高い高い別の世界にいるような人だった。

 コンピューター関係の仕事に就きたいと……俺の覚えている限りでは、ずっとそう言っていた。俺にはわからない、異次元の話だった。

 頭も良くて、母さんが親戚や近所のおばさんから「自慢の息子ねぇ」と言われているのを何度も聞いたけれども。

 俺はそれに、特に何かを感じる事もなかった。

 父さんも母さんも、俺と兄貴を比較するような事言いもしないし。むしろ俺はいつも母さんと一緒にいて。

 ……どちらかと言えば、兄貴はいつも1人だったから。

 自分の世界を持ってる兄貴は。

 決して、俺の世界を犯そうとなんて、しなかったから。

「ユキ兄ちゃんて……葛西先生の友達だったよね?」

 ――自動販売機でコーヒー。相川に一本やると、「ありがと」と言った。

「葛西先生は、元々は、昔兄貴の塾の講師だったんだ。その頃からの付き合いで、旭丘に赴任になった葛西先生の仕事を手伝ってた」

 ――言ってなかったか? と言った、兄貴の声が蘇る。

 初めてうちの学校で兄貴を見たあの日。メグさんと2人でいる姿を見て。

 ……俺はゾクっとした。

 何かそこに、絶対的な物を見た気がして。

 俺はその場に固まった。

 メグさんはすぐに俺がいる事に気がついた。めちゃくちゃ驚いた。でもめちゃくちゃ喜んでくれた。

 のに、俺は……その笑顔に答えられなくて。

 メグさんの笑顔が消えて行く様、今でも覚えている。





「おう、瞬介」

「何で、兄貴が……」

 兄貴と俺。交わる事なかった、その道。

 それが初めて重なった瞬間。

「言ってなかったか? バイトで来てるって」

「……」

「あ……すいません、ちょっと出ます」

 慌ててメグさんは俺と兄貴を弓道場の外へと連れ出した。

 俺はその間も何もしゃべれなくて。

 ただ、メグさんに掴まれた腕を、じっと見ていた。

「瞬君、入学おめでとう」

 改め笑顔で言ってくれたメグさんに。俺はノロノロと頭を下げた。そして兄貴を見上げる。

 この1年で、俺の背は伸びた。メグさんを追い越せた、でも。

 まだ兄貴は見上げてる。

「美術の葛西先生に雇われて、時々バイトに来てるんだ」

 兄貴は少し苦そうに口を開いた。

「俺も大学があるから、そんなしょっちゅうじゃないけど」

「ユキ兄ちゃん、私がいるってお母さんから聞いてたのに、会ったのついこの前なんだよ? この1年、私も全然気がつかなかった。びっくりしちゃったよ」

「いや、メグちゃんのお母さんに忘れ物届けてって頼まれたから」

「……あのねユキ兄ちゃん。知ってたならもっと早くに教えて欲しかったよ。普通に教室来られて、私本気でびっくりしたんだから。クラスの皆にも変な事言われるし」

「あ、ごめん」

「……本当に、ユキ兄ちゃんって頭いいのに、どっか抜けてるよね」

 ……俺は。

 兄貴とメグさんの会話を、ただ無言で聞いていた。

 兄貴なのに。メグさんが話してる相手、どこの誰でもない一番よく知ってる男なのに。

 なのに……だからか?

 苛々した。

「瞬君、部活見学?」

 黙ったままの俺に気付いたメグさんが、少し気を使ったように振り向いた。

「見てく? それとも打ってく?」

「……」

 今日は、と俺は言った。

「帰る。……場所確認に来ただけだから」

 いいや違う。俺が見に来たのは弓道場じゃない。

「用事あるから。……帰るよ」

 目を、合わせなかった。

「打っていけばいいのに」

 と兄貴が言った。

「母さんに言っておいて。今日ちょっと遅くなるからって。葛西さんの手伝いがあるから」

「とか言って、また飲みに行くんじゃないでしょうね? ユキ兄、まだ未成年なんだから」

「……黙っててくれよ、メグちゃん……」

 笑い声に背を向けて。

 俺は立ち去った。

 見たくなかった。





「ユキ兄ちゃんには私もお世話になったな」

 甘すぎるほどのコーヒーをグイとひと飲み。

 傍らに座る相川は、チビチビと舐めるように口付けて行く。

「試験の時とか、よく勉強教えてもらったし。大学入試の時も合格できたのはユキ兄ちゃんのおかげだったかも」

 ハハハと、俺は小さく笑う。

「お前、本当によく家に来てたもんな。兄貴も家庭教師代取ればよかったんだ」

「ユキ兄ちゃんはそんな事しないもんね」

 兄貴は県下で名門と呼ばれる高校へ行き、難関と呼ばれる大学に入った。

 でも俺は結局、兄貴に勉強を見てもらった事は1度としてなかった。

「先輩とユキ兄ちゃんが付き合いだしたのって……いつなの?」

 ズキンと、心臓が鳴る。

「……知らね」

 知らない……メグさんはいつだって否定していた。

 でも。

 俺は知ってる……メグさんが呼ぶ兄貴の名前が、「ユキ兄ちゃん」から「崇之」に代わった瞬間を。

 あの時俺は。俺は……………。

「……辛いね」

 相川が呟いた。

 その言葉は俺への労りだったのか。それともメグさんの悲しみを思ってだったのか。

 俺は立ち上がった。

「ばあちゃん、大事にしろよ」

「ん……。ありがと」

「お前も無理すんな」

「……」

 缶を捨てる。

 そして立ち去ろうとした瞬間。

「喜多川」

「……ん?」

「……覚えてる?」

 何を? と振り返る。

「中学2年の時。ほら、弓道部で、主将になったメグ先輩が新入生に言った言葉」

「……」

「私はずっと覚えてる。……あの言葉。多分、忘れられない」

 ――弓道は、誰かと競う物じゃない。

「戦い続ける事になるのは、己自身」

「……」

「喜多川、放つ瞬間を見誤るな」

「……うっせぇよ」

 狙う的の点と、俺が番えた点が線となる瞬間。

 でも俺は。

「……放てなかったよ」

 ボソっと答えた。

 相川の返事は聞かなかった。

 聞こえなかったなら、それでよかった。





 高校時代、明け暮れるほどに弓を打った。

 でも本当に打たなければならない時、俺は打てなかった。

 矢を持つ事さえ、……せぬままに。


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