2、〝クロスリンク・ワールド〟-2-

 【クロスリンク・ワールド】。

 β版配信開始から、1ヶ月が経った。

 俺は……まだ、その世界に踏み込めないでいる。




「瞬介、今日飲んでく?」

 堺と2人で行く店は学生時代から変わらない。会社から5駅向こうにある総合駅の、外れの外れのそのまた外れにあるような店。仲間内では「隠れ家」と呼ばれていた、言うなれば、貧乏学生でも行けるような所。

 社会人になって懐事情は変わったけれども、堺と行く場所は変わらない。

 ほぼ満席の中、何とかカウンターの端に空きを見つけて、俺達は席の間を踊るようにしてそこまで向かった。

「生中2つねー」

 店内は熱気で暑いくらいだ。上着を脱いでさっさとネクタイを緩める。

「んじゃま、とりあえず乾杯」

 コンと1つ、一気に流し込む。

「……ふぃー」

 適当に食べ物を頼んで行くと、不意に堺がハハハと笑った。

「お前は変わらんねー」

「あん?」

「出汁巻き卵。好きだねー」

 言われて初めて、無意識に頼んでいた事に気がついた。

「悪いかよ」

「いいんでない? かわいい」

「……っせー」

 堺はまだ笑っていたけれども、今の俺には、耳を流れて行く音でしかなかった。

 何となく、目に映るすべてが通過して行く風のようで。

 時間だけがぼんやりと過ぎて行く。

「で、どうよ? 調子は」

 最初にテーブルに運ばれてきたのは、堺が頼んだ軟骨から揚げだった。

「……悪かったな、北山商事の件」

「あ? ああ、そっちはもう何とかしたけどさ。らしくないじゃん、あんなミス。先方は200だったよな?」

「課長にかなり言われた。新人がやるミスだって」

 桁間違えてんだから。

 ……俺の凡ミスはギリギリで堺が気付いてくれたから良かったものの、下手すれば取引先を含めてかなり広い範囲に被害が及ぶ所だった。

「らしくないねぇー」

 堺は繰り返した。俺は返事せずにビールを飲んだ。

「課長も心配してた。お前やっぱ、まだ兄貴の事、」

 言いかけて、だがすぐに堺は言葉を切って黙り込んだ。

「……交通事故だったよな」

 メグさんの前では絶対にこんな顔見せたくない。例え笑顔になれなくても、沈んだ顔だけは見せたくない。

「前日に徹夜で詰めてたんだ。そりゃ居眠りもするわ」

「式の前日に職場で缶詰かよ。ヤだなそれ」

「同僚の人の話だと、一端退社した後にどうしてもやっておきたい事があるって戻ったらしんだ。家に連絡があったのはその後だ」

 ――今日は帰れないって母さんに言っといて。

 ――明日はきちんと行くから。ああ、大丈夫だから。

 ――……ハハ、わかってるよ。

 思えば、それが兄貴との最後の会話だった。

「で? 嫁さんはどうしてるんだ? お前の姉さん」

 姉さん――その時俺はどんな顔をしたのか。

 ただ堺は少し慌てた様子で「ああ、違うか」とすぐに訂正をした。

「籍はまだだったんだっけ? 戸籍上は変わりなしか」

 変わったのは兄貴がいなくなったという事だけ。

「……」

 俺が返事をしないから、堺も黙った。

 1杯目のビールはほとんど同時に空にした。

 つまみは次から次へとやってきた。料理が早いのがこの店の売りだ。そしてそれが今日は無性にありがたかった。

 それから俺達は、会社の話や学生時代の話をした。

 兄貴の話も嫁さんになろうとしていたメグさんの話も、もう出なかった。

 それがありがたかった反面、すまないと、俺は内心堺に何度も謝り続けていた。




「んじゃま、月曜日にな」

 冬は星が良く見える。

 大して星に詳しいわけじゃないけれども、俺でもわかるオリオンがある。

 不思議な形に繋がる星。でももっと不思議なのは、あの点を線にして形を作った昔の人たちだ。

 点が線になり、そこに絵を描き物語を作る。神話が生まれる。

 そこには生命があり、喜びがあり悲しみがある。愛があり憎しみがあり、最後には滅びが待っている。

 神話の神でさえ滅びや痛みから逃れられないのに、俺達にないわけがない。

 いつかは終わる俺達の世界。俺が生きているというこの事実。

「……」

 久しぶりに飲みすぎたと思った。帰りの電車の中、ちょっと吐きかけた。実際に道端で吐いている人を見かけたので、ああはなるまいと心に決める。

 自宅まであと少しの所、電柱の下で俺はスマホを取り出した。

 着信は何もなかった。

 メグさんと最後に会ったのは二週間前の四十九日の時――その時は話す事もできなかった。

 無意識に溜め息が出た。

 兄貴の最期の顔をメグさんは見ていない。遠慮してもらった。見せたくなかった。

 居眠り運転、自分から壁にぶつかって行った。

 誰かを跳ね飛ばしたわけでも、巻き添えにしたわけでもない。ただ1人だけ。

 ブレーキ跡はあったけれども、遅すぎた。

 あの日あの瞬間、誰があんな未来を予想できただろうか? メグさんの幸せそうな笑顔が、絶望に変わってしまうなんて。

「……ごめん、兄貴……」

 あの時俺があんな事思ったからかな……決して口にできない思いを俺は抱えている。

 あの日からずっと。

 少し……人前に出るのが怖い。

 目を閉じる。拳を握る。爪が食い込む。でも痛みはない。

 ……幾らか風に吹かれてから歩き出す。

 その時着信が鳴った。メールだ。メグさんからだった。

 兄貴に借りてたCDを返したいからっていう内容だった。俺はすぐさま返事を打った。

 ――俺が兄貴に言った最後の言葉は、

『メグさんの事、幸せにしろよ』

 兄貴は笑ってわかってると言った。

 わかってると……そう言っていたのに。

「……」

 オリオンよりも明るい星がある。けれど俺はその星の名前を知らない。


  ◇


「ごめんね遅くなって……出ようとしたらお母さんに捉まっちゃって」

 俺はパタパタと手を振って、

「俺も今来たとこ」

 メグさんがすぐに店員さんを呼ぶ。

「瞬君、何にする?」

「俺は……コーヒーで」

「じゃあ私も。2つ」

 メグさんがコートを脱いで行く様を、俺はぼんやりと見つめた。

「呼び出しちゃってごめんね」

「ん……暇だから。大丈夫」

 言いたいのは本当はそんな言葉じゃなかったけれども。

 本当の事を言ってそれが軽率な言葉になるのが嫌だった。俺は代わりに笑って見せた。

 コーヒーが来るまでの間、俺達は何となく黙って過ごした。

「これ、崇之に借りてたCD」

 運ばれてきたコーヒーに口付けるより先に、メグさんは鞄からそれを取り出しテーブルに置いた。

 ジャケットを見て俺はおや? と思った。

「兄貴、こんなCD持ってたんだ……?」

 有名な女性シンガーだ。でも兄貴がこの人のCD持ってたなんて意外だった。

 メグさんはそれには触れず、返すのが遅くなった事を謝った。

 俺は一瞬だけ考えた後、

「これはメグさん持ってて」

「え……?」

「もらって。兄貴ならそう言うと思う。……迷惑でなければだけど」

「……」

「持って帰ってもさ、家に聞く人いないし」

「……いいの?」

「うん」

 形見にでもしてと言いかけて、俺は慌てて飲み込んだ。

 そんな言葉は少し重い。

 今は世界の全部がきっと、重いから。

「仕事どう? うまくいってる?」

 少しでもメグさんが傷つかない言葉を探して。笑えない状況で笑い続けて。

 ……俺にはそんな事しか思いつかない。メグさんの傍でどうしていたら……。

「うん……私ね、仕事辞めようかなって……」

 メグさんの抱えた痛み。

 それはきっと永遠に俺にはわからない。

「どうして……」

 メグさんは少し視線をそらして笑った。

「うん……ちょっとね」

「ちょっとって」

「……いられないかなって、もうあそこには……」

「……」

「上司も同僚も止めてくれるんだけど……」

 辛いんだとメグさんは一言も言わなかった。でも。

「どういう顔していたらいいのかわかんないし」

 哀れまれたくない。

 でも平気でもいられない。

 仕事はしなくちゃならない。

 でも本当は。

「……」

 兄貴の馬鹿野郎。

 この人、幸せにするっつっただろうが。

 なのに……何でこんな顔させてんだよ。

「そか……」

 俺は小さく息を吐き、

「……いいんじゃない?」

「え?」

「うん、気分転換に新しい世界探すのもいいかもね」

 コーヒーに今日はミルクと砂糖入れる。砂糖はスプーンに1杯だけ。

「ちょっと休養するのもいいしさ。それもいいかもしんない」

「……」

「昔から溜め込むじゃん。どうにもならない所まで煮詰まるじゃん? ――メグ先輩は」

 メグさんがじっと俺を見た。その目を何て形容したらいいのかわからなかった。寂しそうでもあり驚いているふうでもあり、……もっと別の感情のようでもあり。

「メグさんが生き易いように……生きていけばいい」

「瞬君……」

「って、先輩に生意気言ってますけどね」

 俺が笑うと、メグさんも釣られたように微笑んだ。

「何か、懐かしいね」

「ん?」

「〝メグ先輩〟」

「そうスか?」

「ふふっ……そうだよね、瞬君そう呼んでたよね」

「俺だけじゃないっしょ。皆そう呼んでたし」

 後輩は全員、憧れてた。

「あの頃からメグさんって溜め込むタイプだったじゃん? 覚えてる? 夏の大会の時なんか」

「そうだっけ? よく覚えてない」

「俺はしっかり覚えてますよ? 弓道部後輩の語り草だって。緊張しすぎてメグさんが行方不明になったって話」

「えー、何それ、そんな事してないよ」

「何言ってんの。顧問の大杉ちゃん命令でメグさんの捜索隊が組まれたんだよ? 俺、その時転んで捻挫して」

 脳裏に蘇る過去。

 走った記憶、笑った記憶。

 まざまざと思い浮かぶのに、もう戻れない夏。

「考え込んで行方不明になるくらいなら、仕事、しんどいなら退いてくださいな」

「……辞めて次見つかるかな」

「見つかるでしょ、メグさんならきっと」

「……」

「気楽に行こうよ」

 自分に言い聞かせているみたいだった。

 気楽に、気楽に。

 ……それが出来る時、出来る限りは。




「そう言えば……」

 もうすぐコーヒーも飲み干してしまう。

 コーヒーがなくなったら、こうしてメグさんと向き合う時間も終わってしまう。

 次はいつ、どんな機会に?

 透けて見えたカップの底にそんな事問いかけている時、メグさんが言った。

「瞬君、やってみたの?」

 一瞬何を言われているかわからず、俺は首を傾げた。

 メグさんは少し頬を赤らめて、

「あの……崇之が最後に作ったっていうゲーム……」

「ああ、【クロスリンク・ワールド】?」

 問われて正直困った。でも嘘をつくわけにもいかない。

「……まだ」

「……」

「一応パソコンにソフトはダウンロードしてあるんだけどね」

 兄貴の同僚の佐伯さんがファイルを送ってくれたから。そこから簡単にダウンロードできたんだけど。

「中々やる時間がなくって」

 それは建前。

 本当は、やりあぐねていた。

 時間はあった。でも扉を開ける勇気が持てなかった。

 兄貴が描いた世界に入る事。それは兄貴の中に入るようなもの。

 生前の兄貴が、怖いと思った事はなかった。

 でも今ははっきり言える。俺はその世界に入るのが怖い。

「そっか……」

「時間ができたらとは思うけど……どうかな、中々まとまってゲームやる時間ないかも。学生の頃はやってたんだけどさ。社会人になったらちょっとそういうの卒業しちゃったかな」

 俺は嘘つきだ。

 そんな俺の嘘の前にいる彼女は、背中に暗闇を背負っている。

 学生の頃、光だと思っていた人。

 ……そして今も、この人にだけは、

「……ってのは、建前で」

 嘘を付いてはいけないと――誰かが耳元で囁いた気がした。神様だったかもしれない。

「本当は……ちと、怖くて」

「……」

「はは、笑ってよ。何か、覗くの怖くて。兄貴の世界――兄貴が関わってたのは背景とか画像とかなんだろうけど。でも……何か怖くてさ、俺」

「……」

「よくわかんないけど、情けないって自分でも思うんだけど」

 メグさんは首を横に振った。

「そんな事ない」

「いやもう……兄貴がまさかあんなふうに、」

 突然消えてしまうなんて思ってもいなかったから。

「ごめ」

 メグさんの前で開きたくない。心の扉。

 蓋をして、錠をかけて、奥の方にしまってたのに。

 不意に開いてしまったら、涙が出てきたし。

「ごめん」

 少し時間頂戴。

 抑えるから。俺が泣くわけにはいかんから。本当に悲しいのはメグさんなんだから。

 俺はメグさんの前で笑ってなきゃいかんから。

 兄貴を思って泣くわけには、俺は、俺は……。

「瞬君」

 コーヒーカップを掴んで。俺は力いっぱい握り締めてた。

 その手がふっと、温かい物に包まれた。

 ギュッと瞑っていたその目を開くと、目の前にメグさんの顔があって。

 泣いてるメグさんが、こっち見てて。

 ああ……と思った。

「メグさん」

 ……行かなきゃならないんだ、俺たちは。

「……一緒に……行って」

「え……」

 行きたくない……でも。

 見なきゃならないんだ。定めみたいに。

「兄貴の世界に……俺と一緒に行ってくれませんか?」

 知らなければよかった。でも俺達は知ってしまった。

 亡くなった兄貴が最後に残した心。

 見ない事には進めない。

 メグさんは俯いた。俺の手を包む手に力がこもった。

 見ない事には、この先を生きていけない。

「……うん」

 生きてる以上は進んでいかなければいけない。




 死んだ人の魂は四十九日だけこの世に留まるのだという。

 ならば兄貴は今どこにいるのか。

 少なくともその心はまるで――電子の世界から俺達2人を呼んでるみたいだった。

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