第4話 囚人番号542 マリーの首

 これは囚人番号542の正式な記録ではない。

 ぼくが働くこの刑務所は、堅牢で、一般人の目にはまず触れない場所にある。ぼくもここへの正式な道すじは知らない。だからこそ、誰にも侵されない安全な要塞として、喜んで服役する囚人も中にはいる。


 542は癖の強い黒髪を肩の辺りで切った、二十八歳の陰鬱な女性だ。小柄で、前から見ても横から見ても薄い体をしている。しかし、彼女は肉もつまめないような細腕で、自分のルームメイトを殺して解体した。


 542は自由時間はたいていシャワー室にいる。入浴は既定の時間しかできないので、シャワーを使うわけではない。ただそこに座っているだけだ。そこが一番落ち着けるのだと言う。


 まだ湯気の匂いがするシャワー室に入ると、542は溝に黒カビが目立つ、冷たいタイルの上に直で座っていた。彼女のいつも目の下には殴られたあとのようなクマがある。

「私の部屋は? 何か届いた?」

「何も届いていませんよ。新しい入居者もまだいないそうです」

 ぼくは持ってきたパイプ椅子を置いて、腰かけた。カウンセリングは毎回このやり取りで始まる。部屋とは独房のことではなく、捕まる前に彼女がルームシェアをしていた場所のことだ。

 

 542はシェアハウスをしていた幼なじみの女性を殺した。被害者の名前はマリー。死因は果物ナイフで喉を刺された失血死だった。

犯行は残忍というべきだが、ほかの囚人のように科学的にあり得ないものではない。問題なのは542が三日半かけて被害者を解体した後だ。


 彼女は解体が済むとバラバラにしたパーツを様々な場所に隠したが、唯一捨てられなかった頭部だけは冷蔵庫にしまった。翌日、彼女が冷蔵庫を開けると、見知らぬ女性の生首が入っていた。彼女は扉を閉め、一日をベッドの上で過ごした。次の日、首は三つに増えた。その次の日から、彼女はキッチンに立ち寄らなかった。ある朝、542は鈍い音で目を覚ました。音のした方へ向かうと、冷蔵庫は半開きになり、冷気と共に、入りきらなくなったそれの丸く巨大なシルエットがこぼれていた。542は寝間着のまま自首した。

 首の身元はすぐわかった。当時ある共通点を持った女性が死ぬと、首だけが持ち去られる事件が起こっていたからだ。被害者の名前は、マリー、麻里、マリア。


「何も届いてなければいいの。入居者なんてどうでもね」

「自首が遅ければ、フランス王妃の首も届いていたかも」

 ぼくが言うと、542は目を剝く。

「カウンセラーのくせにそういう冗談言って楽しい?」

 彼女は身震いして、自分の肩を抱えた。僕が何も言わなくても濡れた床の上は底冷えするだろう。

「私が殺したのは最初のマリーだけって立証できれば、こんなところすぐ出られるんだけど。戻ったらまた首が届かないとも限らない」


 542が出頭したその日、人間ではないマリーが死んだ。ある国の動物園で七歳になったツキノワグマのマリーだ。彼女の家に家宅捜索は、キッチンの床に巨大なクマの首が転がっているのを発見した。


 彼女は束ねてある清掃用のホースをもてあそびながら言う。

「あのぬいぐるみは、まだ家にあるの」

「いえ、警察が証拠として持って行ったそうです」

 542の自宅のベッド脇には、一体のテディベアがあった。乾いた血がこびりついたその足の裏には、金色の糸でこう刺繍してあった。

『**とマリーはずっと一緒』

 血痕で読めなかった方の部分は、542の名前だったのだろう。


「十三歳の頃の誕生日にあの娘からもらったの。捨てようと思ってたけれど、手間が省けたわ」

そう呟く542の横顔はどこか寂しそうだったので、ぼくは来る前に彼女に話そうと思っていたあることは言わずにおいた。

先日とある海でマリー号という名の船が沈没し、ほとんどのパーツは引き上げられたが、“船首”がまだ見つかっていないことを。

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