第19話 囚人番号917 勇者
これは囚人番号917の正式な記録ではない。
ここにいる囚人たちはほとんどが本人の納得ありきで収容されている。科学で解明できない異常な犯罪を犯してしまった彼らは自分の力に怯え、さらにひどい状況になるよりは、と自分自身の心に檻を作っている。
しかし、そうでない囚人もわずかながら存在する。
自身の罪を受け入れていない者。罪を受け入れてはいるが、それ以上に家族や職業など俗世に置いてきた何かを渇望している者。罪の自覚がある上にまた新たな犯罪を重ねようとする者。
囚人番号917は三番目に該当すると言っていいのかもしれないが、ぼくはそう簡単に片付けられないと思っている。
談話室の机に肘をついて、組んだ指を忙しなく動かす囚人番号917はぼくを見るなり、
「仮釈放の許可は出たか?」
「今掛け合っていますが、難しいと思います。ぼくにそういう権限はありませんので……」
ぼくは椅子を引いて彼の前に座った。
麦の穂のような金色の髪は汗で頰に貼りつき、蒼白な顔を縁取っていた。
ひどくやつれて憔悴しきった面差しはこの刑務所の中で珍しく囚人らしいとぼくは思う。
「あんたに無理言ってるのはわかってるよ。でも、そろそろ村に帰らないと。また奴が来るんだ。俺じゃなきゃ止められない」
囚人番号917は既にボロボロの爪を噛んだ。ぼくはカルテに視線を落とし、妄想性の文字を見る。
二十代後半、金髪碧眼、囚人服の下からでもわかる引き締まった体躯の彼は、故郷ではその要望にふさわしく勇者と呼ばれていた。
彼の生まれた村は文明から距離を置き、少ない村民が畜産と農業を営む牧歌的な村だった。
かつての囚人番号917は村長の甥っ子にあたる青年で、年老いた長の代わりに喧嘩の仲裁から柵を乗り越えて襲ってきた狼の討伐まで、村での問題ごとは全て引き受けていた。
よく手入れされた馬に乗り、猟銃と革の鞘に包んだナイフを手に、風を切って村を周る彼は憧れの的だった。事件を起こすまでは。
そう書いたのは、田舎の事件にも食らいつくゴシップ誌だったはずだ。
「あいつとは何なのでしょうか」
ぼくの問いに彼は皮肉な笑みを浮かべた。
「言っても信じねえよ、先生」
諦めの色が滲んだ声に、ぼくはカウンセラーらしく穏やかに首を振る。
「ここで信じられないなんてことを言っていたら仕事になりません」
囚人番号917はわずかに目を逸らし、溜息をついた後口を開いた。
ある日、囚人番号917は村の家畜たちを守るための囲いに大きな爪痕を見つけた。
たまに狼よりもずっと鋭く大きく、何より特筆すべきことは片手の指が八本なければ作れない爪痕だった。
彼はいつも外敵が現れたときにするように夜警を買って出た。
いつもと違うのは一週間もあれば撃ち抜いた獣の死骸を提げてくる彼が半月費やしても夜警をやめなかったこと。
たまに傷ついた腕や脚を隠しながら、夜中に人目を偲ぶように帰ってきて、血まみれの服を焚き火で焼くこと。
そして、村の最北にある墓地に夜な夜な出入りすることだった。
「そういっても、俺にも何て言えばいいかわかんねえんだ……あれは人間でも獣でもねえ……もっと恐ろしい何か別の……」
囚人番号917の目に濁った光が灯る。
二ヶ月が経った頃、村民は傷を負って帰った彼が眠った頃、村の墓地を掘り返しに行った。
まだ新しい土の山を農具で削り、村民たちは見た。
肉がわずかに残った骨の塊や、今にも脈動を始めそうな臓物、おびただしい死骸の山を。
日が暮れて目を覚まし、猟銃とナイフを携えて家を出ようとした囚人番号917を、山を隔てた遠くの街から呼び出された警察が取り囲んだ。
「ひとも動物も俺が殺したってことになった。じゃあ、何で誰も家族や家畜がいなくなったって言う奴がいない? 死骸の中でひとりでも身元がわかった奴がいたか?」
彼はテーブルを叩き、白く関節が浮いた拳を握りしめた。
荒い息を吐いた彼はくたびれた表情に戻ってぼくを見た。
「先生、煙草あるか?」
ぼくは囚人番号917に煙草とライターと携帯灰皿を差し出した。
深く煙を吸い込んで、彼は独りごとのように言う。
「俺が戻らなきゃ村が襲われる。死人が出るなんてもんじゃない。放っておいたらあいつは……信じないよな?」
ぼくが首を横に振ると彼は痛みに耐えるような笑みを浮かべた。
「村をひとりで守ったあなたを村の皆さんはひと殺しだと罵りました。それでも、あなたは村を守りたいのですか」
囚人番号917の咥えた煙草の先端の炎が赤く煌めいた。
「昔、親父に言われたんだ。勇者だなんだって褒められて戦うのは当たり前だ」
彼の指先から灰がぼろりと落ちた。
「自分が守った場所に自分の居場所がなくても戦えるのが勇者だって」
談話室を出て、食堂の前を通りかかるとテレビにニュースの画面が映っていた。
どこかの国の小さな村で獣害が発生し、村民二名が死亡、三名が重軽傷を負ったらしい。
ぼくはその村の名前を確かめる前に足を早めて通り過ぎた。
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