第18話 囚人番号621 ありがたいお水

 これは囚人621の正式な記録ではない。


 庭の噴水にまた囚人が飛び込んだらしい。これで二度目だ。特殊な引力が発生しているのではないかと思う。


 看守に両脇を抱えられて連れて行かれる囚人に近寄りかけて、別の看守に止められた。今回のカウンセリング相手はずぶ濡れで虚ろな目をした相手ではないらしい。


 ぼくは暗い廊下を通り、ある独房の前で足を止める。待ち合わせをしていた旧知の友人のように微笑んで手を挙げた彼が今日のぼくの患者、囚人番号621だった。


「彼は無事だったようですね」

「あの噴水で溺れるには技術がいりますからね」

 鉄格子の前にパイプ椅子を置いてぼくは腰掛ける。

「残念です。彼は救いを求めていたんですよ。神のお導きに従っていればあれほど会いたがっていた奥方に会えたというのに」

 彼は心底残念そうに溜息をついた。


 囚人番号621は金髪に青い目をした男性で、学校の教師や小児科の医師のような印象を受ける。

 彼の罪状は詐欺罪ということになっているが、実際の判断は難しい。この刑務所に送られるのにふさわしい、不可解な余罪がついているからだ。


「噴水に飛び込んだ囚人と直前に会っていたそうでしたね。どういった話をしたんですか」

「相談に乗っていたんです。昔からそういったことを持ちかけられることが多くて。頼りにしていただけたなら応えたいと思うのは当然です。彼は獄中で奥方の訃報を受け取ったそうで、いたく傷ついていましたから」

「そして、結果がこれですか」

 彼は目を細めた。


 囚人番号621は教師でも医者でもない、新興宗教の教祖だった。

 自分は傷ついたひとを救いたい一心で働いていただけで、何度も固辞したが周りになってくれと頼まれて断りきれず教祖の座に就いただけだと語った、と彼のカルテにある。


 教団の名前は伏せるが、詐欺の手法は神の加護がある聖水を信者に売りつけるという、お決まりの手口だった。貴重で霊験新たかなありがたい水。

 しかし、奇妙なのはその水だった。

「噴水の水に手を加えたりなどはしましたか?」

 彼は「ええ、もちろん」と微笑んだ。


 囚人番号621が売りつけた水の効能は病気の治療などではない。会いたいひとに会えるというものだった。

 彼が洗礼を施したという水を器に入れて差し出されると、ひとはその中に心から会いたい人間の姿やもう一度帰りたい場所を見るという。

 最初は懐疑的だった者も実際、水の表面に映った光景を見ると言葉を失ったそうだ。

 蜃気楼の中の都のように映る面影を求めて、信者たちは水を買い、毎日身体に取り入れた。

 そうすればいつかそこにいたれる、それこそが神の導きだと語る教祖に促されて。


「あなたの話を聞いた囚人が無事であれば失敗したと捉えている。そうですね?」

 囚人番号621は顎に手をやって少し考え込むような仕草をした。

「無事というのは一般的な見解から見てのことです。みなさんが無事でないと思う状態こそ真の救いなんですよ」


 囚人番号621から買った水を飲み続けた信者はある日、彼の前に姿を現さなくなる。

 詐欺に気づいて憤慨したからではない。会いに行けなくなったからだ。

 信者は跡形もなく消え去り、彼ら彼女らがいた場所には買った水と同じ質量の水溜まりだけが残っている。

 それを囚人番号621は瓶に詰めてまた教団に戻るのだ。


「聖水を飲んだ人間が聖水の原材料だとしたら、一番最初の水はどうやって生み出したのですか?」

 興味本位で聞いたぼくに返ったのは微笑だけだった。


 囚人番号621は背を向けて、むき出しの洗面台の方へ行く。彼が蛇口をひねると、囚人の私物にしては珍しく水垢ひとつない清潔な洗面器が音を立てた。


 器いっぱいに汲んだ水を、囚人番号621はぼくに差し出した。

「何か見えますか?」

 ぼくは水面を覗き込んだ。ぼくの顔と頭上の蛍光灯の明かりが砕けて揺らいでいた。

 ぼくは首を振る。


「貴方は私と似ているかもしれませんね」

 囚人番号621は穏やかな笑顔を浮かべると、洗礼を施すように洗面台に水をそっと注いで残らず捨てた。

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