第17話 囚人番号088 鮫嵐

 これは囚人番号088の正式な記録ではない。


 刑務所を訪れると、入り口に巨大なクレーンがキリンのような首を忙しなく動かしていた。フックがぶら下げているのは材木でも看板でもない。

 なぜ自分がここにいるのかと呆けたように口を開けた、巨大な鮫の死体だった。


「鮫よ、先生。見た? 鮫だったわ!」

 カウンセリングルームで手錠をかけられた088が右目を見開いて叫ぶ。

「ええ、あなたの仕業ですか?」

 子どものように笑う彼女に、プロフィールにあった元海兵隊という面影は微塵もない。


 088が起こす犯罪は、ひどく馬鹿げていて、ひどく厄介だ。

 彼女の罪状はひとつ、任意の場所に鮫を降らせること。

 太古の祈祷師が雨乞いで各地に雨を降らせたように、088はビル街だろうと、砂漠や雪原だろうと、真上からミサイルを投下するように巨大な鮫を落としてみせる。


「今日はね、夢で鮫を見たの。そうしたら、今朝鮫がここの噴水に落ちてきたのよ!」

 そう言って彼女は右目を見開く。左目がないから、そっちを見開くしかない。

 顔半分に巻かれた包帯と、囚人服の隙間から覗く肌の痛々しい傷だけが、歴戦の軍人だったことを告げているようだ。


「きっとあの日が近いからね。鮫は嫌よ。鮫は私を好きみたいだけど。嫌いだわ……」

 088の指が小刻みに揺れ、手錠が机にぶつかって、音を立てる。

「あなたの船が、襲われた日ですか」

 僕はそう言って、088のプロフィールに目を走らせる。


 彼女はある国の海軍で、若くして相当な地位にいたらしい。その頃の彼女は質実剛健。まさに女軍人らしい強かな女性だったという。


 しかし、088の人格は、彼女の乗った船と彼女の部下たちとともにバラバラになってしまった。

 魚雷で彼女の戦艦は木っ端微塵になり、片目を失った他重傷を負った088だけが、大海に浮かぶ船の欠片に引っかかって海に引きずり込まれずに済んだ。


 運ばれた病院で錯乱を起こし、何度もの自殺未遂を経て、何とか退院した彼女は、高貴な軍人から空から鮫を降らせる囚人番号088になっていた。


「そう、鮫が私の船を襲ったのよ……毎回この時期になると傷が痛むの。もうずっと前のことなのに……」

 俯いた088の包帯がズレて、生々しい火傷跡が覗く。


「大丈夫ですよ。この刑務所は堅牢でひとりの脱走犯も出しません。鮫一匹が飛び込んできたくらいじゃ死人は出ませんから。今日もそうだったでしょう?」

 088は眉根を下げて、曖昧に笑う。


 不思議なのは、彼女が自分の戦艦を襲ったものを魚雷ではなく、鮫だと思っているということだ。

 プロフィールは、088の采配の失敗で船が沈んだことを無慈悲に告げている。


 自分のせいで部下が大勢死んだことを受け入れられない彼女は、気づけば対処できていた敵の攻撃ではなく、自然の力という不可抗力でそうなったと思い込みたいのではないだろうかと、ぼくは思う。


 それに応えるように、人智を超えた力で、所構わず鮫が降り注ぐようになった。

 例えば、台風で巻き上げられた鮫が遠い海から飛んできたとして、人間がどう対処できるだろう。


「思ったのよ。私、この刑務所の塀に剣をたくさん並べておくの。槍でもチェーンソーでもいいわ。そうしたら、いつ鮫が飛んできても真っ二つにできるでしょ?」

 088の右目が微笑みを作る。

「前向きに検討しておきますよ」

 無邪気で馬鹿げた囚人になった彼女は、自殺未遂を起こさなくなったらしい。

 あの事故は彼女のせいではなく、どうしようもなかったと励ますように、今日も鮫が飛ぶ。


 鮫が彼女を好きだというのは、あながち間違いではないのかもしれないとぼくは思った。

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