第16話 囚人番号175 正直者
これは囚人番号175の正式な記録ではない。
爆弾魔とその仲間とのいざこざにけりがつき、食堂周辺のブロックが焼失した事件から三ヶ月、この刑務所に新たな囚人が来た。
それが今日、ぼくがカウンセリングを担当する175だ。
命の危険に晒されたストレスのせいか、あの事件以来、カウンセリング希望者は右肩上がりに増えている。
散々ひとりの囚人に肩入れしたのだから、しばらくは大人しく仕事に邁進しろという啓示だろう。
今、予定時間を過ぎても現れなかった175を探して、中庭から食堂へと続く道を歩いている。
工事が終わるまでクッション性のある材料で補修された廊下は、子どもが遊ぶトランポリンのように見えたが、ところどころに件の爆発の爪痕が黒々と生々しく残っていた。
廊下の先で押し殺した不穏な声がして、ぼくは足を早める。
道の向こうには三人の囚人の背と、その肩と肩の隙間から覗く細いシルエットがあった。
「すみません、175を見ませんでしたか」
わざとらしく声を張り上げると、囚人たちが一斉に振り向く。
彼らはぼくをしばらく睨んで動かなかったが、ひとりが唾を吐く音を立て、ばらばらと散らばって立ち去った。
彼らが消えた後に残された、押しつけられた壁にそのまま沈みこんで呑まれそうなほど線の細い囚人こそが175だった。
「遅れてすみません。延長は結構ですので……」
消え入りそうな声で謝る彼に、気にしないように言い、ぼくたちは談話室の椅子に向かいわせに座る。
「それより暑くはありませんか」
ぼくが尋ねると175は曖昧に頷いた。
彼は夏も近いというのに、オレンジの囚人服の下に黒の長袖タートルネックのインナーを着込み、麻の手袋をしていた。
加工する前の羊毛のようにくせのある髪を垂らし、修行僧のように痩せた、俯きがちなこの青年は、いかにも粗暴な囚人たちに目をつけられそうだ。
更に彼の罪状もひと役買っている。
刑務所で最も嫌われるのは性犯罪者だ。
囚人にも囚人なりの正義感があるのだろう。
正義を、他の人間に暴力を振るう口実と言い換えてよければの話だが。
「生前母から言われていたんです。男でもみだりに肌を出すなと……」
ぼくは思わず小さく目を見開き、慌てて表情を打ち消す。
「おかしい、ですよね。先生は僕が何で捕まったかご存知なんですから……」
175は、あまり栄えていないが自然豊かな片田舎に住む女性の息子の元に生まれた。父親は彼が生まれる前に蒸発していたらしい。
女手ひとつで彼を育てた母は敬虔というより最早狂信的な女性で、175に様々な戒律を課して育てた。
一、嘘や隠し事をしてはならない、二、みだりに肌を見せてはいけない、三、欲を持ってはならない……。
175は母を喪って働きに出る十六歳まで、母以外の女性と話をしたことがなかったという。
工場で働き、慎ましく勤勉に暮らす彼の周りにはある噂があった。
175との露出狂が出るという噂だ。
「先生は、どう思いますか」
「……無意識下で抑圧からの解放を望んでいた、ということは考えられます」
ぼくの答えに彼は何も言わず、手袋の上から爪を噛んで、手を膝の上に置き直した。
175と巷の露出狂を結びつけるには、三つの問題があった。
まず、彼がとてもそういう人間には見えないことだ。
問題なのは、あとのふたつだ。
露出狂の目撃情報は、175の勤務が終わった五分後に工場から十キロ離れた場所で目撃されたのから始まり、同時に別の場所で、一般人の立ち入れない火山の火口につけられた監視カメラに、インターネット上にしか存在しないCGで作られた風景にと、あり得ない状況に現れ出した。
そして、最後の問題は目撃情報がどれも曖昧すぎたことだ。
コートの前をくつろげる彼の姿は、なぜか不可解な光で遮られほとんど目視できない。
監視カメラの映像も、事件の瞬間だけ眩い白一色に塗りつぶされる。
まるで神の後光のようだと語った被害者がいる。
「無意識にどこまでも彷徨って服を脱ぐ犯罪者になった僕を、神も母もお見捨てになるでしょうね……」
最後の審判の前に祈りを捧げるようにこうべを垂れる彼に、ぼくは言う。
「各地で見られた貴方と共にあった光は、まだ見捨てられてないというサインだと思います。あなたを犯罪者にしまいと必死で隠そうとした。それが神なのかお母様か、ぼくにはわかりませんが」
175は泣きそうな顔で微笑んだ。
彼が捕まる原因になった事象を、彼自身は知っているだろうか。
彼と瓜ふたつの露出狂は、某国の極秘に置かれた軍事基地にも現れた。
探査用に飛ばしたドローンの映像を回収した軍人たちは、敵国の基地のど真ん中を指し示すように強烈な光に包まれる全裸の男が立っているのを見るはめになる。
この男は何者だと泡を食った軍人たちの、情報網を総動員した捜索により、175は逮捕され、ついでに某国の軍事基地も明るみに出された。
ぼくは馬鹿げていると思いつつ、想像してしまう。
彼は母親の戒律のふたつ目を破ってでも、より大切なひとつ目を守ろうとしたのではないだろうか。
つまり、嘘や隠し事をしてはならない、という戒律を。
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