第14話 囚人番号932 キッドナッパー
これは囚人番号932の正式な記録ではない。
現在この刑務所の中で最も警戒される犯罪者といえば、国際的な犯罪組織にいた爆弾魔でも、リスナーを洗脳するラジオのDJでもない。932だろう。
入所以来ひとことも発していないというその彼が今日、カウセリングの予約を入れた。
食事すら自室でとらされている932に、談話室の利用許可が下りるはずはなく、ぼくが独房を訪れることになっている。扉の両端には警備員が置かれ、最新式の鍵がつけられていた。空気は乾燥しているが、どことなく黴の匂いがする。
分厚い扉が開くと、色褪せたような茶色の髪と髭を伸ばした三十代後半の男がいた。932だ。
彼は、「どうも」と言ってから口元に手を当て、
「おお、すっかりおっさんの声だ」
と呟いた。十七年ぶりに自分の声を聞いたのだろう。
ベッドに腰掛ける932と向き合い、備え付けのパイプ椅子に座る。
「カウンセリングは初めてですね」
囚人服の襟からメタルバンドのTシャツが覗く。当時大学生だった彼が逮捕時に着ていたものだ。
「そろそろじゃないかと思ってね」
調書の内容からその言葉の意味がわかった。
「被害者の、あなたが誘拐した少女について聞かせてもらえませんか?」
彼は身を反らせて笑った
「率直だね。興味なんかないくせに。警察に頼まれたか?」
ぼくは首を横に振る。932は電源が切れたように表情を打ち消し、壁に頭を預けた。
「あの子の話ね。可愛かったよ」
これほど警戒される彼だが、殺したとされる人数はたったひとりだ。それどころか、現時点では0かもしれない。
十七年前のある日、警察に手紙が届いた。内容は少女を誘拐したことと、身代金の要求。そして、手紙には一本のビデオレターが同封されていた。
ビデオには見晴らしがいい高台で、犯人を信用しきったような笑みを浮かべる十歳程度の少女が映っていた。すぐに大規模な捜査が行われ、それから数日おきにビデオが届いた。本数はぜんぶで五本。内容は観覧車の中やどこかのキッチンで撮られた楽しげなものだったが、最後の映像だけは、雨垂れで汚れた壁の前で衰弱しきったように座り込む少女映っていた。五本目のビデオを送った翌日、932は逮捕された。その間、少女は自分の娘だと警察に駆け込む人物はひとりも現れなかった。
932は黙秘を続け、警察は尋問と並行してビデオの解析を進めた。五本の映像は事実を雄弁に語った。望んだ以上に。
少女がいた観覧車は、932が逮捕された二ヶ月後にオープンした遊園地のものと一致した。身体に合わないエプロンをして台所に立つ少女が持っていたトマト缶は存在しないものだったが、彼の裁判中、印字されていたロゴと同じ社名の食品メーカーが誕生した。
そして、最後のビデオを頼りに発見された廃墟から見つかった子どもと思しき人骨は、誰のDNAとも一致しなかった。
不可解な事件の犯人ばかり収容するここに932が送られたのは、彼が未来で誘拐殺人事件を起こしたと推測されたからだ。今存在していない事件なら、未然に防げるかもしれない。とんだパラドックスが起こるが、それがどんな凶悪犯よりも彼が厳重に監視されている理由だ。
「なぜ黙秘を続けたんです?」
カウンセリングの終わり、そう尋ねたぼくに彼はこう答えた。
「邪魔されたくないからさ。俺は未来でもう一度あの子に会えるかもしれないんだろう?」
「もう一度機会があれば、犯行をやめようとは?」
「思わないね。あの子を見たとき、ああ俺が連れ出してやらなきゃって思ったんだ。何度繰り返しても思うだろう。そういう子なんだよ」
932の瞳の奥は笑っていない。
独房を出て警備員たちの部屋の前を過ぎると、甲高い電子音がぼくの鼓膜を叩いた。中で三人の職員たちがふざけ合いながら、携帯で動画を撮っているらしい。録画の際になったあの音は、932の送信したビデオが始まるときと同じ音だ。十七年前、DVDよりビデオテープが主流で、スマートフォンなどなかった時代。
今この世界のどこかで、まだ被害者でないひとりの少女が、ひとを疑うことなどしらない微笑みを浮かべているのだろうか。
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