第15話 囚人番号589 ハイリターン(上)
これは囚人番号589の正式な記録ではない。
彼の話をするならば、時間も場所も超越するあの爆弾魔898についても話さなければならない。カウンセラーは基本的に一度につき、ひとりの患者に対応するものだ。だから、ぼくがふたりの囚人に関わるこの記録を記すには、普段より時間も手間もずっとかかるだろう。
589が入所した日、いつもは規律こそないものの落ち着きはある刑務所の中が騒然としていた。ほこりの舞う廊下をオレンジ色の服を着せられた囚人たちが、ラットの迷路実験のように駆けていく。彼らのスタート地点は食堂だ。
川を逆流するように、ぼくは食堂に向かう。肩をぶつけては走り去る囚人たちの中、腕に小さな衝撃が走ったと思うとそのまま縋りつくものがあった。視線を下ろすと、ふたつの鳶色の眼が緊張をたたえてぼくを見上げていた。351だ。
「何があったんですか」
「早く来て。先生なら止められるかも、898が」
ぼくは彼女の腕を優しく振りほどいて足を速める。
食堂のドアを開けると、熱気とともに数人の囚人たちが飛び出してきて危うくぶつかりかけた。
あれ、と後ろをついてきた351が指した先を見ると、十戒の海のように割れた机や椅子の中央で、ふたりの囚人が襲い掛かる看守を退けながら、耳に馴染みのない言語で怒鳴り、掴み合う瞬間だった。
「待つんだ!」
ぼくの声に動きを止めた一瞬をついて、看守がふたりを取り押さえる。リノリウムの床に膝をついた方の男――898は、ぼくと351を一瞥すると抵抗をやめた。看守の脇腹から覗いていた、黒い炎の模様の腕が静かに降り、握られていたパイプ椅子の脚が音を立てて落ちる。
もう片方の囚人は長い髪を編み込みにした、初めて見る男だった。喉をはじめ、はだけた上衣から見える肌すべてに、紋様や髑髏の混じった刺青がある。床に押し付けられながらも未だ暴れる彼は、連行されていく898の背中に向けて叫んだ。
「フェアじゃないぜ、オーバーキル!」
瞬間、振り返った898が今まで見たことのないほど憎悪に満ちた目をした。看守が乱暴に彼の頭を抑え、姿が見えなくなるまでの間、囚人は笑っていた。やがて、彼も三人がかりで食堂から連れ出された。
無人になった食堂で、351が安堵の溜め息をつく。蛍光灯のひとつがまばたきを繰り返すように激しく点滅していた。
茶色いしみが地層のように染み込んだ懲罰房の壁にもたれ、898は手錠をかけたまま直に床に座っていた。
「ろくでもないところ見せたな」
そう苦笑する顔はいつもの彼だ。食堂で見せた、怒りに染まった目。考えれば当たり前のことなのに、こうして話していると彼が殺人犯だということを忘れそうになる。
「彼とは、何があったんですか」
898は黒い指で髪を掻き上げ、呟くように言った。
「……あいつは、俺が来る前にいたシンジケートのメンバーなんだよ」
僕は囚人のリストを思い出した。
「犯罪組織の、ということは、彼が589ですか」
「ああ。俺とは不仲で有名だったけどな。あいつは交渉担当だった。どんな相手にも必ずフェアな取引をこぎつけるんだ。優秀だったよ。怖い奴だっていうのと同じ意味だけどな。うちの金を持ち逃げしようとした奴を見つけて――」
898は親指を立て、自分の胸から腹まで一筋になぞって見せる。
「中に盗もうとしたのと同じ分金を詰めて捨てた」
彼は歯を見せて笑う。その先の話はぼくも事前に聞いていた。
589が自分の車の前半分を大破させながらも、命からがら犯罪現場から逃げ出した翌日、アジトに轟音が響いた。敵襲かと飛び出した彼らが見たのは、どこからともなく振ってきた、後部座席から先がざっくりと切り落とされた自動車だった。その車の残り半分は、589が行きようのないほど離れた国の新車の展示場に残っていた。
また、彼が一度だけ取引に大失敗し、商品の麻薬を受け取れずに帰ると、彼の寝室には手に入る予定だったのと同じ量の大麻が生えていた。取引相手の麻薬農園からは同じ数だけの草が失われていた。
必ずフィフティ・フィフティの交渉を取り付ける交渉人は、失ったものを何らかの形で同じ分手に入れるはめになった。それで得たものの代償は、手が届くはずのない物まで奪えてしまう特性により、国際指名手配され、こうして逮捕されたことだった。
「なぁ、先生。あいつを見たんだよな」
ぼくは肯定し、少しだけ、と付け加える。898はわずかに言い淀んでから、眉間に皺を寄せ、口を開いた。
「あいつは、義手じゃないよな?」
聞き返そうとした瞬間、看守が入ってきて終了の時刻だと告げる。ぼくは必死で
「両方、本物の腕だったと思います。あのとき見た限りですが」
とだけ伝える。看守の肩の間から、彼が一度頷いたのだけを見た。
懲罰房の外は空気が清潔な匂いがした。最後の質問の意図は何だったのだろう。
ぼくは踵を返し、589の元へ向かった。
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