囚人番号589  ハイリターン(中)

 589は懲罰房ではなく、自室にいた。

 罪を償うことより収容そのものに重きを置いたこの施設には、そもそも懲罰房など申し訳程度にしか造られていない。隔離ならそれぞれの部屋で事足りる。囚人たちに割り当てられる部屋は基本的に個室だ。一種類でさえ劇薬になるものを混ぜる気になどならないということだろう。


 部屋の扉をノックすると、中で589が叫んだ。

「真実か挑戦か!」

 トゥルース・オア・デア。子どもがよくやる遊びだ。こう聞かれた者はどちらか好きな方を選び、「真実」なら相手の問いに正直に答え、「挑戦」なら相手の要求に何でも応じる。

真実トゥルース」と言って、ぼくはドアを押し開く。589はベッドの上で胡坐をかいていた。

「つまんないな」

「それがぼくの仕事なんです」

 彼は鼻で笑うと、横目でぼくを見つつ問いかけた。

「ここは異常な犯罪を犯した連中だけがいる場所だって聞いた。じゃあ、あんたもそうなのか?」

「そう見えますか?」

 コーンロウというのだろうか、彼の肩まである長い髪は細かく編み込まれ、黒く硬い縄のように見える。

「それが答えかよ」

 ぼくが肩をすくめると、589は素早く足を解き、向き合うように座り直した。

 顔から喉、袖を捲った両腕、先ほどの掴み合いでボタンが弾けたらしいシャツの襟から覗く胸。そのすべてに碇や波のような紋様と髑髏が複雑に絡み合ったトライバルタトゥーが施してある。


「食堂ではどうも」

 いえ、とだけ返してぼくは備え付けのパイプ椅子に座る。

「898とは何があったのですか」

 ぼくの問いに彼は犬歯を見せつけるように笑った。

「何も。ただ、一方通行はフェアじゃないだろう? あっち向けられたものはこっちも返す。同じ量だけな」

「何を、受けたというんです」

 589は耳元に顔を寄せ、微かだがはっきりと聞き取れる声で言った。

「殺意だよ」

 


 ぼくは、監獄には不似合いなほど眩しい光の差し込む廊下を歩いていた。そのひとことの後、589に何を聞いても要領を得なかったが、最後に彼はこう付け加えた。先に始めたのはアイツだと。

 何とはなしに辿り着いた資料室の前で立ち止まると960がいた。囚人が入ることはできないが、昔職場を思い出しては訪れてしまうと苦笑交じりに以前話してくれたことを思い出した。元警察官の彼ならば、爆弾魔と恐ろしい交渉人の確執も知っているだろうか。ふたりに関しての情報があれば何でもいいから教えてほしいというと、960は色素の薄い目を伏せて言った。

「細かいことは私の管轄外ですが、898の逮捕には589が大きく貢献したと聞いています。雑多な言い方をしてしまえば、警察に彼を売ったと」

「同じ仲間どうしなのに、ですか」

「はい。589は情報提供にあたって見返りを要求しなかったそうです。あいつがチームから消えてくれればそれでいいのだと」


 それ以上は知らないという960に礼を言って、ぼくは資料室に入った。フェアな取引に執心する彼が、情報を与えて見返りを求めないということがあるだろうか。棚に並ぶ膨らんだファイルの背をなぞりながら、ひとつひとつ番号を確かめる。589のものはまだ届いていないらしい。ぼくは898と記されたものを抜き取った。

 開いてみると、彼の起こした事件の現場らしき瓦礫と燃えカスのスナップショットがファイリングされていた。

 倒壊した建物の焦げた梁の間から覗く、オスマン帝国の軍服を纏った足。十七世紀末には絶滅したと言われるドードーの焼けて燻る羽。時代と場所を越えた犠牲者たちの中で、一枚の写真が目に留まった。爆風に巻き上げられ、黒く焦げた電灯にぶら下がる一本の右腕。火傷が激しく、写真自体の画質も悪いので目を凝らさないとよく見えないが、その肌に彫り込まれた碇とそれを抱える骸骨は、確かについ先ほど見てきたものだった。


 一段ごとに空気の密度が濃くなっていく階段を下りきった先に、懲罰房がある。重いドアを開くと、わずかに差し込む光の帯の中でほこりが舞った。898は、壁にもたれて座ったまま視線だけを投げた。

「真実か挑戦か」 ぼくは後ろ手にドアを閉めてそう言った。

「589に会ったな」

 ぼくは無言で頷いた。898は目を伏せ、少しの間考えてから、

真実トゥルース

「彼はあなたを殺そうとしていますよ」

 爆弾魔は肩をすくめ、「もうそこまで知ってんのか」と呟いただけだった。ぼくは彼に歩みより、膝をついて目の前に座る。

「589を別の場所に輸送してもらえるよう申請します。」

 無理だ、と898がかぶせるように言った。

「こんな訳のわからん犯罪者を集めて置ける場所が世界にふたつもみっつもあるかよ」

 口を開きかけたが何も言えないぼくを見て、彼は諭すように笑みを浮かべた。

「先生、煙草一本もらっていいかな」

 ぼくは胸ポケットから箱を取り出し、二本抜き取る。ひとつを自分の歯に挟んでからもうひとつを渡すと、彼は手錠をかかった腕を持ち上げて煙草を咥える。

「火も借りていいか」

 ぼくはジッポライターを擦って、先端に炎を近づける。898の顔が赤く染まった。


 重苦しい沈黙を這うように、煙だけが懲罰房の中をゆっくりと漂った。

「貴方は589に殺されるつもりですか」

 898は壁に頭を預けるように、首を傾けた。

「奴が無くしたものはそっくりそのまま帰ってくる。あいつが俺を殺したら、次の日何が戻ってくると思う? 俺の体重と同じ分の肉の塊か、それとも見た目も中身もそのままの俺か?」

「貴方の命は、彼の所有物ではありません」

 898はぼくの目を見、ぼくも視線を返した。腕の黒い炎に合流するかのように、彼の指先から紫煙が上っていく。


 房の上部にひとつだけある小さな窓から、ブレーキと車体が弾む鈍い音がした。この向こうにある駐車場に大型トラックが停車したのだろう。898は一瞬窓の方に視線をやり、再びぼくを見ると独りごとのように言った。

「真実か挑戦か」「挑戦デア

 ぼくはすかさず答える。898は歯を見せて口元だけで笑うと、手首をしならせ、煙草を投げ捨てた。火の燻っていたそれは一度床で弾むと、清掃時の水が溜まった溝に飛び込んでジュッと音を立てた。


「先生。火、貸してくれないか」

 そう言った898の目は、良き話し相手ではなく、食堂で見た、ひと殺しの目だと思った。

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