第5話 囚人番号004 死刑囚

 これは囚人番号004の正式な記録ではない。

 そもそも004に関する正式な記録など、ぼくは見たことがない。確かな入所年はおろか、男なのか女なのかすらもわからない。ぼくは最初、新しい囚人を脅すためにあるフォークロアの一種だと思っていた。


 004の存在を示すものと言えば唯一、地下に下る階段の奥にある独房だろう。

 そこは、比較的清潔でシステム化されたこの刑務所において異質なほど陰湿で汚い。半ば洞窟のように暗く、どこからか漏れ出した水でいつも湿気がひどいが、虫は一匹も寄り付かなかった。中にひとがいるとは思えない。それでも004に食事を届ける担当の看守がいて、一日二回トレーを持って地下へ下るそうだ。夜中にシャワー室から水音がした翌日は、鉄格子に濡れたタオルが干してあるとも聞く。


 どの囚人から聞いたかは忘れたが、004に関してこんな噂がある。

 004の住む街には、死刑廃止を訴える、高名な人権活動家の大学教授がいた。004は彼に心酔し、教授が行う講演や署名運動すべてに参加した。教授も004を信頼し、家に招いた。その翌日、教授が大学の仕事を終えて帰ってくる前に。004は教授の妻とふたりの娘と、寝たきりの母を殺害した。


「004は存在する。僕見たんだ」

 トレーの上のマッシュポテトをスプーンでかき集めながら、710は言う。最近彼とのカウンセリングをするのはほぼ毎回食堂だ。ぼくが隣にいるときだけ怯えず食事ができると言うが、ぼくを見張りにするせいで、更にほかの囚人から睨まれるので悪循環だと思う。やめさせたいが、今日は聞きたいことがある手前、彼の頼みを無下にはできない。


「昔、ここのボス気取りの囚人と取り巻きたちに脅されてね。看守から鍵を盗んだから004の部屋がどうなってるのか見てこいって」

「独房の中に入ったんですか」

「うん。いつも部屋の前にある食事のトレーを004に届けてきたら、ズボンを返してやるってね」

 ぼくは震える尻肉を冷気に撫でられ、暗い廊下を進む彼を想像する。

「それで、004には会いましたか」

「会ったとはいえないかな。でも確実にいたよ。独房は真っ暗でどこまで手を伸ばしても壁にぶつからなかった。その中でちょっと動いてるものがあったんだ。影があり得ないくらい長くて人間じゃないみたいだった。それがゆっくりこっちを向いたんで、ぼくはもう一目散に逃げて自分の部屋に帰った。ズボンより命のが大事だ。投げ出してきたトレーと食器は次の朝、綺麗に空になって戻ってきたって看守が言ってた」

 彼は一気に話し終えると、クラムチャウダーを飲み干した。ふたり組の囚人がぼくと710の脇を、ねめつけるように見てから通り抜けた。後ろ姿を見送るぼくに、710が囁いた。

「今のが取り巻きだった奴らだよ」

「看守から鍵を盗んだというボス格の囚人は?」

「さあ、その次の週くらいにシャワー室で頭を打ったとかで搬送されてから見ないな。打ちどころが悪かったのかも。……先生、004が事件を起こした後のことは知ってる?」

 ぼくは首を振る。710は更に声を低くした。

「大学教授は家族を殺されても004の死刑を認めなかったんだ。判決が下った後もね。だから004は死ねないんだよ。死刑囚は死刑で死ぬ決まりなのに、いつまでも執行してもらえない」

彼はトレーを持つと、椅子を引いた。

「急に004のことを知りたいなんて、先生、どうしたの?」

「……最近よく聞くんでね」

 そう答えて視線を落とした今日の患者のリストには、一番下に「004」の文字がある。


 灯りのない階段を、懐中電灯を手に下っていく。004の独房につながる壁や床は他の空間からも時間からも忘れ去られたように、ひび割れて下の骨組みがむき出しになり、鉄格子は赤く錆びて粉を噴いていた。ぼくはその前に立ち尽くし、こんにちは、と声をかける。貴方が予約したカウンセラーですと続けたが、冷え切った残響しか返ってこない。

 ぼくは懐中電灯を口に咥え、メモを一枚ちぎった。何を書くか迷った末、ぼくが一番聞いてみたいことを書いて、鉄格子の隙間に挟んだ。

『あなたはなぜ教授の家族を殺害したのですか?』


翌日、ぼくはこの刑務所に来て、一番最初に004の独房に向かった。朝の清潔な冷気は地上で途切れ、地下は不穏に生暖かい。ぼくが挟んだ紙はそのままだったが、よく見ると折り方が微妙に違う。拾い上げて、ぼくは階段を上がった。


 ぼくは日光の差す中庭の喫煙所で、煙草を一本に火をつけ、唇に挟んでからメモを開いた。そこには定規を当てたように几帳面な字が、鉛筆でこう書かれていた。

『わたしは彼を尊敬していました。だからこそ彼が、口さがないひとたちに、自分の家族を殺されたらそんなことは言えまい、と笑われるのが耐えられなかったのです。彼はわたしが思った通り、ご家族が犠牲になっても考えを変えない方だと証明することができました』

 メモは裏側にも文字がある。

『先生、わたしは貴方を恨みます』

 ぼくはメモを元の形に折り畳むと、吸い殻と一緒に灰皿に押し込んだ。

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