第10話 囚人番号192 マーメイド

 これは囚人番号192の正式な記録ではない。

 彼の犯罪をひとことで纏めるのは難しい。単純に言えば不法滞在者の幇助、拉致監禁、殺人、死体遺棄、そして水質汚濁防止法だ。他の罪状と最後のひとつの罪状の関連性には説明がつかないまま、彼はこの刑務所に叩きこまれた。


 談話室へ向かっていると、出入り口から続く白く果てしない廊下が、巨大なナメクジでも這ったように濡れていた。シャワー室の前を通りかかると、いつもその中でぼんやりしいているはずの542が扉の外側におり、中からは水の音と、石鹸と汗の混じった甘い香りの湯気が漏れていた。ぼくが説明を求める前に、彼女は鬱陶しげに早口で言った。

「192の馬鹿が中庭の噴水に飛び込んだのよ。びしょ濡れのまま看守が運んだから水浸し」

「ちょうど今日彼の予約が入っていたんです」

 542は興味がなさそうに片方の眉だけ上げた。

「本当? じゃあ、話を聞いてあげたら。彼自殺しようとしたみたいだから」

「死のうと思う人間がカウンセリングを受けるでしょうか」

「さあね、でも本当よ。あの浅い噴水に頭を突っ込んだところで溺れ死ねるわけないのに。引っ張り出すのに看守ふたりがかりだったわ」


 十五分後、談話室に現れた192は清潔な匂いをさせていた。彼は体格がよく、日に焼けた、話し方に訛りがある男性だ。白髪の混じる硬い髪は今濡れており、片手になぜか銀の水筒を握っていた。

「申し訳ない、待たせたな……」

「大丈夫ですよ、それよりその水筒は?」

「いや、これは何でもねえんだ」

 話題を変えた方がよさそうだと思い、ぼくは192と自分に水差しから水を注ぎ、グラスを差し出して座るよう促す。

「他の囚人からあなたが噴水に落ちたと聞きましたが」

彼は椅子を引きながら、わずかに狼狽した様子で答えた。

「落ちたと聞いたのか?」

ぼくは何も言わずに微笑む。

「ほんとは知ってるんだろ、お医者さん。オレは飛び込んだんだ……信じねえとは思うが、水の中に妻がいる気がしてな」

 192は血管の浮いた太い腕を机の上で組んだ。水筒は守るように腿の間に置かれている。


 彼が殺したのは内縁の妻だと言うことになっている。港で働いていた192は、漂流していた不法入国者の女性のひとりを家に連れ帰り妻としたと、法廷記録には遺されていた。誰にも知られない結婚生活を十余年続けたある日、彼は酒に酔い、ずぶ濡れの状態で、泣きながら出頭した。妻を殺して海に捨てた、と。遺体は見つからずじまいだったが、彼が供述した海域では翌日、大量の死んだ魚が打ち上げられた。


「笑わずに聞くって約束してくれるか、お医者さん」

 192は身を乗り出して、ぼくの目を見つめた。ええ、もちろんと彼の目の中のぼくが頷くと、声を落として話し始めた。

「妻はな、人魚だったんだ」

 192の瞳には、怪訝な表情を必死で封じるぼくが映っている。


まだ若かった192は、ある早朝港で打ち上げられていた人魚を見つけた。他の人間に見つかればどうなるかわからないと思った彼は、仕事で使ったドラム缶に海水と人魚を入れ、家に連れ帰った。海に返そうと思っているうちに、人魚と192は恋に落ちたのだという。


「お医者さん、海にいる魚を川に入れるとどうなるか知ってるか」

「浸透圧の差に耐えきれず体内の塩分濃度が低下し死ぬ、でしょうか」

「人魚もな、そうなんだよ」

 192は浴槽で人魚を匿っており、水道水に毎日塩を混ぜて海水と同じ濃度にしていたらしい。彼が仕事をクビになった二日後、市井でいつも通り塩を買って帰ったとき、人魚は風呂の蛇口を浴槽に流し続け、すでに衰弱していた。

「あいつの遺言だ。自分がいると負担になる、幸せになってくれと」

 192は鼻をすすりながら、節くれだった手を目に押し当てた。

「オレはあいつさえいれば幸せだったんだ。なのに……」

 人魚が死んだ後、192は泣いて、吐くまで飲んだ後、明け方彼女の死体と浴槽の水を、出会った海に流したから出頭したと語った。

「笑わずに聞いてくれてありがとうな、お医者さん」

 彼は乱暴に顔中をこすってから、抱えていた水筒を差し出した。

「これは?」

「ぜんぶ海に還してやろうと思ったが、どうしてもできずに残してたんだ。今日の夜、こいつを噴水に流そうと思う。そうすりゃここでも一緒にいられる気がしてな」

 ぼくは192の体温で生ぬるくなった銀の水筒を受け取る。言われるままに、ぼくは空になった自分のグラスにその中身を注いだ。わずかに濁った古そうな水が溢れ出す。注ぎ終わった後、何の変哲もなさそうなグラスを持ち上げ、蛍光灯に透かしてみると、中に光を反射する楕円の欠片のようなものがちらほら浮いていた。それはこの世の魚のものとは思えない、虹色に光る鱗のようにも見えた。

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