三頁:援軍

 エリカと薫は、エスカレーターを駆け上がり、目的地である小説・児童書コーナーがある三階に辿り着いた。

 追いかけてくる人数は、ネズミ算式に増えており、追跡者の群れがエスカレーターに敷き詰められている。

 理性が失われている事が幸いし、追跡者が狭いエスカレーターに殺到した事で、彼等の密度は、満員電車に等しく、身動きが取れなくなっていた。


 エリカは、マッチを取り出すと、エスカレーター近くの天井に向けて、灰かぶり《シンデレラ》の灰を投げ付け、着火する。

 文章館に火災を告げるサイレンが鳴り響き、防火シャッターが下りてくるとエスカレーターの出入り口を寸断した。


「これで少しは、時間稼げるかも」


 エリカの安堵を否定するかのように、防火シャッターを叩く音が響いた。

 最初は一人が、

 続いて二人が、

 そして三人がと、叩く人数が増えていくにしたがって、シャッターが激しく波打ち、軋み始める。


「長くは、持たないかもな」

「急ごう、薫君」


 二人が童話コーナーに走るその頃――。


「ゾンビ映画だな、こりゃ……」


 文章館に足を踏み入れた正太郎は、眼前の光景に圧倒されていた。

 意志を失った人々、計三十人程が、床に散らばった鏡の破片や本を踏みつけながら徘徊している。

 感覚が鈍っているのか、まだ正太郎には気付いていないようだが、存在を気取られた瞬間、血なまぐさい舞台となるのは明白だ。

 正太郎は、一旦外に出ると、ワイヤレスヘッドセットを左耳に付けて、エリカに電話を掛ける。


『先生! 着いたの?』


 焦燥しながらも安堵に満ちたエリカの声が正太郎の鼓膜を揺らした。


「ああ。お前達は無事か?」

『うん。でもどの本のワードか、分からなくて』

「俺も正直見当がつかねぇんだ。今何階にいる?」

『三階の童話コーナー。でも防火扉が下りてるから入れないと思う』

「なんとかする。お前達は籠城してろ。いいな?」

『うん』


 正太郎は、左の人差し指の付け根を噛み切ると、イバラを形成し、腕に絡み付けた。

 右腕を掲げると、イバラは文章館の屋上まで伸びて、落下防止用の手すりに巻き付き、正太郎を三階まで引き上げてくれる。

 宙づりの状態でジャケットの右ポケットから特殊警棒を取り出すと、目の前にある窓ガラスを打ち破った。

 店内に入った正太郎は、左腕に巻き付いたイバラを霧散させ、空いた左手でサンベリーナをポケットの中から引っ張り上げた。


「涼葉、偵察頼むぞ」


 サンベリーナは、正太郎の手の上で敬礼すると、床に飛び降りて走り去った。


「先生!?」


 正太郎の立つ通路の正面に、エリカと薫が驚きと安心が一対一で混ざった表情を浮かべながら駆け寄ってきた。


「よう。お前等、無事みたいだな」

「びっくりしたよ。ガラスが割れた音、ワードが来たんじゃないかって」

「そりゃ悪かった。怪我はねぇか?」

「うん。私は大丈夫」

「僕も平気」

「とにかく無事でよかった。それで何か分かったか?」


 エリカは首を横に振り、嘆息を零した。


「全然。どの物語がモチーフのワードか、見当もつかないよ」

「この状況じゃ焦るなって方が無理だが、もう一度落ち着いて奴の行動を思い出すんだ」

「奴の行動?」

「事の始まりは、どうだったんだ?」

「最初は、私と薫君と二人でカフェに入って……ウェイトレスさんが転んだの。それが発端になって喧嘩が始まって、その喧嘩がカフェ中の人に広まったんだよね。ウィルスが伝染するみたいに」

「カフェって、どんなカフェだ?」

「先生、知らないの?」

「俺は、本買ったら早々に引き揚げちまうんだよ」

「おしゃれなカフェだよ。テーブルとかガラスで出来てるの。薫君が連れてってくれて」


 正太郎が顎を揉みながら天井を見上げると、思案を邪魔しては悪いと思ったのか、エリカと薫は黙ってしまう。

 しかし現時点の情報量では、正体を推理するのは難しく、正太郎にも見当がつかない。

 天井からエリカに視線を戻すと、彼女は続きを語り始めた。


「私が喧嘩を止めようとしたら、喧嘩してた人達が一斉に私達を見て、グリムハンズだって」

「それから?」

「その後は追われたの……そうだ。一人が壁に貼ってあった鏡を取り外して投げつけてきて、そしたら他の人達も」

「僕達が出口から逃げようとしたらワードが出てきて――」

「亀城。ワードは、どんな姿をしてた?」

「巨大な肉の塊に鏡が埋め込まれている感じ。僕達の前に現れて鏡の破片をばらまいたんだ。そしたら暴れてなかった人達もみんな……」


 ガラスのカフェテーブルや壁に貼り付けてあった鏡、さらにワードの形状などを考慮すると、これが共通点であろう。


「ガラスや鏡と接触した人間が操られてるみてぇだな」

「ヒントになるかな?」

「と言いてぇところだが、鏡が出てくる物語なんて大量にあるからな。どうやって絞り込むか――」

『如月先生』


 正太郎のヘッドセットに涼葉の声が木霊した。


「涼葉か。何か分かったか?」

『いえ。防火扉がもう破られそうで――』


 涼葉の声を断ち切るように、金属の裂ける軋んだ音が三階フロアを揺らし、無数の足音が正太郎達へと向かってきている。


「くそ。あの足音分、制圧しなきゃなんねぇのかよ」


 数十~数百人。それだけの人数を相手にするとなると、さすがにグリムハンズの身体能力でも力不足だ。

 ここからエリカと薫を連れて逃げる事は簡単だし、生徒を守るという目的だけならば、それが最善策である。

 だが、このままワードを放置してしまえば、被害は拡大し、今回の事件の性質上、ワードの存在が世間に露見する可能性も高い。

 生徒に危険を強いるのが、どれほど愚かな事かを分かっていながらも、この事態は、正太郎一人の手に余る。


「俺が操られてる奴の相手をする。お前達は、頭を使え。奴の姿を見たのは、お前達だ。必ず答えを導き出せる」

「グリムハンズだ!」


 壮年の男がエリカを指差して、奇声を上げながら駆け寄ってきた。

 その後ろから十が、さらに数十の群れが餌を前にした猛獣の眼光で迫ってくる。


「骨が折れるよ、まったく」

 正太郎は、左の人差し指の付け根を齧ると、イバラを形成し、腕に巻き付けた。


「お前もグリムハンズ! 皆殺し! 皆殺しだ!」

「やってみろよ!」


 正太郎が左腕を振るうとイバラは、鞭のようにしなりながら、壮年の男を打ち据える。

 瞬間、男は、その場に倒れ伏し、寝息を立て始めた。

 今度は、二人の若い男女が同時に飛び掛かってくる。

 正太郎は、男の腹を警棒で打ち据えて、撃墜すると、女の身体をイバラで縛り上げ、床に叩き付けた。

 圧倒的な数的暴力を容易く、確実に正太郎は、制圧していく。

 膨大な経験値に裏打ちされた技量にエリカと薫が圧倒されていると、小さな温もりがエリカの右肩に飛び乗った。


「エリカちゃん」

「涼葉さん!?」

「二人とも大丈夫?」


 本体よりも甲高い声でサンベリーナが訪ねてくる。

 エリカと薫が頷くと、サンベリーナは、丸い顎に小さな手を当てて、正太郎が蹴散らしている洗脳された人々を見やった。


「ガラスや鏡に触れた人達が豹変したんだよね?」

「そうなの。でもどんな物語か分からなくて……」

「今見つけたかもしれないの」

「さすが涼葉さん! どんな物語!?」

「雪の女王よ」

「雪の女王? 今回のワード寒い要素ないよ?」

「まぁ聞いて。カイという少年とゲルタという少女の物語なんだけど、カイは悪魔が落として割った鏡の破片が刺さって人が変わってしまうの。これってガラスや鏡の破片を浴びて豹変した人達にそっくりじゃない?」

「確かにそうかも!」

「状況から推察するに、この物語から生じたワードの可能性が高いと思うわ」


 正体が判明した喜びも束の間、エリカは、ある事に気付いた。

 肝心のワードの姿がどこにもないのである。


「あのワード、どこに居るの?」

「そういえば! あのワードの姿見てないぞ!」


 人間を操ってこちらを襲わせてはいるが、ワード本体がこのフロアに居る形跡はない。

 しかし、顕現させてしまえばワードは、存在も力も不安定となるはず。

 さらにここまでグリムハンズへの殺意に捉われたワードだ。

 自分の正体を知っているグリムハンズを生かして帰すとは思えない。


「顕現させてやれば姿を現すしかないよ。顕現せよ! 雪の女王の鏡の破片!」


 エリカが叫ぶも、ワードは姿を現さない。

 だが突如、正太郎を襲っていた群衆は、糸が切れたかのように次々と倒れ込んだ。

 強制的に顕現した事で、力が不安定となり、操作能力を失ったのであろう。

 正太郎が倒れた人々の中から何名かの脈を取ってみると、拍動が伝わってくる。

 命に別状はないようだ。


「どうやら正解を引いたみたいだな。油断するなよお前等」


 正太郎の忠告がエリカの耳に届く頃、大気が水銀を含んでいるみたいに重くなった。

 何かがこの場に足を踏み入れている。

 食べる以外の目的で生命を奪おうとする者が発する特有の不快感、気配、憎悪。そう言った感情が溢れ、一帯に溶け出している。

 

 エリカは、マッチを取り出し、右手の人差し指の付け根を剣歯で挟んだ。

 こちらに近付いて来ている。

 音がする訳ではない。

 姿が見えるわけでもない。

 動物的な直感。

 人が失って等しいそれをグリムハンズという超常が研ぎ澄まさせていた。


「危ない!」

 

 サンベリーナの悲鳴が上がり、エリカは、振り返った。

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