九頁:グリムハンズ
「
正太郎の繰り出したイバラがウロボロスに迫ると、蛇竜は身を捩って黒い速攻を
「
二十メートル超の巨体すら容易に飲み干す膨大な質量を、ウロボロスは、尾の一振りで打ち砕いた。
ファーストページの爆炎すら防ぎ切るネクストページのガラスを飴細工のように扱う
けれど正太郎が仲間と認めてくれた以上、ここで足を
エリカだけではない、童話研究会メンバーの総意だった。
「桃太郎! ネクストページ!」
薫の繰り出す血で出来た三匹の家来がウロボロスに飛び掛かった。
しかし、これをまたも尾を一薙ぎして蹴散らしてくる。
だが、これは薫の想定内。
血の家来ではウロボロスに有効なダメージは与えられない。だからあくまで気を逸らし、隙を作り出すための攻撃。
正太郎の
黒いイバラは、稲光に匹敵する速度域で鋭く伸び、ウロボロスを捕えんと飛翔する。
ウロボロスは、尾で地面を打って空中に逃れると、這うように宙を進んで正太郎との距離を取った。
エリカや薫の攻撃は尾を使って迎撃するのに、正太郎の
この動きは、ウロボロスが正太郎のグリムハンズを心底
「やっぱり輪廻。俺と戦った時の記憶が残ってるのか。形を失っても記憶は継承する……か」
ウロボロスの敵意は、正太郎へのみ向けられている。
エリカ達の事は、有象無象の障害としか認識していないらしいが、正太郎に対するウロボロスの感情は、紛れもない憎悪。
神話の存在の顕現でありながら酷く人間的だった。
「先生ばかりを睨んでる」
「僕達の事は、眼中になしかよ。実際通用してないけど」
エリカの
正太郎のサポートに回り、
これが主目的なもののエリカ達の攻撃は、その役目を果たせているかも疑わしかった。
まるで足手まとい。
正太郎に無理を行ってついてきたが、足を引っ張っているだけではないか?
激しく燃えていた闘争心が急速に萎れていく。
しかし――。
「エリカちゃん、薫君」
涼葉の発した一声が、
「これはいい兆候よ」
コンパウンドボウを構える涼葉の微笑みに、焦りの色は微塵もない。
「あいつがこっちに意識を裂いていないのなら、それは私達の奇襲が成功しやすいって事」
放たれた矢は、ウロボロスの右目を襲った。が、やはり尾の一振りで容易く打ち落とした。
けれど涼葉に容易く防がれた動揺はない。
「そしてこちらの奇襲精度が上がれば、ウロボロスは対応を余儀なくされる。でも如月先生の
再び射られた矢をウロボロスは、またも尾で迎撃する。
矢の一撃は、ウロボロスにとって緩慢な微風に等しいかったが、迎撃に回された意識の隙間に黒いイバラが打ち下ろされる。
ウロボロスは、大仰に飛び退いて正太郎との距離を広げると、四列の牙を剥き出した。
「お前達良いぞ! ガンガン攻撃しろ! 奴に休む暇も思考する猶予も与えるな!」
攻撃がどうやれば通用するか、どうすれば当たるかを考えるのではない。
弾幕のようにグリムハンズを常に繰り出し続け、ウロボロスに余裕を与えなければいい。
今エリカ達に求められているのは、狙い澄ました必殺の一撃ではなく、正太郎の繰り出す
「
「桃太郎!」
次々に切れ間なく繰り出される炎とガラス、そして血の家来達。
迫る死の大群に、ウロボロスは、ついに迎撃ではなく、回避を選択し、後退する。
その瞬間、黒いイバラの一閃がウロボロスの左頬に迫った。
ウロボロスは、首を捩って躱すも、
地面を這いずり、ウロボロスがこれも回避すると、彼は、正太郎へと向かって猛然と突進した。
遠距離での防戦は、不利と判断し、正太郎との接近戦を選んだのだろう。
正太郎とウロボロスの間合いが近いと、加害範囲の広いエリカのシンデレラは、使用困難となる。
そうはさせまいと、三匹の家来の猿と雉がウロボロスの尾の先端に掴みかかり、動きを封じた。
尾を
鉄に噛み跡を残す
しかしウロボロスは、尾を振り下して犬を押し潰し、頭をくねらせて、イバラの一撃を空振らせると、正太郎が次の一撃を繰り出すより速く、尾で地面を叩いて飛び上がり、全長一つ分、およそ二十メートルの距離を取った。
「戦い慣れてやがる」
歴戦の立ち振る舞いは、正太郎と幾度もぶつかりあったが故の成果だろう。
グリムハンズの戦い方や、正太郎のグリムハンズの危険性を熟知している。
恐らくは短期決戦向けと言う弱点も。
だから無理をせず、回避と迎撃に専念しているのだろう。
「亀城君!?」
正太郎の背後から涼葉の悲鳴が上がり、正太郎は、ウロボロスへの警戒を緩めずに振り返った。
薫が地面に膝を付き、顔面からは血の気が引いている。
「亀城!」
亀城薫の不調の要因。
それはウロボロスの引き起こす眠気と、ネクストページ使用の反動の相乗効果であった。
血で犬猿雉の三匹の家来を形成するネクストページ。
形成される血の家来は、中身が空洞となっており、表面は、薄い血の膜で作られている。
この血の膜の材料は、全て薫の血液が元手だ。
薫の血液液量で失血死しない限界の生成数は、およそ二十体。
戦闘開始から常に、血の家来を出し続けており、破壊されれば次を送り込む。
その数は、既に十数体。
普段ならば、少々の立ちくらみですむ程度の失血量だが、ウロボロスの与える強烈な睡魔が症状を悪化させていた。
――このままでは生徒が。
そんな焦燥が正太郎に過ぎった瞬間をウロボロスは、見逃さなかった。
疾風を置き去りにし、地面を這うウロボロスが目指すのは、正太郎ではなく薫であった。
正太郎の脇をすり抜け、弱った薫への突進。
ウロボロスには、前回の戦いの記憶が継承されている。
故にワードでありながら、戦術という物を理解していた。
衰弱した個体を仕留めて戦力を削ぐのが、人間との戦いでは有効であると。
「させるか――」
正太郎は、踵を返しつつ身体を回転させる勢いを活かして、
「よ!!」
イバラをウロボロスの頭目掛けて打ち下ろした。
しかしウロボロスは、蛇行を止めて直撃を逃れると、標的を失ったイバラが煉瓦造りの地面に当たり、棘の穿った中心点から直径十数メートルをクレーター状に分解する。
ウロボロスは、またも尾をバネに飛び退き、自分の身長分間合いを開けて正太郎を見据えていた。
「くそ!」
ウロボロスを詰め切れないのは、正太郎の動きが切れを失っている事も大いに関係していた。
睡魔に蝕まれた意識では、行動も反応もワンテンポ遅れてしまう。
周囲に睡魔を振り撒くのは、死と再生の能力が劣化しただけだと思っていた。
「まさか。これは退化じゃなくて進化か?」
ここに至って正太郎は、ウロボロスが敢えてこのように力を発現させている可能性に至る。
前回正太郎は、破壊と再生が繰り返される終わらない一日の中で戦い続けたが、いずれも万全の状態で挑んでいた。
その事がウロボロスという存在を成長させる要因になっていたが、裏を返せば正太郎は、一度も仕損じる事なくウロボロスを殺し続けている。
あの時、ウロボロスが自分を大きくするために、わざと正太郎にやられていたとは考え辛い。
それは、ウロボロスと相対した正太郎自身が一番良く理解している。
いくら自分を成長させるとは言え、正しい封印方法を思い出されたらウロボロスを打倒出来る手段を持っている正太郎を生かしておくメリットは、あるのだろうか?
ある程度の大きさになってしまえば、正太郎を殺してしまった方がいい。
後は時間を掛けて、ゆっくりと顕現に近付いていけばいいのだから。
ならばあの時ウロボロスは、正太郎を殺さなかったのではなく、殺せなかったと考えるのが妥当。
正太郎の能力は、ウロボロスにとっては脅威。正面から戦って勝てる相手ではない。
以前の記憶を受け継いだからこそ、ウロボロスの戦略は、如月正太郎を確実に仕留める事にのみ注がれている。
――眠い。
戦いの疲労感と神災級と対峙する精神的なプレッシャーが、睡魔を助長していた。
ほんの少しでも気を抜けば、すぐさま熟睡に至るだろう。
しかし正太郎以上に追い込まれているのは、エリカ達だった。
初めて相対した神災級の重圧による心理的な疲労は、正太郎とは比較にならない。
戦闘による肉体的疲労も、まだ発展途上の肉体である十代の少年少女には、過酷過ぎるのに、この眠気が掛け算されているのだ。
「こりゃ、十年前に戦った時の方がだいぶマシだな」
空を覆うほど巨大でも正太郎のグリムハンズには、むしろ戦いやすかった。
今回は、まず的が小さい。
身体が大きいと小回りが利かない事を学習して、人間との戦闘に適した大きさになっている。
そして強烈な睡眠作用の発生。
地球を
ウロボロスの引き起こす眠気に、正太郎のグリムハンズの制限時間。
長期戦は、望めない。
だが現在の素早いウロボロスに攻撃を当てる事は、万全でも困難であるし、睡魔で思考と動きがワンテンポずれるせいでイバラを命中させるのは、絶望的。
さらにウロボロスは、正太郎を見つつもまだ薫に狙いを定めている。
神を名乗るにふさわしい力を持ちながら己を過信しない。
物語ではなく神話から生じたが故に、行動が縛られる事もなく自由自在な戦略を駆使してくる。
――弱点が見当たらない。
ウロボロスは、∞の形に蜷局を撒くと、尾を振るい上げ、先端に噛み付く。
すると、重い音色が体表を管楽器でもあるかのように反響していき、尾を一層強く噛み締めた途端、睡魔を誘う鐘の音が鳴り響いた。
鐘の音は、女神の歌声であるかのように鼓膜を揺らし、心地良い残響を残して脳へ浸透していく。
正太郎は、たまらず膝を付き、
「先生!」
正太郎には、エリカの呼び掛けが、朧月の明かりのように要領を得ない響きとして聞こえていた。
――眠い。とんでもなく眠い。
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