二頁:空谷町

 空谷町は、東京でも有数の歓楽街である。

 夜も深まっているが、町は、睡魔と闇に染まる事を拒絶するかのように賑やかだ。

 メインストリートである神室通りをエリカ達、童話研究会は、マリーを先頭に歩いている。


 いかがわしいネオンサインが視界を埋め尽くし、すれ違う人々は、酒臭かったり、中には、嗅いだ事のない甘ったるい香りを漂わせる者もいた。

 お世辞にも治安が良い地域とは言えず、本来子供の立ち入ってよい場所ではない。


 この界隈で制服姿は、面倒が多いと正太郎から忠告され エリカ達学生は、一旦家に帰り、私服に着替えて来ている。

 エリカは、赤いチェック柄のシャツに、ベージュ色のハーフカーゴパンツ。

 薫は、紺色のサマージャケット、涼葉は、黒いTシャツで、二人ともデニムパンツだ。

 対してマリーは、黒のワンピース姿でありながら、空谷町のギラギラとした空気に馴染んでいる。

 町の一部が少女の姿を借りて歩いているようだった。


「不思議な子ね」


 涼葉の呟きに、エリカは、首を傾げた。


「見た目と気配がまるで違う。エリカちゃんみたいな子ね」

「私が?」

「初対面の時、そう思ったのよ。あなたも不思議な子だなって」

「褒めてます?」

「どうだろう。なんていうのかしら……あなたは、桜でありながら業火でもあるっていうか。美しさと苛烈かれつさを併せ持っているように見えたから」

「褒めてないでしょ!!」

「ごめんなさい。上手く言葉に出来ないや」


 エリカは、わざとらしく頬を膨らませて拗ねたが、ふと涼葉が肩に担いでいる大きなプラスチックケースが目に付いた。


「そういえば涼葉さん。気になってたんだけど、その荷物はなに?」

「ちょっととした貰い物よ」

「中身は?」

「大きな声じゃ言えないものかしら」

「エロ本?」

「エリカちゃんってさ、時々親父臭い言うよね」

「そうかな? で、エロ本?」

「まったくもう……」

「二人とも。馬鹿話は、そこまでだ」


 釘を刺しつつ正太郎が指差したのは、二十メートルほど先、エリカ達から見て左手にあるビルの三階だった。

 この町では、珍しく看板にネオンは灯っていないが、周囲のやかましい明かりのおかげでエリーゼと書かれているのが読める。

 エリカ達は、マリーの先導でエリーゼに入った途端、店内の惨状に目を奪われた。


 テーブルや椅子だった大量の木片が紫色の絨毯が敷き詰められた床に散乱し、テーブルクロスや絨毯の至る所には、人の物と思われる噛み跡や爪痕が残されている。

 テーブルは、木片を見ればしっかりした作りであったのが素人目にも窺えるし、絨毯も分厚い。

 普通の人間の腕力だったり、顎や指でここまで破壊出来るのだろうか?

 しかしワードの仕業でない事は、歯型や爪の痕から見ても明らかだ。


 煉瓦れんが色のタイツ模様の壁紙は、赤黒い血痕や吐しゃ物が染み込み、異臭が鼻腔びくうを痛め付けた。

 ほんの最近まで人々に美味を提供していたであろう空間には、今や死と暴力のみが残されている。


「ひどいな。ここで何があった?」


 正太郎が尋ねると、マリーは、唇を一度噛んでから開いた。


「このあたりでも評判の創作料理店なんだけど、三日前、ここのスタッフや食事していた客が突然暴れ出したの――」







 事件が起きたのは、三日前の午後十時二十七分。

 現場となったエリーゼの下の階にある喫茶店から『三階のレストランが騒がしい』と通報を受け、最初に駆け付けた二名の制服警官は、現場の異様な光景に絶句した。

 崩壊した店内で、十数人の人々がいずれも血塗れの姿を呻き、のた打ち回っている。

 痛みによるものか、あるいは恐怖によるものか、定かではない。


 二人の制服警官は、男女のペアであった。

 しかしいずれも硬直し、苦しむ人々を助け起こそうとか、現場で何が起きたかを尋ねようとはしない。

 その原因となったのは、三名のコックだった。


 まず二人の目に飛び込んできたのは、コック服を着た若い女性である。

 純白だったはずのコック服は、乾いた返り血と嘔吐物、さらには人間の出し得るあらゆる体液が染み込み、どどめ色に染まっていた。

 彼女は、人間だったと思しきものに馬乗りになって、赤黒いゼリー状の物体を殴り続けている。

 乾き始めた血塊か、あるいは血染めの臓器なのか。

 女性が嬉々として拳を振り落すたび、ビシャリ、ビシャリと水音が響く。その度、女性は高笑いしたかと思うと、絶望に唇を歪め、赤黒いゼリーを舐め回した。


 彼女の背後では、コック服の若い男性が何かを口に含んで、飴玉みたいに舐めている。

 何度か舌の上で転がすと、床に吐き捨てた。

 それは充血した眼球であった。

 数分、眼球をぼーっと眺め、指で摘まんで、また口の中に放り込む。

 彼の傍らには、首から上がすり潰された女の遺体が転がっていた。


 また別のコック服の男が清掃服に身を包んだ男の首に手をかけて、涎を垂らしている。

 二名の制服警官は、いずれも清掃員の男を助けようと動かなかった。既に死斑が出始めており、もう亡くなっているはずだと。

 いや、二人は、それを理由にしたに過ぎない。本来ならわずかな可能性に欠けてでも清掃員の男性を助けるべき場面だ。

 しかし死斑が出ているからもう助からないと二人ともが声をかける事も、示し合せる事もなく、同じ判断を下した。


 二人の考えは、共通していた。

 もしもあの男に近付けば、自分達が殺されるだろうと。

 人間の修羅場を見続けてきた彼等は、恐怖に屈し、動かない事を選択した。

 そして十数分もの間、傍観者で居続けた後、女性の制服警官が無線を手にし、応援要請をした。

 駆け付けた捜査員達がいずれも二人の制服警官と同様の反応であったのは、言うまでもない。


 最終的な死傷者の合計は、店のスタッフも含めて十二人。

 死亡したのは、四人。

 生き残った者の事情聴取が行われたが、全員がまともに話の出来る状態ではなかった。

 殺人を犯した者は、特にひどい錯乱状態であり、

 

『来り、足りて、エイッ!』


『あたまは? さがそうね。探そうね!』


『ねぇ。山羊さん。頭は、何処おおおおおお! 隠さないで!! あああああ!! 赤ずきん!! 赤ずきん!! 赤ずきん!!』


 絶え間なく意味不明な言葉を口走った。

 精神科医によれば、何かを伝えようとしている可能性もあるらしいが、現場となった店には山羊や赤ずきんに関連するものはない。

 比較的軽症の被害者から得られた証言も曖昧であったが、唯一の共通点が幻覚を見た事だった。







 マリーから警察の捜査状況を聞かされ、エリカが気に留めたのは、幻覚というワードだった。


「幻覚? どんな幻覚だったの?」

「直接被害者にも聞いたけど、支離滅裂だった。ただ一貫していたのは、発狂するほどの狂気を焼き付けたって事」


 マリーの言うように、普通の事件ではない可能性が高い。

 エリカは、そう結論付けようとしたが、正太郎が異を唱えてきた。


「ワードと断定するの速いだろ。薬でもやったんじゃないのか?」


 正太郎の言うように、人に幻覚を見せて、狂気に駆らせるのは、ワードだけではな。

 薬物の過剰摂取でも幻覚を見る事はあるだろう。

 正太郎の推測に、マリーは渋々と頷いた。


「確かに警察の捜査で被害者全員と、この現場から薬物反応が出た。LSDに近いらしい」

「なら決まりだろ。ラリった客の乱闘騒ぎか、料理に薬物が混入したかだな」

「ここの人達は、絶対料理にドラッグを混ぜたりしたい。それに成分が近いだけで厳密には、未知の成分だったって」

「未知ね……」

「それが引っ掛かる」


 客の乱闘騒ぎの原因は、恐らく幻覚を見た事。

 そして被害者から検出された未知の成分。

 エリカからすれば、ワードの仕業であるとするマリーの主張を裏付けるには、十分すぎる証拠だ。

 しかし正太郎は、懐疑的な態度を崩さなかった。


「正体に見当は、ついてるのか?」

「ついてないから正太郎を呼んだ。正太郎なら分かると思って」

「見当もつかないな。ワードの仕業って線も確実ではないし」

「でも!」


 声を荒げたマリーの顔に、普段の涼しさはなく、正太郎に信じてもらえない悲しみと、ぶつけ所のない怒りで塗り潰されている。

 気まずそうに眉を掻きながら、正太郎は、薫に視線を向けた。


「亀城。裏路地のゴミ置き場に、血を染み込ませたパンを撒いといてくれないか? 町を偵察してほしい」


 正太郎は、ズボンの後ろポケットから二つ折りの皮財布を取り、薫に投げ渡した。


「分かった」


 薫は、財布を握り締めて、店を出て行った。

 その姿を見送ってから最初に口火を切ったのは、涼葉である。


「私達は、何すれば?」

「俺と一緒に推理だ。犯人がワードならどんな奴か。そもそもワードなのか」

「ワードだよ。絶対」


 マリーの声が先程よりも強張っている。


「ワードと断定する決定的な証拠は、ないだろ?」


 正太郎の方も、簡単に持論を曲げるつもりはないらしい。


「私を信じないの?」

「そうじゃねぇよ。だが、決めつけて動くのは危険って事だ。これが薬物の過剰摂取や混入事件だったら俺達が首を突っ込むべきじゃない」

「絶対にワードだよ」

「どうしてそう言い切れる?」


 議論は、熱を帯び、平行線をたどっていたが、


「ここのスタッフやお客さんの事は、よく知ってる。ドラッグなんかやらない!」


 マリーの一声が正太郎を口籠らせた。


「絶対にドラッグなんかやらないよ……」


 悲哀に飲まれ、消え入りそうなマリーを正太郎は、現実に繋ぎとめるようにまっすぐ見つめた。


「知り合いだったのか?」

「うん……」

「そうか」


 正太郎は、ばつが悪そうな顔をした。

 近しい人々に危害が及んだからこそマリーは、ワードの存在をかたくなに信じている。

 涼葉と出会った時のエリカも、ワードの仕業であれば、自分が助けられる範疇の事だから、そうあってほしいと願っていた。

 マリーの場合も、ワードが相手なら、大切な人を奪った仇へ復讐する大義名分を得られる。

 復讐を強く望むのは、もしかしたら歪んでいるのかもしれない。

 尋常を外れた力があるからこその、野蛮な思考。


 けれど、エリカのマリーに対する共感は、強かった。

 自分だって、マリーの立場に追い込まれたら、同じように考えるだろう。

 自分が裁きを下せる相手であってほしいと。

 そんなマリーの心情を宥めるように、正太郎は、マリーの頭に手を置いて、髪を一撫でした。


「手伝うよ」


 そう告げると、マリーは笑みを零し、猫のように正太郎に擦り寄った。

 正太郎は、鬱陶しそうにマリーを引き剥がすと、改めて店内の様子に目を向ける。


「しかし幻覚か。対象が広いな」

「先生、幻覚を見せるワードって多いんですか?」


 涼葉に問われると、正太郎は、右手の親指と人差し指で顎を撫でつつ言った。


「幻を見せるってのは、物語の代表的な類型の一つだ。確かに候補が多過ぎてマリーでも絞りきれないか」

「例えばどのようなものが?」

「有名所だと、マッチ売りの少女だろうな」


 世界中の人が知っている有名な童話だ。

 マッチ売りの少女が暖を取るためにマッチを擦る度、幸せな幻を見るが、最後には寒さで死んでしまう。

 悲しい物語だが、エリカは、この作品にある種のシンパシーを感じていた。


「私のグリムハンズ、シンデレラよりどっちかって言うと、そっちに近いと常々思ってたんだよね」

「そうか?」

「マッチ使うし」

「火種の問題だろ」


 素っ気ない正太郎の対応に、エリカは、わざど唇を尖らせて抗議してみたが、正太郎に取りつく島はなかった。

 これ以上いじけても構ってくれないと踏んだエリカは、話題を戻す事にした。


「今回のワードの正体、マッチ売りの少女って可能性はあるの?」

「可能性は低いな。マッチ売りの少女をモチーフしたワードなら以前倒した事がある」

「先生が?」

「ああ。三年前ドイツでな。幻覚に絡む主人公、マッチ、おばあさんの三体を封印してる。ちなみにマッチ売りの少女のワードは、身体から炎を出し、その炎を見た物に幸福な幻覚を見せて、自分に引き寄せ、焼き殺すというものだった。マッチのワードとおばあさんのワードも炎を使ってきたな」

「じゃあ今回は、全く別の物語か……」


 被害者が幻覚を見て、発狂し、乱闘を始めた。

 幻覚の内容の詳細は、証言が支離滅裂で不明。

 LSDに似た未知の成分が被害者達から検出されている。

 これらのヒントがどのような物語に導いてくれるのだろうか?

 答えを辿りつくには、あまりに少ない手掛かり。

 推理が硬直し、思索が微睡んでいく中、声を上げたのは、涼葉であった。


「マリーさん。被害者から薬物成分が検出されているんですよね?」

「うん」

「ワードの力って科学的ではないですよね」


 涼葉の言わんとする事が分からず、エリカの困惑は深まっていく。


「涼葉さん? どういうこと?」

「魔法染みた、言うなれば物理法則を無視したような力を私達グリムハンズも、ワードも行使出来るでしょ。それにしてはLSDって随分現実的というか」

「未知の成分って時点で魔法染みてない? 私は、そう思うけど」

「エリカちゃんの言う事も分かるんだけど、LSDっていうのが具体的過ぎて引っかかったの」


 何の気なしのエリカの指摘に、涼葉が萎れていき、罪悪感が胸を刺す。

 助けを求め、正太郎を一瞥すると、彼は、面倒そうに眉を寄せながらも、


「涼葉のそれ。案外いい線行ってるかもな」


 助け舟を出しながら、さらに畳みかけた。


「マリー。ワードの姿は、目撃されてないのか? 被害者が幻覚だと思っている物がワードって事もあると思うぞ」

「分からない……ここ二日ぐらいは、会ってないから」

「どうして?」


 またも何の気なしにエリカは聞いた。

 何かの意図を持っていたわけではない。

 マリーが被害者に会わない理由が純粋に知りたかっただけだった。

 しかし俯いてしまったマリーの反応が、エリカに地雷を踏んだ事を自覚させた。


「あ、ごめん」


 不用意に一番聞いてはいけない事を聞いてしまった。

 後悔もすでに遅く、マリーの白い頬を涙が伝い落ちていく。


「あの……」


 そんな最悪のタイミングで帰ってきた薫は、最高潮に気まずい雰囲気に圧倒されながら正太郎に財布を返した。


「どうしたの?」

「エリカが泣かせた」

「ちょっと先生! ちがっ!? いや違わないけど、やっぱ違っ……わないけど、無実ではない?」

「ギルティだな」


 とりあえず余計な事は、もう言わずに黙っていようと、決めるエリカであった。

 しかし状況が飲み込めず、薫の戸惑いは一層増していく。


「何があったのか説明してくれる?」

「マリー。明日になったら病院に連れて行ってくれ」

「分かった」

「僕は、蚊帳の外かな?」


 けれど誰も相手にしてくれず、一人、疎外感に苦しむ薫であった。

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