第九章:空谷町連続殺人事件
一頁:始まり
男は、困惑していた。
「誰か!!」
発した声が反響し、重なり合って鼓膜を揺らす。
右足を小さく踏み出してみると、水音が跳ねた。革靴と靴下に水気が染み込んでくる。
足元から糞尿を煮詰めたような臭いが立ち上ってきて、えづきと共に
これは、汚水であろうか?
いつも通りの日常を過ごしていたはずの男は気が付くと、この場所にいた。
朝六時頃には妻に起こされ、上下で二万円のスーツを纏い、満員電車に揺られて会社に行き、卒のない仕事をして帰路に着く。
家では、二人の子供達が待っているから、飲み会の誘いも断った。
素晴らしい父親であり、誰よりも良い夫であるとは思わないが、平均点は取れているとの自負がある。
そんな自分がどうして非日常の闇に迷い込んだのか。
何故。
どうして。
二つの単語が浮かんでは消えてループする。
いつもと違う行動は、取っていないはずなのに。
とにかく闇をどうにかしなければ身動き一つ取れない。
上着のポケットを探してスマートフォンを探してみるが、見つからない。
どこかで落としてしまったらしい。
子供が生まれる前は、タバコとライターを持ち歩いていたが、今ではいっぱしの嫌煙家だ。
男は、初めて禁煙した事を後悔した。
「どこなんだよ。ここ……」
答える者は、居ないから、声にするだけ無駄。
分かっていても発したのは、誰かが聞いてくれるのではという淡い期待からだった。
「助けてくれ!!」
やはり答える者は、居ない。
途方くれる男の鼻腔に、
ふしゅー
っと音が鳴って、生臭く温かい臭気が潜りこんできた。
今まで感じていた物とは違う。
生理的な嫌悪を呼び起こし、本能的な恐怖を撫でつける不愉快な匂いだ。
鼻を摘まみたいのに、凍り付いたように身体が動かない。
今すぐ逃げ出したいのに、足は、がたがたと震え、汚水の水面に波紋を作る。
ふしゅー
また鳴った。
さっきよりも近付いている気がする。
男は、あの不愉快な匂いが来ると思って、鼻でも口でも呼吸を止めた。
ふしゅー
さらに近付いてくる。
生き物なのだろうか?
しかし水音は聞こえない。
足のある生き物なら、水音がするはずだし、空を飛べるなら羽音がするはず。
或いは、虫が壁でも這っているのか?
いや、虫なら悪臭を発する事はあっても、こんなに大きな音は出せないはずだ。
ふしゅー
四度目で男は、気付く。
頭上から奇怪な悪臭と音は、降りてきている。
何も見えないと分かっていながら男が仰ぎ見ると、ぬるりとした感触が顔面を覆い尽くした。
声を上げそうになるも、浮遊感が全身を支配する。
自分の身に何が起きているのか理解する間もなく、後頭部に熱が広がっていく。
再びの浮遊感、その後に襲ってくる堪えがたい熱。
何度も繰り返されて、
――そうか。これは。
ようやく男は、気が付く。熱の正体が痛みである事を。
けれど気付いた時には、既に熱は消え失せており、あるのは自分の頭から何かが抜け落ちる感触。
それが砕けた後頭部の隙間から零れた脳であると気付いた時、男は全ての感覚を失った。
空谷町・宝山通りは、都内でも有数の飲み屋街であり、創業から五十年を超える居酒屋がいくつも軒を連ねている。
深更になっても空谷町が眠る事はなく、朝まで飲み明かす者も少なくない。
時刻は午後二十二時。これからが宝山通りの始まりという頃、宝山通りの中でも最も古い立ち飲み屋『悟空』の裏手、人が二人程しか通れない狭い路地に若い男性の遺体がうつ伏せで血の海に浸っていた。
空谷警察署の刑事、冴木竜次郎は、鑑識作業の邪魔をせぬよう、規制線の外から遠目に遺体を眺めている。
鑑識官の一人が被害者の右手の人差し指を、手のひらサイズの指紋認証装置に十秒ほど押し当ててから冴木を見やった。
「スピード違反で指紋登録が」
「被害者は?」
「松葉正和。二十八歳。職業は、ホテルのフロント係です」
「死因は?」
「詳しくは司法解剖をしないと何とも。でもまぁ失血死でしょうね。ほぼ間違いなく」
「ま、この状況じゃ、そりゃそうだわな」
鑑識官は、被害者の右の首筋を指差した。
冴木が目を凝らすと、そこにはボールペンの先程の小さな穴が開いている。
「ここから血が噴き出たものと思われます」
「針かなにかか。珍しい凶器だな。わざわざ、こんな目立つ場所で犯行をってのも引っ掛かる。どうしてまた?」
「ですが、目撃者は一人も居ないんでしょ?」
「酔っ払いが多いっつっても、時間帯を考慮すると、神がかり的か。あるいは奇跡の早業だな」
ベテラン刑事は、自身に問う。
こんな無謀な犯行、ありえるのか?
否である。
被害者の衣服は血塗れであるが、実のところ、争ったような形跡が見られない。
犯人に奇襲され、反撃の間もなく首を刺されたのだろう。
だが、常人に可能な芸当とは思えない。
ドラマや映画では針で人を殺す暗殺者は、数え切れないほど出てくる。
だが被害者が抵抗する間もなく、急所を針で貫いたり、頸動脈を一撃なんて技は、現実には不可能に近い。
針で殺すなら毒針って言うのが精々だし、これもスパイ映画全盛期の冷戦中ならともかく平成最後の年の日本でというのは、無理がある。
失血死させるだけならカッターナイフやキッチンナイフなど、手頃な刃物でやる方が手っ取り早いし、いつ人通りがあるとも分からない場所で犯行に及ぶのも不可解だ。
銃乱射犯や大量殺人犯、アメリカで言う所のスプリーキラーならば、むしろ人通りの多い場所で犯行に及び、より多くの被害者を出そうとする。
だが、今回の犯行の犠牲者は、冴木の眼前で横たわる青年一人だけ。
恐らくは、彼が狙いであったのだろう。
特定の人間を殺す場合、余程の特殊な事情がない限りは、身内か知人の犯行だ。
喧嘩でカッとなってというパターンでない限り、人目の付かない場所で殺すのが王道である。
今回の事件の場合、凶器が現場に落ちていない事や、被害者に反撃の痕跡がない事、傷口の特殊な形状から衝動的な犯行とは、考え辛い。
眠らない町として有名な空谷町で、いくら店の裏手の狭い路地でも、もっとも人通りの多い宝山通り。
目撃される事を考慮すれば、計画殺人の犯行場所の候補としても外れる。
仮に冴木が犯人でも、ここでは殺さない。
自分の有利なフィールドに引きずり込んで、安全を確保してから料理する。
もちろん諸々の要素を考えれば完全犯罪は、不可能に近い。
捜査技術の発展した現代においては特にだ。
だがリスクを減らす努力は出来る。
無謀で知能の低い犯人でも、低いなりに工夫はする。
今回の事件は、そうした形跡が一切見られない。
その一点が冴木の中で引っかかっていた。
こういう違和感は、刑事にとって喉に引っかかった魚の骨より忌々しい。
冴木が推理を巡らせている内に鑑識作業は終わり、遺体も運び出されて残ったのは、血痕と規制線のテープだけ。
一人残った冴木は、火を点いていないタバコを咥え、現場の血痕を眺め続けている。
ある人物から連絡があり、彼の到着を待っているのだ。
「まったくどういうヤマなんだこりゃ。はぁ――」
「冴木さん!」
冴木は、現場に不釣り合いな少女の存在を訝しく思いながらも、倉持に対して
「倉持警部殿。
「嫌味な人だな。ちゃんと現場には、出てますよ」
「悪い悪い。拗ねるな」
倉持が捜査一課に配属され、最初にコンビを組んだのが冴木だった。
二人が組んでいたのは、冴木が本庁から異動する半年までの短い期間だったが、今でも互いに尊敬し、時折連絡も取っている。
「倉持、そちらの御嬢さんは?」
冴木が倉持の隣に居る少女を視線で示すと、少女は、無愛想にそっぽを向いてしまう。
眉をひそめた冴木を見かねたのか、倉持の声音に焦燥が混じった。
「マリー・マクスウェルです。沙月エリカの事は、最近知られたと窺っていますが……」
遠回しな倉持の言だったが、冴木はその意を察し、驚きを隠さなかった。
「まさかあの子も?」
「ええ」
断片的だが、確かに記憶に残っている異能の技。
沙月エリカと同じぐらいの年頃に見えるマリーもあの凄まじい力を持つのだろうか?
何より冴木の気掛かりは、年端もいかない子供達が化け物達と熾烈な戦いの日々を送っているという事実だった。
「グリムハンズってのは、子供に多いのか?」
「そういうわけではありません」
「じゃあなんで子供を?」
「彼女は、優秀でして」
倉持は、意味もなく子供を危険に晒す男ではない。
そんな彼が子供でありながら現場に連れて来たという事実が、マリー・マクスウェルという人間の優秀さを証明している。
「グリムハンズとの合同捜査という形か?」
冴木が囁き声で尋ねると、倉持も同じ声量で返してくる。
「そういう事です」
「じゃあこの事件の犯人は、例のなんちゃら言う?」
「警視庁に居る小村というグリムハンズが、ワードの気配を感知する能力を持っています。空谷に何か居る程度の広い範囲でしか探知出来ないんですが」
「俺になんかが憑りついてるって気付いた奴か?」
「そうです。その節は、災難でしたね」
「まったくだよ。そいつに犯人探しは、手伝ってもらえないのか?」
「相手のワードによるんですが、絞り込んでも数百メートル~数キロの範囲なので、正確な居場所の特定は難しいですね」
「もうちょっと絞り込める奴は、いないのか?」
「ワードの気配を探知出来るってだけで希少な使い手です。これ以上の精度となると……」
これまでの饒舌が嘘のように、倉持は、口を閉ざしてしまった。
「どうした?」
「いえ。なんでもありません」
なんでもないわけがない。
人を見る目は、優れている自身がある。
それは友人相手にも如何なく発揮されるのだ。
興味本位に踏み込んでいい領域ではないと、本能的に嗅ぎ付けた冴木は、話題を変える事にした。
「迷宮入り事件の何割が、化け物の仕業なのかねぇ」
「事件になっていないケースの方が多いですよ。こうなって遺体が見つかるだけラッキーです」
「ラッキーね。ま、始めるとしますか」
冴木と倉持は、マリーを伴って規制線の中に足を入れた。
するとマリーは開口一番、
「倉持。この人はいいの?」
冴木を無表情で睨み付けながらそう言った。
「問題ない。彼は、ワードとグリムハンズの事情を知っているし、正太郎の知り合いでもある」
鉄のように無愛想だったマリーの表情に、綻びが生じる。
どうやら正太郎という人物には、好意を持っているようだ。
だが、一方の冴木は、どこかで聞き覚えがありながら要領を得ない名前に、眉根を寄せた。
「正太郎って?」
「如月正太郎。沙月エリカの担任ですよ」
「ああ! あの兄ちゃんか」
如月という珍しい姓の印象が強すぎて、正太郎という古風な名前が印象から抜け落ちていた。
「夏なのに、朱色のジャケット着てる変わった――」
「似合うからいいの!!」
突如上がったマリーの声に、冴木は怯んだ。
大の男を圧倒する程の、強大な殺意が込められている。
子供相手に怯んだ事実よりも、子供がこれほどの害意を持てる事に、冴木は戦慄した。
「夏にジャケットでも、正太郎は、似合うからいいの」
あのジャケットには、何か特別な謂れがあるのかもしれない。
そして、倉持の件同様、深く突っ込んでいい話題ではない。
ここは先程同様、話題を変えるのが得策であろう。
「って事は、あいつもグリムなんちゃらか」
倉持に尋ねたつもりだった冴木だが、マリーの苛立った声が割り込んできた。
「正太郎。名前は如月正太郎」
「正太郎ね」
「気安く呼ばないで」
「どっちだよ! まぁいい。どんな能力だ?」
「マナー違反」
「は?」
一際鋭い声音を冴木に突き刺して、マリーの眼光は、険しさを増していく。
「グリムハンズに能力を聞くのは、マナー違反。絶対にダメ」
「そりゃ、悪かった」
「おじさん素人?」
「まぁ、な」
「私達と仕事するなら、ちゃんと勉強して」
冴木も、孫でもおかしくない歳の少女に、ここまで言われると腹が立ってくる。
「生意気だな。頭叩いていいか?」
冗談めかして言うと、倉持の顔色が真っ青に染まり、風切り音のしそうな勢いで首を横に振るった。
「殺されますよ。冗談抜きで」
確かに沙月エリカのような力を振るえるのだとしたら、冴木を殺すなんて虫を潰すよりも簡単だろう。
「物騒だな……おい」
「あの子を飼い慣らしてるのは、如月正太郎ぐらいのものです」
「エリカも随分信頼してるみたいだったしな。そんなにすごい奴なのか?」
若いながらに雰囲気のある、そして食えない男だとは、分かった。
エリカやマリーの信頼を見るに、冴木の抱いた印象に大きな間違いはないはずだ。
だが倉持は、冴木の問いに、肩を震わせている。
「いえいえ」
「え? すごいんじゃないのか?」
「人間的には、未熟もいいとこですよ。短気だし、優柔不断だし、おちゃらけ
「いいとこねぇな……」
「でも、そういう所もかっこいいの」
「お嬢さん、正太郎がうんこ漏らしても理由付けて、かっこいい方向に持っていきそうだな」
「り、理由次第ではかっこいいし……」
「うんこは、さすがにあれなんだな」
話題の方向が脱線しかけた時、倉持の表情が憂いを秘めた。
「でも世界を救った英雄です。なのにあいつは、未だに自分が世界を滅ぼしかけた大罪人だと思ってる」
倉持は、何かを酷く気に病んでいる。
その一因が、正太郎の過去なのだろう。
正太郎の過去と倉持の触れられたくない部分は繋がっているのは、間違いない。
やはり触れるべきではないと冴木の直感が告げていた。
立ち入るべきではないと分かっている。
けれど、初めて見た倉持の悲痛に支配された姿に、冴木は尋ねずにはいられなかった。
「何があったんだ?」
しかし問いを寸断するように、マリーの視線が穿ってくる。
無理に聞き出そうとすると、本当に殺されかねない予感が冴木を過ぎった。
何より倉持もあまり話したそうにはしていないし、現状ワード絡みと思しき、殺人事件が立ち塞がっている。
自身の好奇心を優先する場面ではないと冴木は悟った。
「分かったよ。マナー違反ってやつだろ」
先日ワードに憑依されて知ったのは、世界の裏側に広がる未知。
想像もした事のない狂気が蠢く現実。
しかしそんな真実を知っても知らない方が良かったと思わなかったのは、刑事の性だろうか。
真実をより深く理解したいとばかり思ってしまう。
「まったく。刑事一筋三十三年だってのに、今更新人扱いかい」
若造に無知扱いされているのに、もどかしさよりも知的欲求ばかりが脳の奥から湧き出してくる。
定年間近にして、新しい事を学べるのが何よりも喜ばしかった。
「まぁいい。それも面白い。じゃ、改めて捜査を始めようや」
その言葉を合図に、三人は番号札とテープで形を囲われている遺体の遺棄されていた場所に立った。
「被害者の人、どんな仕事してた?」
マリーの問いに答えたのは、冴木だった。
「ホテルのフロント係だそうだ。それがどうかしたのか?」
「ワードは、物語から発生した存在。物語の単語や一節が顕現したもの」
「被害者の職業と関係あるのか?」
「ワードの行動は、発生した物語に縛られる。ホテルのフロント係が殺されたなら意味は、ある。それに針で殺されたんでしょ?」
「ああ。頸動脈をブスリ。仕事人みたいな奴だよ」
マリーは顎に手をやり、暫しそうしてから倉持を一瞥した。
「倉持。正太郎呼んでくれない?」
「どうして?」
「確かめたい事がある」
と言い残して、マリーは足早に現場を去ってしまった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます