二頁:集結
正太郎は、一冊の文庫本を手にマリーの事務所を訪れた。
持ってきたのは日本語訳されたグリム童話集である。
「これでいいのか。英訳もあったのに」
「ありがとう。こっちの方がみんなも読みやすいし」
マリーは、文庫本を受け取ると、微笑しながらページをめくり出した。
正太郎は、倉持と事務所内に詰め込まれた銃器類に驚愕する冴木に会釈してから、ソファーでお菓子を食べている童話研究会の面々に視線を移した。
「お前ら何やってんだ?」
「泊まりで遊びに来てたんだ。マリーに誘われて」
エリカが答えると、
「なのに倉持が……」
マリーは、恨めしげな視線を倉持にぶつけた。
居心地の悪そうな倉持だったが、冴木の方は雲が晴れたような笑みであった。
「それで嬢ちゃんは、機嫌が悪かったのか」
「だって。友達と遊んでるのに、倉持がいきなり来るんだもん」
「悪かったよ。でも仕事だからさ」
「うるさい」
マリーは、一度へそを曲げると滅多な事では機嫌を取れない。
それをよく知る正太郎は、自分ならばと思い、柔らかい声で
「マリー、倉持だって好きで邪魔したわけじゃないんだ。許してやれよ」
「仕事忙しいから滅多に遊べない。今日は前から約束してた」
これは相当だ。
単独での説得は、難と判断し、正太郎がエリカに増援を求めるべく
エリカはソファーから立つと、マリーの肩を抱きしめて頭を撫でた。
「まぁまぁ。今回は、一緒に仕事するって事でいいでしょ?」
「でも……」
「私は、いつでも暇してるから、マリーが時間出来たら、いつでもあそぼ? ね?」
エリカがマリーの頬を突くと、渋々頷いてから倉持へ顔を向けた。
「うん……分かった。倉持が報酬三倍にしてくれたら許す」
グリムハンズが政府の依頼でワードを倒した際には、数十万~数百万円の報酬金が支払われる。
ワードの出した被害規模によって金額はまちまちで、国から直接支払われる場合もあれば、討伐を依頼した省庁の予算という事もあり、ケースによって異なっている。
今回の件は、警視庁の依頼であるため、報酬金は警視庁持ちだ。
「刑事部長に掛け合ってみるよ……」
倉持を見る冴木の目には、余所余所しい気遣いが浮かんでいた。
「使途不明金の内訳が少しだけ理解出来たわ。キャリア連中も大変だな。ノンキャリで良かったわ」
「慣れましたよ……ていう私もノンキャリなんですが。どうしてこんな板挟みに」
「諦めろ倉持ぃ!」
正太郎は、小躍りしながら皮肉っぽく笑んでいる。
「どう転んでも、お前は、一生グリムハンズの奴隷じゃー」
「ちくしょう……」
絶望する倉持を無視して、冴木は、マリーの読んでいる本を肩越しに覗き込んだ。
「如月さんよう。この本はなんだい?」
「文庫版のグリム童話集ですよ」
「グリム童話? そいつで何が分かるんだい?」
「ワードは、世界に
「つまりは物語を読めば、ワードの正体も分かるって事か」
「そういう事です。本来は、膨大な物語の中からワードの正体を推理しなくちゃならないんですが、今回はマリーの奴が見当を付けてたんで一冊だけで済みましたよ」
マリーは、ページをめくる手を止めて冒頭のタイトルを指で叩いた。
「うん。やっぱりこれだと思う。ならずもの」
「ならずもの? どういう話なの?」
エリカが問うと、マリーは語り始めた。
「
「そりゃお腹一杯だもんね」
「どっちが車を引くか話し合っていると、山の持ち主である鴨がやってくる。当然鴨は怒るんだけど、雄鶏とのけんかに負けて、車を引かされる事になる。一行は、山を下る道中とめ針と縫い針に出会った」
『待ってくれ! 乗せてくれ!』
「とめ針と縫い針は、もうすぐ真っ暗になる。隅っこに乗せてもらえないかと尋ねた。雄鶏は、彼等も乗せるんだけど、夕方になると、さすがに鴨が疲れてしまって宿に泊まる事にする。けれど」
『俺の宿は、もう一杯だよ』
「いろいろ理由を付けて宿の亭主は、雄鶏達を泊めたがらなかった」
『それなら代金に道中、雌鶏が産んだ卵をあげます。ついでに毎日卵を産むこの鴨もどうでしょうか?』
「亭主は、雄鶏の言葉に折れて、宿に泊める事にした。でも雄鶏と雌鶏は早朝、宿の主人が起きる前に卵の中身を飲んで、その殻を暖炉の中に放り、縫い針ととめ針を椅子と手拭いに仕込んで逃げてしまう」
「ひどくない?」
「鶏が逃げたのを知り、鴨も逃げ出してしまう。それからしばらくして起きた宿の亭主は、針が顔やお尻に刺さり――」
「店主になんの恨みがあんの?」
「さらに破裂した卵の殻を顔に浴びたり、散々な目にあって、雄鶏達に騙された事に気付くっていうお話。どうエリカ?」
「鶏食べる罪悪感なくなった」
エリカは、チキンコンソメ味のポテトチップスを蔑むように見つめながら口いっぱいに頬張った。
一方で冴木は、マリーの説明を上手く咀嚼出来ていないらしく、
「嬢ちゃん。どうしてこの話が今回の事件と関係あると思ったんだ? 俺にはよく分からねぇ」
マリーの顔色が途端に険しくなる。
このままでは、事態が好転しない事だけは、間違いないと直感し、マリーが悪態をつくより速く正太郎が口を開いた。
「これと似たような話は、世界中どこにでもあるんですが、今回は、この物語と犯行の手口に一致する点が多い。マリーの推測で間違いないでしょう」
「となるとターゲットになるのは、ホテルの従業員か?」
「恐らくは」
「よし。方向性が定まったらあとは足を使うか!」
冴木が倉持の背中に張り手を打ち込むと、風船を割るみたいな甲高い音が事務所内に響き、倉持は背中を抑えて蹲った。
「冴木さん、相変わらず強いです……」
「良い音してるなぁ。冴木さんもう一発」
正太郎が煽ると、冴木は嬉々として右手を構えた。
「いいぞ!」
「やめてくださいよ! 正太郎! お前も変な事を頼むな!」
「お前ノリわりぃな……」
「やまかしい!」
「からかい飽きたし、そろそろ行くか」
「俺は、お前の暇つぶしのおもちゃか何かか?」
「先生! 私達もいく!」
友達の家に遊びにでも行くようなエリカの調子に、正太郎は眉間のしわを深くした。
「エリカ、遊びじゃないんだぞ」
「分かってるよ!」
正太郎は、エリカの瞳を覗き込んだ。
表層は、子供っぽい無邪気さが浮かんでいるも、奥には死をも覚悟する意思が光っている。
精神的に余裕はあるが、微塵も油断はない。
戦いの場へ赴くのに、一番いい状態と言える。
正体が分かってもワードの顕現の度合いや力は未知数だ。危険は大きい。
かと言って猫のように可愛がっていては、エリカ達の成長の妨げになる。
リスクを最小限度にしつつ、関わらせるのがベターだろう。
「人手が居るに越した事はないか。危ない事はすんなよ」
「分かってる」
「エリカ。一緒にいこ」
「うん。いいよ」
マリーの誘いは、半ば計算付く。
一緒に居たいという気持ち半分と、お目付け役を買って出ているのが半分。
正太郎は、気遣いに感謝しながらも、エリカにばれないよう表情には出さない。
「亀城もエリカ達についていけ。涼葉は俺達とな」
「分かった」
「悠木涼葉です。よろしくお願いします。冴木刑事」
「よろしく頼むよ」
メンバー分けも済み、改めてワード討伐に向かおうとしたが、
「待ってください」
今度は、倉持のスマートフォンの着信音が全員の足を止めた。
「倉持です。分かりました。はい」
二言程度の短い会話なのに、倉持の声音は、濁っていき、通話を終えると同時に、鉛のような嘆息をついた。
「冴木さん。また殺人です」
冴木は、舌を打ち、額を右手で擦った。
「遅かったか……」
正太郎は、刑事ではないが、被害を未然に防げなかった悔しさは、理解出来る。
しかし倉持の方は、煮え切らない様子だった。
「いえ。関係あるかどうか」
倉持の態度を一番訝しんだのは、冴木であった。
「どういう事だ?」
「下水道で遺体が発見されたんです」
「それで?」
「身元が割れたんですが、ホテルの従業員じゃないと」
倉持から告げられた新事実が、正太郎達の抱いていたワードの正体への確信を打ち砕いた。
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