四頁:グリム
「どうぞ」
扉を開き現れたのは、ドイツにあるワード研究所の主任研究員のコープランド博士と、傍らに寄り添うスケッチブックを胸に抱いた幼い少女だった。
年頃は、まだ十歳にも満たないように見える。
ふわふわと癖のついたプラチナブロンドの髪が腰まで伸びており、あどけなくも端正な顔立ちと白いワンピースドレスの姿は、ビスクドールを髣髴とさせた。
「博士」
『やぁ久しぶりだね』
ドイツ語で話しかけられ、正太郎もドイツ語で返した。
『御足労感謝します』
『ここに居るという事は……まさか君がやるのか?』
正太郎が首肯で答えると、コープラントの顔色が曇天のようにくすんでいった。
『今回の件に向いているグリムハンズは連れてきている。美月の事は――』
『いえ。俺がやります。俺がやるべき事なんです』
例え誰に言われようとこの一線だけは、譲れない。
誰かに押し付ける事だけはしたくないし、きっと美月も望んでいないはずだから。
正太郎の決心が伝わったのか、コープランドは息を呑みながら頷いた。
『そうか……なら私には、何も言う資格はない』
『わがままですいません。その子が例の後継者?」
正太郎が視線で少女を示すと、コープランドは、彼女の肩を押して、一歩だけ踏み出させる。
『ああ。研究所のリストの中では、この子がもっともグリムに適性がある』
正太郎は、少女の元に歩み寄ると、目線を合わせるため、片膝をついた。
『こんにちは、お嬢さん』
『こんにちは』
『名前は?』
『アリスよ』
アリスは、爪先で立つと正太郎の肩越しに、美月を見つめた。
『あの女の人は?』
『おじさんの大切な人だよ』
正太郎は、アリスの手を取り、美月のベッドの傍らまで連れて行った。
『グリムのグリムハンズを持ってるんだ。その力を今から君に移すんだよ』
『いいの?』
正太郎が頷くと、アリスは、眉をひそめ、碧眼に悲哀の色を滲ませた。
『死んじゃうんでしょ、その人』
これからする事を思い知らされる。
確認させられる。
噛み締めさせられる。
『グリムハンズは、死ぬと他の人に引き継がれるんでしょ。じゃあその人を――』
正太郎が今日ここに来た理由は、一つ。
壊れてしまった美月が宿し続けるグリムを開放し、別の適合者に受け渡す事。
通常グリムハンズは、宿主が死ねば、新たな適合者を自ら探す。
マリーの
逆に言えば、宿主が死なない限り、グリムハンズは、如何なる状況にあっても主に寄り添おうとする。
だからこそグリムを宿している美月をこのままにしておく行為は、人類のとって最も崇高なグリムハンズを死蔵させるに等しかった。
『そうだよ』
『本当にいいの?』
いいわけがない。
個人的な感情を優先するなら、このまま生きていて欲しい。
何十年掛かってでも、元に戻す方法を探し出す日まで。
けれどグリムは、神災級に立ち向かうには、必要不可欠な存在だ。
使えない人間に、いつまでも宿し続けていい力ではない。
『ああ。いいんだよ』
自分で撒いた種の始末をするために、再び最愛の人を犠牲にしなければならない。
そんな
どれほど辛くとも、苦しもうとも、美月を殺す役目から逃げる事は許されない。
一番つらい思いをするのは、美月とアリスだ。
世界を救うという大義のために美月は、理不尽に命を奪われ、世界を救うという大義のためにアリスは、目の前で殺された人間の力を受け取る。
最愛の人を殺すなんて、世界を滅ぼしかけた大罪人にはふさわしい罰ではないか。
嘆く事なんか許されない。
自分が罪深いのだと、悲しいヒーローを気取って、周囲から憐みを受け取るべきでもない。
ただ我を殺して、どんな苦痛をも甘い蜜と思って、飲み干せばいいのだ。
これからアリスに待っているのは、正太郎が過ごしてきた人生など、幸福に思えるような過酷な道だ。
グリムの力は、遍く世界の深層を見つめ、揺蕩う力を介して全ての事象に耳を傾け、綴る力。
常人が知れば、発狂しうる深淵と繋がり続け、耐え切れなくなった時点でグリムを取り出すために殺される。
摩耗していくばかりの人生がアリスには、約束されていた。
それだと言うのに、この少女は、自分の運命を呪うでもなく、初対面の正太郎を気遣ってくれている。
恨んで当然なのに、罵声の一つも浴びせていいのに。
そんな優しい少女だから、きっと願いを聞き届けてくれるはず。
とても身勝手な男の願いだって。
『アリス、約束してくれる?』
『なんでも言って』
『この力も、記憶も、大事にしてくれるって』
グリムの継承者は、先代の記憶と魂をも受け継ぐ。
先代は死して尚、グリムから解放される事はない。
だからせめて受け継がれる美月の魂がアリスを支える事を、美月の魂をアリスが愛してくれる事を。
『分かった。約束します。正太郎さん』
『ありがとう』
正太郎の理不尽な願いを、アリスは笑顔で受け止めてくれる。
応えねばらない。
小さな体で世界を背負う少女のために。
壊れてでも世界を救うために戦った愛する人のために。
正太郎は、廊下に出て、倉持を見つめた。
――これが美月との最後だよ。
言葉にせずとも、倉持は正太郎の意を理解しているようだった。
病室に入ると、美月の頭をほんの一度だけ撫でる。
それ以上に、何かする事はなかった。
美月から離れ、正太郎の肩にそっと手を置いてくれる。ジャケット越しに伝わる倉持の体温は、正太郎を気遣うように温かだった。
「やってくれ。正太郎」
呟く倉持の頬を、小さな涙が一つ伝い落ちた。
「みんな離れてください」
正太郎の指示に、倉持、コープランド、アリスは、病室の外に出て、廊下から中の様子を窺っている。
正太郎が右手の人差し指の付け根を噛み切り、血から生じた一本のイバラは、普段よりも黒みが増しており、棘は倍以上も鋭く尖っている。
祝宴に呼ばれなかった十三人目の魔女が茨姫に与えた死の呪いの顕現だ。
生物でも、物質でも、原子レベルで分解し、全てを等しく殺してくれる。
きっと痛みはなく、あっという間に終わるはず。
せめて苦しませないのが、今の正太郎が美月にしてやれる出来る唯一の事だ。
「美月、愛してる」
美月の頬を黒いイバラの棘が一撫ですると、棘が触れた点を中心に美月が目には見えない微細な原子と化して崩壊していく。
分解は雷光よりも素早く進行し、美月の身体は瞬く間に欠片も残さず消え去った。
美月の消えたベッドの上に、拳大の緑色の光球が浮かび上がる。
それは蝶のように舞いながら病室を出て、アリスの元へと向かった。
アリスが右手を差し出すと、光球は掌に乗り、浸透するようにアリスの中へと流れていく。
アリスの青かった瞳は、深緑へと変じていき、
『初めまして。ええ、分かったわ』
呟いてからスケッチブックを開いて、鉛筆で何かを書き始めた。
書き終えたアリスは、正太郎に近付くとスケッチブックを差し出してくる。
正太郎は、アリスがイバラに触れぬよう注意しつつ、左手でスケッチブックを受け取った。
『美月がこれをあなたに伝えてって』
スケッチブックには、つたない日本語でこう書かれていた。
なかないで、しょうちゃん。
いままでありがとう。
わたしもあいしてる。
「きたねぇ奴だな」
堪え切れず零れ落ちた涙の雫は、黒いイバラを消し去り、
「これで泣くなってのは、ないだろ」
正太郎の意識は、耐え難い
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます