三頁:再会

 ウロボロスの討伐により、世界の崩壊も多くの人々が命を落とした事実も、全てが起きていなかった事になっていた。

 輪廻に囚われた全てがウロボロスが発生する以前の状態に戻っていたのである。

 しかし例外もあった。


 ウロボロスの造り出す円環の影響を最後まで受けなかった美月とメリルだ。

 二人は、最後まで円環に飲まれる事なく精神が壊れたため、ウロボロス討伐により起こった世界の再構築からも外れてしまったのだろうと、コープランド博士を始めとする科学者達は結論付けた。


 最も守りたかった二人が壊れたままの現実が横たわる。

 なのに人々は、誰一人として責めてくれない。

 彼らが口々にするのは、いつも決まった台詞。


『君は、世界を救った英雄だ』


 責められない事が正太郎を却って追い詰め、罪の意識と自己嫌悪を増大させていった。

 正太郎が血と痛みを媒介にグリムハンズを扱う流派にこだわったのは、いたずらに力を振るい、世界を滅ぼしかけた自身への戒めである。

 だが血と痛みを贄とする如月流は、グリムハンズの精度を引き上げ、一層強大な力を手にしたのは、正太郎にとって皮肉でしなかった。


 ファーストページの力は、ウロボロスとの対決を最後に使っていない。

 大き過ぎる力を振るう事より、十年前を思い出す方が怖かった。

 今でも正太郎は、指を噛み切る度に昔を思い出してしまう。

 おごたかぶっていた子供である頃を。

 大罪人である事を。


 誰からも裁かれず、英雄として祀り上げられ、正太郎の罪は、闇に葬られた。

 許されるべきではないのに、許される事は、一層の重荷となって正太郎を苛んだ。

 あの頃から変われたという自覚はあまりないが、付き合いの深い人々は、以前と変わったと口にする。

 それが嬉しかった。

 少しでも変われたのなら、正太郎にとって、たった一つの救いだから。


「メリル先生」


 今でも彼女を尊敬している。


「美月」


 今でも彼女を愛している。

 二人を元に戻す方法を探して、十年近い日々を費やして世界中を駆け巡ったが、成果は得られず、強力なグリムハンズが居るから指導してほしいという日本政府、並びに知人である亀城和弘の依頼で帰国した。


 一人は、グリムハンズの名門、亀城家の生まれという事もあり、問題はなかったのだが、もう一人の少女は、グリムハンズの家系ではなく、さらに力の制御が出来ないという。

 政府が収集していた情報を受け取り、正太郎は、私立彩桜高校に教師として赴任。

 そこで出会ったのが沙月エリカだった。


『なんて自分にそっくりな少女なのだろう』


 正太郎がエリカと出会った時、覚えたのは、胸を締め付けられるほどの親近感だった。

 逃れられない罪に苛まれ、心を病んでいる少女。

 けれど、彼女を知れば知るほど、エリカが居るのは、自分の過ごしてきた地獄が極楽と感じるぬるま湯であった事を思い知らされる。


 世界中から賞賛され、未だに英雄と呼ばれる正太郎。

 放火魔と、殺人犯と、罵られてきたエリカ。

 似ているから自分なら助けられる。そんな思い上がりに反吐が出そうになった。

 結局何も成長していない。

 あの頃の馬鹿なガキのまま。

 だから本当は会いたくなかったけれど、もはや、わがままの許される状況でなくなっている。


 猿蟹合戦の復讐型リベンジタイプワード出現の翌日、正太郎は、日本政府から二つの依頼を受けた。

 一つは、ウロボロスの発生が確認された場合、討伐作戦に参加する事。

 ウロボロスとの戦いの記憶を正確な形で持っている人間は、正太郎ただ一人である。

 政府が白羽の矢を立てるのは当然であるし、正太郎もこれを快諾した。


 もう一つがある人物の元へ行く事。

 こちらの依頼は、正太郎の頭を酷く悩ませたが、最終的には、こちらも了承した。

 どの道、何時かは、果たさねばならない事であったから。


 血のように冴えた薔薇の花束を持ち、正太郎が訪れたのは、とある病院だった。

 日本政府が運営する極秘の病棟。

 ここは、ワードとの戦いで致命的な損傷を負ったグリムハンズを収容するために、国によって運営されている。

 廊下を歩いていくと目的の病室の前には、倉持が立っており、正太郎を見つけ、嬉々として目を輝かせた。


「正太郎。ここで会えるとは思ってなかった」

「よう」

「来る気になれたのか?」

「ああ」


 来るべきではないと思っていたし、事実正太郎には、ここへ来る資格はない。

 けれど、どうしても必要なのだ。

 どうしても、ここに来なくてはならなかった。


「まさか……」


 理由を察したらしい倉持の顔色が、みるみると青ざめていく。


「そんな……お前が?」

「適任だからな」

「しかし!!」


 倉持の激昂は、正太郎には向けられていなかった。

 それが一層、正太郎を苛む。

 一発だけでも殴ってくれたら、どれほど気が楽になるか。

 どれほど救われるのか。


 ――またか。俺は。


 何故そんな事を考える必要がある。


 ――楽になる資格なんか、俺にはねぇだろうが。


 これでいいんだ。


 ――救われる価値なんかある訳ねぇだろうが。


 今まで逃げ続けてきた償いをするためにも、彼女と向き合わなければならない。


「会ってもいいかな?」

「もちろんだ。さぁ入って」


 倉持が病室へと続く扉を開くと、眩しいほどに白い部屋で、白金のように輝く白い髪の女性が天井を眺めていた。


「美月。久しぶり」


 正太郎の言葉に、美月は反応しない。

 十年前グリムを行使した反動で脳細胞の大半を損傷しており、喋るどころか、指先一つ動かす事は出来なかった。

 正太郎は、花束を彼女の膝の上に置いて、ベッドの傍らに腰かける。


「俺が選んだんだ。花屋の店員に選んでもらおうと思ったんだけど、お前は、そういうの嫌がるから。好きな人に選んでもらった物の方がいいって」


 正太郎が美月に話しかける様を、倉持は、病室の外で微笑ましげに見つめている。


「倉持?」


 ――どうして入ってこないんだ?


 そう問おうとしたが、


「二人で話せ」


 恨まれるはずなのに、どうしてこんなに気遣ってくれるのだろうか。

 本来なら甘える事は許されないが、


「悪い。少し妹さん借りるな」

「ああ。気の済むまで」


 倉持が頷きながら扉を閉め、病室は、正太郎と美月の二人だけの世界となった。


「最後に会ったのは、もう何年前だっけ? 変わってないな。いや変わったのかな。前よりも綺麗だよ」


 正太郎が美月の頬に触れる。

 以前のような温もりはなく、あるのは空虚な冷たさだけ。


「俺は変われたのかな。あの頃から少しでも」


 美月は、答えてくれない。

 以前のように、聞いてくれる最愛の人は、もう居ない。


「そうであれたらいいと思ってる」


 ほんの僅かでも、愚かさが消えてくれていたら。

 ほんの僅かでも、美月の恋人として、恥じない人間になれていたら。


「先生のお墓にも行ってきた。俺が帰国する一ヶ月前に亡くなったそうだよ」


 十年近くも無駄足を踏み、希望を持たせてマリーを苦しめただけだった。

 それなのにマリーは、


『これを正太郎に着て欲しい。お姉ちゃんきっと喜ぶから』


 メリルの遺品であった朱色のジャケットを託してくれた。

 日本だと背丈に合う女性物の上着がなくて、仕方なく男性物を買ったと、メリルから不機嫌顔で教えられた事がある。


 けれど、正太郎にとっては、彼女の力強さと優しさを象徴する気高い服であった。

 きっと着る資格はないけれど、恰好だけでも真似をすれば、偉大な恩師に近づけるような気がして、正太郎は受け取った。


 しかしそんなものは、幻想であるとすぐに気付かされる。

 今後の活動に都合がよいからと、政府が手を回して発行してくれた名ばかりの教員資格と朱色のジャケットでは、メリルの贋作にすらなれていない。


「俺は、何も出来ないままだ。何も変わってない。あの頃のガキのままだ」


 常に選択を誤り続けてきた人生だった。


「俺がもっとちゃんと出来ていれば、こんな事には、ならなかったのにな」


 それでも時間は止まらず、世界は、進み続けていく。


「あれから世界は変わったよ。ワードをただ殺す事はしなくなった。ちゃんと意味を理解してから倒すようになった。でも神災級が、もうすぐ復活するんだ」


 正太郎に殺され続けたウロボロスの影響力は、世界に揺蕩い、再び形を得る機会を待っていた。

 正しい方法で倒し、封印して尚、ウロボロスを形成していた揺蕩う力全てを封じる事は叶わなかったのである。


「俺がウロボロスを殺した時の影響が現出したんだ」


 最初の時点で封印していれば、起こらなかった事態だ。

 だからこそ正太郎には、責任を取る義務があり、例えその方法がどれほどの痛手を被ろうとも、躊躇は許されない。


「美月」


 美月の手を握ると、氷のように生気がなく、生暖かいだけであった。

 けれど、変わってしまったはずの手が正太郎には愛おしかった。


「あの時、上手くやれてたら俺達は上手く行ったのかな。結婚して、子供が生まれて、家族が出来てさ」


 十年前の失敗が無ければ、どんな人生になっていたのかを考えない日はない。


「そんな未来だったらどんなに良かったろうって」


 ずっと思い続けてきた、あるはずだった末来。


「世界を探し回ったんだ。美月や先生を元に戻す方法を。だけど見つからなかった」


 けれどいつからだろう?


「ごめんな。俺は無力だ。何も出来ないし、変われてないんだ。あの時と――」


 生徒達の事で、頭が一杯になってしまうようになったのは。


「なのに俺は、また大切な物を作っちまった」


 沙月エリカ。


 亀城薫。


 悠木涼葉。


 彼等に出会って、正太郎は変わってしまった。


「守れるかどうかも分からないのに、欲しくなっちまって……」


 ずっと彼等の傍に居たいと、守り続けたいと願ってしまった。

 彼等との日々が、永遠に続いて欲しいと思ってしまった。


「先生の真似事を始めた。グリムハンズを集めて鍛える。そんな事を始めたんだ」


 メリルのような素晴らしい指導者とは程遠い。

 けれどエリカ達は、未熟な正太郎を先生と呼び、尊敬し、懐いてくれる。

 自分には、そんな資格はないと理解しながらも、彼等の存在にどれほど救われたか。

 彼が傍に居てくれた数ヶ月の日々は、これまでの十年よりも長く、そして輝くような素晴らしい時間だった。


「美月。俺は――」


 ――あの子達の傍に居てもいいのかな?


 そんな正太郎の声を遮るように、ノックの音が病室に木霊した。

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