三頁:猫とネズミとお友達
涼葉を見舞った足で童話研究会の部室に戻った三人は、早速長机の上に本を広げて読み漁っていた。
正太郎の椅子に、長机の上と、特等席を全て奪われたにゃん子は、エリカの膝の上で不機嫌そうに寝息を立てている。
エリカは、グリム童話の日本語訳集を閉じると、にゃん子の額を撫でながら正太郎を見やった。
「猫とネズミっていくらでも話がありそうだけど」
「代表的かつ、今回のケースに当てはまりそうなのは、グリム童話の猫とネズミとお友達だな」
「どんな話なの?」
エリカに問われ、正太郎は、語り出した。
「猫がある一匹のネズミに友達になりたいと申し出て、ネズミはこれを了承する。二人は共同生活を始めて、しばらくしたある日、猫は言った」
『冬には食べる物が無くなるから、備えた方がいいよ』
「猫の忠告に従ってネズミは、牛脂を買うんだ。だが、どこに牛脂を置いておけばいいのかネズミは分からない」
『教会に隠せばいいんだよ』
「猫のアドバイス通り、ネズミは、牛脂を教会に隠したんだ。しかし冬になるまでの間に猫は――」
『親戚の子猫の名付け親になってくる』
「と、嘘をついては教会に出かけた。猫は、壺の牛脂の表面を全部舐めてしまった。帰ってきた猫にネズミは聞いた」
『赤ん坊には、どんな名前をつけたんだい?』
『上なめだよ』
「変わった名前だとネズミは思うが、猫の嘘には気付かない。それから猫は、親戚の子猫に名前を付けると嘘をついて出かけて、牛脂を半分舐めた」
『今度の子供には何て名前を付けたんだい?』
『半分なめさ』
「そして猫は、もう一度出かけて――」
『今度の名前は、全部なめって言うんだよ』
「猫は、冬になる前に牛脂を全部食べてしまった。やがて冬になって食料が無くなり、猫とネズミは教会に牛脂を取りに行く」
『名付け親を頼まれたってうそをついて、牛脂を食べちゃったんだね。最初は上。それから半分。そして――』
「猫が牛脂を食べた事を知ったネズミは当然怒るが、猫は追及を止めるように警告する」
『もう一言でも言ったら、お前を食べちゃうぞ』
「しかしネズミは、引き下がらなかった」
『全部なめ――』
「ネズミが口を開いた瞬間、猫は一口でネズミを食べてしまった。世の中とはこうしたものなのさ。という一文で、この物語は締めくくられている」
正太郎の解説を聞き終えた薫は、グロテスクな物でも見たように引いており、
「ひどい話だね……」
「ちょー残酷なんですけど……」
エリカは、膝の上で眠るにゃん子を侮蔑の視線をぶつけた。
「にゃん子! お前は酷い奴だ!」
「沙月さん、それは冤罪だと思います」
童話という割には、救いのない結末に、エリカと薫の反応は芳しくない。
対照的に正太郎は、目を輝かせ、自分の語った物語の余韻に浸っている。
「弱者が強者にたてついても潰される。世の理を的確に示した名作だよ」
「じゃあさ先生。この話が今回のワードなの?」
「猫やネズミが出てきて喰われる幻覚を見せてるって事だからな」
「近い気もするけど……私は、微妙に違う気がする」
「確かに僕もしっくりは来ないな」
仮にこの物語から発生したワードならば、ネズミが涼葉を食べたという点が引っ掛かる。
正太郎の語る所では、ネズミは結局牛脂を食べていない。
そのネズミが最初にエリカを食べ、次に猫がエリカを食べる。
やはり物語の共通項としては、弱い。
もっと他にヒントはないのか?
ネズミと猫。
出て来る物語は、山のようにある。
何かないのか?
他に特徴的な証言は?
――三毛猫?
エリカは、膝で丸まっているにゃん子に視線を落とした。
何故三毛猫なのか?
どうして三毛猫なのか?
「三毛猫って具体的だよね? 何かヒントにならないかな?」
エリカとしては渾身の推測、指摘。
けれど正太郎には、あまり響いていない様子だった。
「日本人のイメージする猫の代表って三毛猫だからな。ワードの姿ってのは、その国々でのイメージに左右されるもんだ。日本の場合、犬なら柴犬筆頭に和犬。猫ならブチや三毛って感じでな」
正太郎の賛同が得られない以上、この推測は誤っている可能性が高い。
早く助け出してあげたいのに。
答えを見つけたいのに。
底の見えない沼の中で、あるかも分からない光を目指して、もがいているだけ。
――どうすれば?
エリカが思案の輪廻に囚われていると、突如後頭部を気配が刺した。
「なに!?」
振り返ると、そこにあるのは、古書の敷き詰められた本棚だけ。
誰も居ない。
何も居ない。
そのはずなのに、感じた気配は、確かに錯覚ではなかった。
「どうした?」
訝しげに正太郎が尋ねてくる。
「なんか気配が……」
「気配?」
「見られてるような」
エリカが視線で気配を感じた本棚を示すと、正太郎は本棚の前に立って、本を抜き取った。
けれど本棚には何も居らず、何者かが居た痕跡もない。
「何もないな」
「ごめん。気のせいだったみたい」
気持ちばかりが逸っている故の錯覚。
よくある事。
そう片付けようとしたエリカとは対照的に、正太郎は眼光が鋭さを増した。
「どうだろうな」
「沙月さんの言う通り、何か居たって事?」
薫の問いに、正太郎は、後頭部を掻きながら本棚を眺めた。
「グリムハンズの勘ってやつは、疑わない方がいいからな。特にエリカは、今回の一件をかなり怪しんでいる」
気にしているからこそ些細な事が気になってしまう。
何でもない事を予兆や前兆と受け取り、重要に思えて、勝手なストーリーを頭で作ってしまう。
例え錯覚ですらも、何かと結びつけずにはいられない。
感情ばかりが先行してしまっている。
ありもしない気配なんて感じてしまう。
「だからこその思い込みって事かな……」
「違うな」
「え?」
エリカの自嘲とは裏腹に、正太郎の瞳は、まっすぐにエリカを見つめていた。
「お前だからこそ感じるものがあるんだとしたら、それが真実かもしれない」
「先生?」
正太郎の目に宿るのは、堅固な信頼。
「お前の言葉を信じるのが俺の役目だ。お前がそうだっていうなら俺もそう思う」
何があっても揺るがないエリカへの信頼。
「ここに何かが居たんだ。そうだろエリカ?」
だからこそ沙月エリカの揺れていた心は、再び強い芯を取り戻していた。
「うん。何か居た。絶対に!」
「それがワードかもしれないな」
「僕達が首を突っ込んだ事でワードの狙いが僕達に移ったんじゃないかな?」
「亀城の言う通り、可能性としてはあるな」
「先生、ここに泊まっちゃダメかな?」
エリカの提案に、正太郎は首を傾げた。
「泊まるって、なんでだ?」
「ワードがここに居たなら、また来るかもしれない。だったら寝込みを襲わせるってのはどう?」
ワードの標的が涼葉から童話研究会の誰かに移ったのなら、むしろ僥倖。
対抗策のない涼葉と違って、エリカ達にはグリムハンズがある。
「ワードは、モチーフとなった物語に行動が縛られるんだ。都合よく襲ってくるかな?」
薫の反論の答えを用意していたエリカは、素早く切り返した。
「だけど
「それは、グリムハンズとワードが同じモチーフの場合だよ。今回もそうだとは言えないだろ。僕達のグリムハンズのモチーフに猫やネズミは出てこない」
「訳文によっては出てくるでしょ。絵本とかさ」
「でも、そこまで都合よく――」
「だけどさ!」
「待て待て! 二人とも落ち着け」
エリカと薫、二人の語調が強くなる寸前で正太郎の待ったが掛かる。
「亀城の言う事は、もっともだ。俺達のグリムハンズと関係があるとは、思えない。現段階ではな。ただエリカの策には、賛成だ」
「ほんとに!?」
「ああ。ここに何かが居たんだとしたら、狙いは、恐らく俺達だ。なら三人で固まっていた方が対処しやすい。今晩は、ここで張り込んでみよう」
「よし! にゃん子! 今日は合宿だぞー! 一緒にねんねしようね」
こうして童話研究会の緊急合宿が開かれる事となった。
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