初めての合同歓迎会も平穏に進み、そろそろラストオーダーの時間に差し掛かろうとした頃。

 沙耶の隣に座っていた柴崎が突然、ビール片手に椅子から立ち上がった。



「ちょっと千輪のとこ行ってくる。そろそろ終わりもちけぇしな」

「え……」



 形だけでもそういう挨拶は必要だろうと、千輪のところへ行こうとする柴崎に、沙耶の口からなぜか不安げな声がもれた。



「どうした?」



 呟き程度の小さな声ではあったが、柴崎の耳には届いていたようで、沙耶の方を見ながら不思議そうな顔をしている。



「えっと……」



 素直に言っていいものか。

 本当のことを言うと、隣の席を離れてほしくはない。

 しかし、理由を告げずに引き留めるのも気が引けてしまい、


 

「いえ……。なんでもないです」



 と首を横に振った。

 すると、いつもと少し様子の違う沙耶を不思議に思ったらしい柴崎が、もう一度口を開こうとしたところで……。



「おーい、柴崎くーん! ちょっとこっち来てよー」

「………あぁ」



 千輪から声を掛けられてしまったため、席を離れていった。

 沙耶は空いてしまった隣の席を見つめて、「大丈夫かな、これ……」と呟きながら大きな溜め息をつく。


 ―――沙耶が、柴崎に隣の席を離れてほしくなかった理由。


 それは、新入社員だった頃から他部署が絡んでくる行事では、必ずと言っていいほど男性社員が近寄ってくるから。もちろん、沙耶に好意を持っていて親しくなりたいという気持ちがあるからだ。

 しかし、沙耶自身はその手のタイプがとても苦手で、できれば近寄ってきてほしくないのが本音である。

 そして今回も、そんな男性社員から距離を取るために、意図して柴崎の隣にいたのだが、その強固な壁はついさっき取り払われてしまった。そのせいで、いつ誰が来てもおかしくない状況がここにある。



(とにかくひたすら食べ続けよう……。課長が戻ってくるまで)



 今できることはそれしかない、ととにかく焼けた肉をひたすらに食べ、周りとの空間に壁を作ろうとしたのだが。



「あれ? 実池さん、お酒飲んでないの?」



(もう来たよ……)



 思っていたよりもだいぶ早く、空いていた隣の席を陣取られてしまった。無念。



「頼もうか?」

「いえ。大丈夫です」

「そう?」



(うわ……。この人か……)



 やって来た人物をチラリと横目で確認すれば、沙耶より二つ年上の営業部社員。しかも最悪なことに、女好きで有名な手癖の悪い人物だ。

 今までも声を掛けられることはあったが、社内だったため、適当な理由をつけてかわせていたのだが―――今回は少し難しそうだ。何せ、うまい逃げ道がない。



「実池さん、この後どうするの?」

「え。なんですか……」



 さっさと自分の席に帰れよ、と思っている沙耶の心情を知らない男は、頬杖をつきながらジッと見つめてくる。

 そんな視線も大層気持ち悪くて、沙耶は目を合わさないように視線を明後日の方向へ飛ばす。



「二次会も予定してるんだよ。まぁ、そっちは自腹になるんだけど。実池さんも一緒に行かない? 明日休みなんだし」

「私は人事部なので遠慮します」



 できるだけ口調がきつくならないように、やんわりとそう返す。

 人事部だけの二次会ならまだしも、そこに営業部がいるのなら話は別だ。絶対に行かない。それに、たぶんこの男が自分にぴったり引っ付いてくるだろうことは沙耶にも予想ができるため、尚更行く気にはならない。当然だ。

 しかし―――。

 相手はそう簡単に引き下がる気はないらしく。



「そんなこと気にしなくていいよ。それともこの後、予定でもある?」

「………明日にはありますね」

「じゃあ、おいでよ。ちょっとくらい大丈夫でしょ?」

「遠慮しておきます」

「お願いだよ。ちょっとだけでいいから」

「……………」



(しつこい……)



 何度も断っているのに、それでもしつこく誘ってくる男に、沙耶の顔から愛想笑いが消える。



(お願いって何よ。聞くわけないでしょーが。馬鹿なの? 頭残念なの?)



 心の中では厳しい言葉を並べるものの、実際に突っぱねられないのは、相手の方が年上だということと。



(結構お酒入ってそう……。ボロカス言って逆ギレされたら迷惑だな……)



 男の顔をチラリと見れば、赤く染まっているのがわかる。

 沙耶の席から男が元いた席は遠かったため、どれほど飲んでいたのかはわからないが、いつも以上にしつこく誘ってくるのは、お酒のせいもあるのだろう。

 しかも、こういう時は頭に血がのぼりやすく、扱いには注意が必要だ。



「実池さん、頼むよ」

「いえ……」

「今日だけでいいから」

「……………」



 かなり調子に乗っているようだ。馴れ馴れしく手まで握ってくる始末である。

 かなり飲んでいるなとわかった時点で、その手を振り払いたくても、やはり躊躇われる。振り払った瞬間に、相手がどんな反応を返してくるかわからないからだ。

 沙耶としては人のことを言えた義理ではないが。



(酔っぱらいって面倒くさいな……)



 と思ってしまう。

 そして、本気でこの状況はどうしたものかと悩んでいると……。



「先輩」

「………なんだぁ?」



 男が呼ばれ、それにつられるように顔を上げた沙耶の目に映ったのは、何やら胡散臭い笑顔を浮かべた壮司の姿。

 少し前に姿を確認した時には、相変わらず女性社員に囲まれていたはずだが、いつの間にここへ来たのだろう。沙耶も驚いたように目を見開いている。



「なんか用か、甲斐谷」

「ちょっと忠告に」

「なんの」

「他部署の社員をしつこく誘うことへの」

「はぁ?」



 何言ってんの? とでも言いたげな顔で、しかも威圧的にも見える態度の男。

 しかし、壮司はまったく怯む様子もなく、変わらない笑顔のまま、話を続ける。



「忘れてるみたいだから言いますけど。彼女、人事部ですよ」

「だから?」

「周りよく見てくださいよ、先輩」

「はぁ?」

「すごい睨まれてますよ」

「……………」

「ついでに柴崎課長にも」

「!!?」



 左右前後を見れば、冷ややかな視線。少し離れたところからは、射殺いころさんばかりの睨み。

 そのすべてにようやく気が付いた男は、馴れ馴れしく握っていた沙耶の手を離し、すぐさま席から立ち上がる。

 どうやらこの男にとっても、柴崎という存在は恐ろしいようで、さっきまで赤く染まっていた顔は、嘘のように真っ青だ。



「それとですね、先輩」

「な、なんだ……!」

「営業部の方に、二次会行きたがってる女子いましたよ」

「そ、そうか! じゃあ、そっち誘ってみるわ! ありがとな!」



 少し前までの威圧的な態度はどこへやら。無理矢理作ったブサイクな笑顔を浮かべて、男はつまずきながら早足に去っていった。

 そして、その一部始終を間近で見ていた沙耶は、一連の流れに一切ついていけなかったらしく、ポカンとしたアホ面のまま固まっている。

 そんな沙耶を見て、壮司は小さな溜め息を一つ吐くと、何の躊躇もなく空いた席に腰を下ろす。



「ほら」

「………え? 何?」

「手、拭け」

「あ、あぁ……。うん……」



 ポカンとしていたところに、突然差し出されたのは新しいおしぼり。

 一体いつ貰ってきたのかという驚きもあるが、今はそんなことよりも、いつもと雰囲気の違う壮司が気になる。

 眉間に皺を寄せた顔も怖ければ、いつもより声のトーンも低い。なぜか、不機嫌。

 貰ったおしぼりで、握られていた方の手を念入りに拭きながら、沙耶は機嫌を窺うように壮司をチラ見する。



「……………」

「……………突っぱねればよかっただろ」

「え?」

「俺にする時みたいに、突っぱねればよかっただろ」

「……………」



 まるで独り言のような小さな声に、キョトンとしたままフリーズする沙耶。しかし、すぐに言われた内容を理解すると、その顔は沙耶お馴染みのムスッとした不機嫌顔になっていく。



「だって、結構お酒飲んでそうだったし……。突っぱねて逆ギレされたらどうすんのよ……」

「誰かに助けを求めたらいいだろ」

「あんた、女に囲まれて遠くの方にいたでしょーが! どうやって助けを求めればいいのよっ!」



 ふん! と勢いよく顔を背けて、自分は何も悪くないと意思表示を決める。すると、そんな沙耶に壮司から返ってきたのは、呆れたような溜め息が一つ。

 そして―――。



「沙耶が自分の近くに座るなって言ったんじゃねぇか」

「……………」

「おい。無言になるな」



 壮司に言われて思い出したが、確かに近くに座るなと言った覚えがあった。そうなると、沙耶が返す言葉はどこにもなく、気まずそうにただただ項垂れる。



「……………」

「沙耶」

「何よ……」

「次は気を付けろよ」

「……………うん」



 もし、壮司が責めるような口調で言ったのならば、沙耶はきっと反抗的な態度を見せただろう。

 しかし、さっきとはまるで違う優しさを含んだ声色だったため、沙耶は驚くほど素直に頷いた。たぶん、本人が一番驚いているかもしれない。



「………ねぇ」

「ん?」

「なんで拭けって言ったの?」



 わざわざ新しいおしぼりを差し出してきたことに、沙耶はなんとなく気になっていた。

 確かに握られていた手は気持ちが悪く、男がいなくなった後に洗いに行こうとは思っていたのだ。しかしまさか、頼んでもいないのに、壮司が新しいおしぼりを持ってきてくれるとは思いもしなかった。

 普段の壮司からは、いまいち想像がつかない気遣いに、沙耶は首を傾げる。



「いや、普通に気持ち悪いだろ」

「………まぁ、確かに」

「あと、気に入らなかったから」

「え?」



 それは一体どういう意味なんだ? と更に首を傾げる沙耶に、壮司は小さな笑みを浮かべ、



「いつかわかるだろ」



 意味深に、そう呟くのだった。



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