三毛猫と疲労困憊


 時は順調に進み、気がつけば三月中旬。

 極限状態にあった人事部にも、ようやく平穏が戻ろうとしていた頃。激務という名の毒はついに―――。



「………コホコホッ……ン"ン"………ゴホッ」



 【風邪】という形になって、沙耶の体に悪影響をもたらしていた。


 沙耶が自分の体調に違和感を覚えたのは、ほんの一週間前のことだ。

 初めは、ちょっとした喉の痛み。それも、のど飴を舐めていれば治まるくらい軽度なもの。

 次に、鼻づまり。時期的に、花粉が飛んでいるのだと思い、マスクと鼻炎薬でやり過ごした。

 次に、咳。この辺りでようやく、



『あれ? これってもしかして……』



 と、勘づき始める。

 そして決定打となる、悪寒と倦怠感。久しぶりの辛さに、後悔が滲み出るももう遅い―――。


 冷静な頭で考えれば、喉の痛みあたりで風邪の症状が始まっていたとわかるもの。

 しかし、時期が時期だけに休める状況ではなく。無意識のうちに現実逃避してしまったのだろう。

 その結果が、悪化し凶暴化した風邪である。


 そして、凶悪な風邪菌に現在進行形で攻撃を受けている沙耶。そんな彼女が手に取ったのは、市販薬と栄養ドリンク。病院に行かない辺りが、立派な社畜だ。

 とりあえず仕事が一段落するまではと、それでなんとか騙し騙し日々を過ごしていたのだが……。

 それもどうやら限界のよう。

 沙耶が鏡で見た自分の顔は、どこからどう見ても、病人そのもの。

 しかし、人事部社員達もこれ以上人員が減るのは避けたかったのだろう。そんな沙耶の姿を見ても、誰も



『休んだ方がいいよ』



 とは言わなかった。………というよりは、言えなかったが正しい。

 そして、沙耶本人も今が踏ん張り時だとわかっているからこそ、



『これは風邪じゃない!』



 と頭に言い聞かせて、無理矢理仕事をしているのである。どうみても風邪なのに。



「ぜぇ……ぜぇ………ゴホッ……ゴホゴホッ……ン"ン"ン"」



 苦しい呼吸。止まらない咳。ひどい鼻づまり。発熱。

 そんな状態で仕事をしていると、周りから感じるのは同情のこもった視線。中には、目に涙を浮かべている人さえいるが……。

 


(泣きたいのは私なんですけど……)



 やめてほしいのが本音だった。仕事しろ。



「コホッ……コホッ………ゴホゴホッ!!」



 相変わらず、風邪症状はひどいものだが、今日終わらせるべき仕事は残りわずか。たとえ、体調を崩していても、沙耶の仕事に対するプライドが無駄に高いおかげか。不思議と仕事のペースが落ちることはなかった。

 それが唯一の救いとも言えよう。



「ゴホッ……コホッ……ンンッ……ゴッホンゴッホン……………はぁ……。終わっ……た……」



 ホッと息をついたのと同時に、体からは一気に力が抜けて上半身がグラッと前方に傾く。そしてその勢いを止めることができないまま、ドンッ! と鈍い音と共に、額を打ち付ける。



(痛い……)



 本当は声に出したいくらいの痛さだが、今はそんな余裕も沙耶にはない。朦朧とする意識を繋ぎ止めておくだけで精一杯だ。



「実池」



 ポンッ、と沙耶の肩に優しく置かれる大きな手。

 重い体を動かし視線を向ければ、そこには優しい表情を浮かべた課長の姿……。



(ついに世界は滅亡するのか……)



 そう思うくらいには珍しい表情だった。



「体調悪いのに、よくやり遂げたな」

「ありがどーございまず……」

「タクシー呼んだからな。今日はもう帰って、ゆっくり休め」

「はい……」



 優しさが心に沁みる。気を抜いたら涙が出そうだ、と沙耶。更に、



「タクシーが到着したら下まで付き添ってやるからな」



 と、想像以上に労ってくれる課長。嬉しさのあまり、沙耶の涙腺は崩壊しそうである。

 しかし―――。

 現実はそう甘くない。



「土日で治して、月曜は絶対に来いよ」

「……………」

「絶対に、来いよ」

「………はい」



 冗談ではない本気の声色に、課長の優しさに対する感激の涙は引っ込む。そして、課長が誰よりも【社畜】であることを思い出し、更に再確認。



(私は絶対、ああはならない)



 と、心に誓った―――。


 その後。

 課長の見送りと共に会社を後にした沙耶は、病院へと直行。

 診断結果は、無理をしたことにより悪化した風邪だった。



(インフルじゃなくてよかった……!)



 病院の先生には怒られたものの、結果オーライ。インフルエンザではなかったことに、全力で安堵する。世にも恐ろしい惨劇は、部長だけで充分だ。


 そして―――。

 処方薬を貰い帰宅した沙耶は、食事を取り、薬を飲み、ベッドイン。ぐっすり眠って早く治そうと、目を閉じる―――が。



「………おかしい。会社にいた時より辛い……!」



 グズッ、と鼻が鳴る。

 なぜか、会社で仕事をしていた時よりも体調が悪い。どうしてだ! と考えて思い当たるのは、



『これは風邪じゃないっ!』



 と、頭に言い聞かせていたことくらい。

 どうやら、病院に行ったことでその暗示が解けてしまったらしい。つまり、沙耶が『自分は風邪である』と自覚したということ。



「辛い……」



 ズルズル…と鼻が鳴る。

 さっき飲んだ薬が効くまでには、まだ時間がかかりそうだ。



(………誰かが言ってたっけ。一人暮らしで寝込むと、家族が恋しくなるって。………誰が言ってたんだっけ?)



 でもその気持ちはよくわかる、と沙耶は息を吐く。

 特に平日の今日は、ほとんどの住人が働きに出ているのだろう。いつもなら、微かに聞こえる他人の生活音もまるで聞こえない。

 いつもの沙耶であれば、



『静かでラッキー』



 なんて思っただろうが、今においては逆効果。この静寂さが、心細さと寂しさをひたすらに助長していく。

 そしてふと、頭に浮かんだのは―――。



「………お母さん、連絡したら来てくれるかな……?」



 やはり母の顔だった。

 沙耶はスマホを手に取り、迷いのない指さばきでメッセージを送る。



(久しぶりの連絡で『看病して』は、ちょっと申し訳ない気もするけど……)



 一応、沙耶にもそれくらいの遠慮はある。

 しかし、どうしても月曜日が来るまでには治したい。主に、今後の平穏を守るために。四の五の言ってはいられない。

 ごめん! と心の中で謝りながら、母からの返信を待つ。

 すると、数分後―――。


 ピコッ。


 返信が届いた。



【あらー。風邪引いちゃったの? 連絡くれたから行ってあげたいのは山々なんだけど……。お母さん今、お父さんと温泉旅行中なのー。ごめんね、沙耶。だから、ヤバそうだったら壮ちゃんを頼りなさい。隣にいるんだから。我慢しないで頼ってよー!】



 まさかの内容に、沙耶は項垂れる。恐ろしくタイミングが悪い。

 そして―――。


 ピコッ。


 なぜかもう一度、メッセージが届いた。中身を確認すると、今度は父からである。



【意地を張らないで、壮ちゃんを頼りなさい。沙耶はいつも限界まで頑張るので、父は心配です……。あと、温泉まんじゅう買って帰ります。】



 前半部分はともかく、後半部分は明らかにおかしい。なぜそこで、温泉まんじゅうが出てくるのだろう。謎だ。

 しかし、沙耶は―――。



「相変わらずマイペースだわ、お父さん」



 と、特に気にしていない様子。これが父の通常運転らしい。



「って、ちょっと待って……。なんで揃いも揃って、壮司を推してくるのよ!」



 おかしいだろ! と、沙耶は叫び、咳き込む。そして、



(なんでこんなに頼りにされてんの!?)



 と、心の中で再び叫ぶ。

 すると今度は、弟からメッセージが。沙耶は、随分といいタイミングだなと思いながら、内容を確認する。



【姉ちゃん大丈夫? 母さんから聞いたよ。オレが行けたらよかったんだけど、友達と旅行中なんだよね。ごめん。でも、その代わりといっちゃなんだけど、頼れる人に連絡しておいたよ! お大事に!】



 弟までも旅行中ということに驚きつつ、内容は一番まともだなと感心する沙耶。しかし、引っかかる文章が一部ある。



「頼れる人って誰よ、弟」



 せめて名前を書け、と沙耶は思う。

 しかし、両親のように壮司を推してこなかっただけマシなのは確かだった。



「まぁ、共通の知り合いでしょ。………たぶん」



 確信は持てないものの、そこは空気を読むだろう。

 とりあえずは、弟が頼んだ助っ人が来るまで頑張ることにした沙耶なのであった。



  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る