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「まさか実池さんが残業していたなんて思いもしませんでした。繁忙期でもないのに」
「まさかあの営業部が残業してるなんて思いもしなかった。課長には逃げられたみたいだけど」
「「 …………… 」」
満面の笑みで嫌味を言い合いながらも、その手はひたすらに紙をシュレッダーにかけ続けている。
壮司のうっかりミスのおかげで、土佐川と顔をつき合わせてシュレッダーかけをしている沙耶は、とんでもなく不機嫌だった。
顔には笑顔が浮かんでいるが、それは完全に作り笑い。誰から見てもそれが作り笑いだと認識される時、それは沙耶がとんでもなく不機嫌であることの証明なのである。
そして、なぜここまで不機嫌なのかと言われれば、それは壮司のうっかりミスのせいだけではない。
実は沙耶、土佐川が戻ってきてすぐ、壮司の手伝いを放棄して帰ろうとしていたのだ。
本人曰く、土佐川と同じ空間に三秒でもいたら、無意識に口から嫌味が飛び出してしまうらしい。
さすがにそれは沙耶自身も良いこととは思っておらず、どうにか口から嫌味が飛び出す前に営業部を後にしようとしたのだが……。
そんな沙耶に、土佐川は、
『一度は手伝うと口にしたくせに、何もせずに尻尾を巻いて帰るんですか?』
と、完全に煽ったのである。
そして、こんな風に言われてしまえば、それを華麗にかわせるほど大人ではない沙耶は……。
『帰るわけないじゃない。最後までやってやるわよ』
それが相手の術中だったことにも気付かず、一度は営業部の出入り口に向けた足を戻したのである。
そんな単純な沙耶に、土佐川はしたり顔。壮司は大きな溜め息をつきながら呆れていたという―――。
そして、現在。
沙耶と土佐川は、お互い作り笑いを貼り付けながら、嫌味な会話を続けているのである。
「そんな簡単に逃げられて、
「僕にも僕の仕事がありますから。四六時中、課長の首輪を握っていられないんですよ」
「いっそのこと、椅子にくくりつけたら?」
「許可が下りるのであれば、ぜひ、そうしたいですね」
犬猿の仲とはいえ、営業部課長に迷惑しているという部分では一致している二人。愚痴、もしくは罵り合いに関してのみ、穏やかな会話が出来るのである。なんと恐いことか。
「何か弱みでもあればいいんですけどね」
「弱みねぇ。………あ。そういえばこの間、うちの課長が言った言葉にすごい怯えてたわ」
沙耶が思い出したのは二月下旬頃、人事部が極限状態にあったあの時のこと。
未提出の書類を取りに行った際、真面目に探してくれない営業部課長に、柴崎は、
『自称嫁にバラす』
と、こう言った。
あの時は、沙耶も満身創痍であったため、特に気も止めていなかったが、今にして思えば、【自称嫁】ってなんだ。
営業部課長は、柴崎と同じく独身のはずである。にも関わらず、柴崎は【嫁】と言った。しかも、【自称嫁】と。
(んー、でもなぁ……。なんか、深追いしちゃいけない感じがしたのよね……)
たぶん、弱みであることに違いないだろうが、本能が深追いすべきではないと警告を鳴らす。関わったら最後、面倒くさいことに巻き込まれそうな気がしてならない。
「柴崎課長、なんて言ったんですか?」
「………忘れた」
「は?」
「あの時は私もギリギリを生きてたから、記憶がぼやけてて覚えてない」
「はぁー。そうですか。いいところで役に立ちませんね」
「
まるで見下すような土佐川の態度に腹は立つが、仕方がない。これに関しては、プライドよりも未来の平穏を取るべきである。
この会話の間にも手は休まず、シュレッダーかけをしているが、何せ枚数が枚数だけに減っている気がまるでしない。
それはさっきから無言で手を動かしている壮司も同じらしく、その顔はいつになく険しいものだ。
「………これ、全部終わるまで帰っちゃいけないの?」
「僕らを置いて逃げる気ですか? 薄情な人ですね」
「そもそも私は営業部じゃないし」
「でも、甲斐谷に手伝うと言ったんでしょう?」
「それは、一人で大変そうだったから……」
さすがにここで『プリンに釣られた』とは言いづらい。
すると、土佐川はなぜか怪訝そうな表情を浮かべ、首を傾げる。
「君達、仲悪くありませんでしたか?」
「………何のこと?」
「だっていつも甲斐谷のこと、無視するか睨み付けるかしていたじゃないですか」
「してな……………いや。してた、かも……?」
「確実にしてましたよ」
「……………」
言われてみれば……と、沙耶は思い出す。
土佐川が出向する前、まだ新人だった沙耶は、壮司と幼馴染みであることを周りに知られたくなかった。生まれた時から今の今まで片時も離れたことがない―――それを周りに知られたら、絶対に茶化されるだろうと思っていたからである。
そのため、あえて自分から距離を取り、尚且つ、さも嫌いですといった態度を取り続けていたのだ。
もちろん、当時そのことを壮司はきちんと理解しており、今のような過度な接し方を会社では絶対にしなかった。
だからなのだろう。それらのことを知らない土佐川が、自分がいない間に一体何があったのかと、不思議に思うのは。
「私も大人になったのよ」
「………へぇ」
「何よ、その
「………堂々とした
「はぁ? 何言って……………ち、違う! 惚気と全然違う!!」
「説得力ないですよ」
「違う! あんたと比べたら壮司の方が優しいって話で……!」
「名前呼び。………へぇ」
「うぐぅ……っ」
否定すればするほど墓穴を掘る。
沙耶が赤くなった顔で呻けば、ニヤニヤと心底楽しそうな笑みを浮かべる土佐川。屈辱である。
「もしかして、あれですか? 当時、必要以上に無視していたのも睨み付けていたのも、全部愛情の裏返しみたいな―――」
「違う! 全然違う!!」
「そんな反応しておいてよくもまあ―――ちょっと。シュレッダー叩かないでください。壊れます」
「これくらいで壊れるかっ!!」
「壊れますよ。なぁ、甲斐谷」
「あぁ、壊れるな」
「裏切り者っ!!」
呆れたような顔をして土佐川側についた壮司にそう叫んで、沙耶は手に持っていた紙をシュレッダーに突っ込んでから営業部を飛び出して行った。
あとに残された二人は―――。
「実池さん、カバン置いていったな」
「そうだな」
「あれは戻ってくるのか?」
「たぶん戻ってこない。いや、戻ってこられないと思う」
「………甲斐谷」
「ん?」
「帰るか。この残りは明日、あのクソ課長にやらせよう」
「そうだな」
お互い冷静な口調で顔見合わせ、頷き合うのだった。
△_▲
「バッグ忘れた……」
営業部を飛び出し、その勢いのまま家に帰ろうとしていた沙耶は、会社と家との中間地点でバッグを忘れたことに気が付いた。
あのバッグの中には財布やスマホはもちろんのこと、家の鍵も入っている。このままでは、家の中に入ることができない。
「でも、また会社に戻るのは………ちょっと……」
怒りと恥ずかしさをどうにか振り払うために、手伝いもそこそこに営業部を飛び出したのだ。今さら戻るのは気が引ける。しかし、戻らないことには家の中には入れない。
「どうしよ……」
しょぼん……と肩を落とし、その場で立ちすくむ。
壮司が帰ってくるまで待つにしても、一体何時になるかわからない。
「恥を忍んで戻るか……」
このまま待ちぼうけしていても仕方がないと、バッグを取りに会社へ戻るため、沙耶は俯いたまま回れ右をし―――
「ぎゃあっ!?」
ドンッ、と人にぶつかった。
(全然気付かなかった!! 何!? 誰!?)
まさか背後に人がいるとは思わず、沙耶は内心大パニック状態。すると……。
「すげぇ声だな」
「そ、壮司……!?」
頭上から聞こえたよく知る声に、反射的に顔を上げれば、そこには壮司の姿。沙耶がぶつかった相手は、壮司だったようだ。
しかし、まだ会社でシュレッダーをかけていると思っていただけに、沙耶の驚きは半端ではない。心臓が口から出そうになるとは、こういうことを言うのだろう。
「び、びっくりし………し、死ぬ……!」
「そんなに?」
「死ぬ……!!」
「わ、悪かった悪かった」
ネクタイをぐいぐい引っ張りながら必死の形相で訴えれば、若干引きつつも壮司は謝罪を口にする。
しかし、そんな言葉一つで、激しく脈打つ沙耶の心臓が収まるわけがない。その証拠に、ネクタイを引っ張る沙耶の手からは力が抜けない。
「沙耶、ちょっと落ち着け」
「む、無理………無理……!」
「どうどうどうどう」
そう言いながら、壮司はなぜか沙耶の頭を両手で撫で回す。
一応、壮司なりに落ち着かせようとしているのだろうが……。案の定、何してんだ! と言いたげな顔の沙耶がいた。
しかし、その無意味な撫で回しに意識が向いたおかげか、沙耶は徐々に落ち着きを取り戻していく。
そして、壮司の撫で回しから数分後―――。
「普通、あそこは背中をさするか、優しく叩くかでしょーが」
ムスッとした不機嫌顔の沙耶がいた。
「言われてみればそうだな。でも、俺もちょっとテンパってたんだよ」
「あれがテンパった末の行動じゃなかったら、ちょっと怖いわ」
「大丈夫だ。次はちゃんと背中さするから」
「違う。驚かせるのをやめろ」
そう言って冷ややかな視線を向けるが、壮司はまったく気にした様子もなく、それもそうだなと呟いた。
「………ねぇ」
「ん?」
「わ、わざわざ追いかけて来たの……? 仕事は……?」
「残業しても終わらねぇからやめてきた。明日、課長にやらすって土佐川も言ってたし」
「………あっそ」
壮司の言葉は、沙耶が想像したものとは少しだけ違った。なんだ……と、心の中で小さく呟いて数秒―――自分は一体何を期待していたんだと恥ずかしくなる。
「どうした? 赤い顔して」
「な、なんでもない……!」
「あっそう。―――そうだ。ほら、これ」
「何………あ。私のバッグ」
「大事なもの置いて帰るなよ」
「それどころじゃなかったんですー」
「………壮司は優しい、か」
「!?」
「まさか沙耶の口からそんな言葉が聞ける日が来るなんてなぁ」
「ち、違っ! 土佐川と比べたらって話で……!」
まさかまさかの蒸し返し。
土佐川に指摘された時も恥ずかしかったが、本人から言われると、その倍以上の恥ずかしさが沙耶を襲う。なぜ、本人のいる前であんなことを口走ったのか、あの時の自分を責めたくて仕方ない。
しかし、顔を真っ赤にして「違う違う!」と否定する沙耶とは反対に、壮司は実に嬉しそうな笑みを浮かべている。
沙耶とは長い付き合いではあるが、あの性格からして『優しい』と言われたことは、今の一度もなかったのだろう。それが今回、あんな形とはいえ、目の前で言われたのだ。壮司が嬉しがるのも無理はない。
「そうかー。俺って優しかったんだなぁ」
「いや……! だから……!」
「帰ったら一緒にご飯食って、姉貴のくれたプリンも食うか」
「……………」
「沙耶?」
「……………私の……」
「?」
「わ、私の態度に……呆れないで………ずっと側に、いるんだから……………っ……じ、充分……や、優しいんじゃ、ないの……」
最後は消え入りそうな小さな声。顔を真っ赤にして視線をそらしたままの言葉でも、壮司にはしっかり届いていたようで―――。
「沙耶」
「な、何よ……」
「次は俺の目見ながら言って」
「……………」
「いつでもいいから」
「バッカじゃないの」
穏やかな笑みを浮かべ、いつでもいいと言う壮司に一瞬目を見開く。
しかし、そのすぐあとに顔を背けて発した沙耶の言葉には、いつもの刺々しさはどこにもなく。少しだけ楽しげな、そんな声色をしていた気がするのであった。
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