3
「………はぁ。今日はもう帰るか……」
イッキ飲みした栄養ドリンク片手に、朝以上に濃いクマをつくった課長が告げる。
もう限界だ、と……。
現在の時刻は、午後十一時。
日中はどこからともなく声が聞こえていた社内も、今は火を消したように静まり返っている。各部署の中で電気がついているのは、もう人事部だけだ。
そして、これだけ仕事をしても終わりが見えてこない現状に、皆、溜め息を吐かずにはいられない。
「帰って寝ろ。明日また頑張るぞ……」
「「「 了解です…… 」」」
課長同様、朝よりも一層濃いクマをつくった人事部一同は、
『いつそう言ってくれるかと待ってました』
と言わんばかりに声が揃った。
どの机の上にも大量の書類が山積みとなっているが、これは一日、二日で捌けるものではない。期限内に終わらせるには、一日一日の休息が必要不可欠だ。それがわかっているからこそ、誰もが帰宅準備を始めている。
そして、課長から解散を命じられた人事部一同は、一人また一人と重い体を引き摺ってオフィスを後にしていく。
「お疲れ様です……」
沙耶もまた、空腹と眠気でフラフラと体を揺らしながら、人事部を後にする。
日中は、周りの社員達が道を譲るほど凶悪だったヒール音も、今では微かに聞こえるくらいの弱々しさ。ほぼ、気配が消えていると言っても過言ではない。
エレベーターに乗って、一階に降りる途中のちょっとした浮遊感でも瞼は落ちかける。
(どうしよう……。私、空飛んでる……)
なんて、ありえないことを思ってしまうくらいに、沙耶の体力と精神力はほんの少ししか残っていない。
ポーン―――。
「………あ」
到着を知らせる音で、ようやく我にかえる。
人気のない静かなホールをのろのろと歩き。このおぼつかない体で、どうやって家まで帰るかを考え始めるが……。
(えっと……。ここから家まで歩いて十五分だから……)
「……………」
これは、一体何の試練なのか。
こんなにも満身創痍だというのに、歩いて帰れというのか。
そんな言葉が頭に浮かんだ瞬間、沙耶の眉間には濃いシワが刻まれて―――。
「チッ。会社役員全員ハゲちまえ」
舌打ちと暴言が口から滑り出た。
もし、今の発言を誰かに聞かれていたら、普通にまずいのだが……。
沙耶としては、
『私は今、ものすごく頑張っているんだから、このくらいの暴言は大目にみろや』
という気持ちが強い。
それに、もし聞かれていたとしても、今、会社に残っているのはほぼ人事部だ。他部署の社員がいるはず―――
「沙耶」
「……………」
いた。
人事部以外の社員が今、ここにいた。
これはヤバイかも……と、血の気が引き始める沙耶。しかし、ふと冷静になって考えてみると。
(この会社で私のこと、名前で呼ぶ
気が付いた事実に、ホッと安堵の息をもらす。そして、それとほぼ同時に声のした方へ振り返り―――。
「チッ。ペテン師集団の一人かよ」
「態度悪いな、おい」
沙耶は舌打ちと共に、心底嫌そうな表情を浮かべた。
そんな沙耶の視線の先。そこに立っていたのは、営業部に所属している、彼女の【古い知り合い】だ。
「こんな時間に何してんのよ」
「寝る前に思い出した忘れもの、取りに来たんだよ」
「バーカバーカバーカ」
「うるせぇよ。八つ当たりすんな」
「してな………ふあぁぁぁ……」
目の前にいるのが昔からの知り合いのせいか、張りつめていた緊張の糸がほどける。そして次の瞬間には、強烈な眠気が猛烈な勢いで押し寄せ始め。口に手を当てるのも忘れて、沙耶は盛大な欠伸をもらすが……。
相手が古い知り合いだからか、まるで気にしていない。
「すげぇ眠そうだな」
「すげぇ眠い……」
「じゃあ、さっさと帰るか」
「………あれ? 忘れ物は?」
「もういい」
「?」
なんで? と、沙耶は首を傾げる。
(忘れ物取りに来たのに、取らずに帰るの?)
どういうことだ、と訝しげな表情を浮かべる沙耶だったが……。
(まぁ、いいか)
と、考えることをやめた。
なぜなら、今すぐ家に帰って眠りたいからである。
そして、無駄な詮索はしないまま、二人は一緒に会社を後にする。
「ふあぁぁぁ……」
会社から家まで、約十五分。
果たして、沙耶の体力はいつまで持つのか。
「おぶってやろうか?」
「………何?」
「眠いならおぶってやるけど」
「絶対に嫌」
睡魔に襲われている沙耶を見かねた男の親切心だったが、それは一蹴りされた。
もちろんそれには理由がある。
遅い時間帯とはいえ、ここは会社からそう遠くない場所。もしかしたらまだ、会社の人間が近くにいる可能性もある。
だから沙耶は、『嫌だ』と言ったのだ。激しく首を横に振りながら。
「でも、お前の足、ガクガクのフラフラみたいだけど」
「嫌なものは嫌」
「歩くの遅いし。俺も早く帰りてぇんだけど」
「じゃあ、置いてけばいいでしょ」
「……………」
無言になる男に、沙耶は自分の意志を示すように、フンッと顔を背ける。すると、微かに耳に届いたのは………男の小さな溜め息で―――。
(どうせ、『可愛くない』って思ってるんでしょ……)
そこで沙耶がふと思い出すのは、昔のこと……。
沙耶は、甘えることが下手くそだ。恋人がいても、その彼に頼ることは一度もなかった。
そして、最後にはいつも、
『お前って本当に可愛くないな』
と、言われ―――。
(あー! もうー! いつまでそんな昔のこと、引きずって……)
思い出して襲われる、小さな胸の痛み。久しぶりの嫌な感覚に、沙耶は我慢するように奥歯を噛み締め―――。
「わざわざ迎えに行ったのに、誰が置いて帰るかよ」
「………え?」
「なんだよ」
「今、迎えに、って言った……?」
「そうだよ」
予想もしていなかった男の言葉に、沙耶はポカンとした表情で立ち尽くした。しかし次の瞬間には、きゅっと唇を引き結んで……。
(なんで、そんなことするのよ……。なんで昔から放っておいてくれないのよ……。なんで……)
返す言葉が、見つからなかった。
「………ふんっ」
「ん?」
相変わらず、返す言葉は見つからない。
だからといって、素直に甘えることもできない。
しかし―――。
顔を背けながらも沙耶の手は、男の服の袖口を弱々しく引いていた。
「………早く、帰りたいんでしょ……。仕方ないから………お……おぶられてやっても………いい、けど……?」
恥ずかしさで赤く染まった顔を見られないように俯き、声は今にも消え入りそう。けれど、その声はしっかりと男の耳に届いていたようで―――。
「頼む立場のくせに、上から目線でデレんな」
ニヤッと、からかうような表情を浮かべて笑っていた。
「わ……笑うなっ! デレてないっ! お前の目は節穴かっ!!」
「はいはいはいはい」
顔を真っ赤にして怒る沙耶を適当にかわし、男は屈む。
「早く乗れ」
と、促されるものの、いざその背中を目の前にすると、戸惑い始める沙耶。
しかし、自分で乗ると言ったのだから、乗る以外に道はない。
(わ、私はヘタレじゃない……!)
よくわからない鼓舞と共に、そろそろ…と男の肩に向かってゆっくり両手を伸ばす。襲いくる羞恥心と戦い、なんとかその背中に体を預け。男は、沙耶の足をしっかりと抱え込み、重そうな素振りも見せずに立ち上がった。
「沙耶は、いつになったら素直になれるんだ?」
「う、うるさいなっ」
「………【三毛猫】」
「ちょっと! その呼び方しないでよっ!!」
「じゃあ、少しは素直になる努力をしろ。三毛猫」
「三毛猫言うなっ!!」
キッ! と目尻を吊り上げて、バシバシッと力を込めて男の背中叩く。
【三毛猫】―――。
それは、学生の頃に、男が沙耶につけたあだ名だ。
かまおうとすればそっぽを向き、寂しくなると自分から遠慮がちに寄ってくる。恥ずかしがり屋で、威嚇癖あり―――そんな習性が男曰く、『完全に猫』とのことらしい。
あと、猫は猫でも三毛猫なのは、【実池】という名前がミケに似ているからだと、男は言う。
「絶対に会社では呼ばないでよ! 恥ずかしすぎて会社にいれなくなるから!」
「……………」
実はもう知れ渡ってます………とは、口が裂けても言えない。
ちなみに、情報の発信源が男でないことは確かだ。
「なんで黙るのよ」
「………口が滑らないように気を付けます」
「口滑らせたら喉潰すから」
「怖い」
発信源の喉が潰されることは、今この時に決定した。さようなら。
沙耶は男の首に両腕を回し、適度に力を込めるが、なぜか男はどこか楽しそうに笑っている。
(何笑ってんのよ……。むかつく……)
ムスッとした表情を浮かべ、男の首に回している腕に更に力を込める。すると、近付く体の距離に程よい温かさを感じ、思い出される眠気……。
「……………」
(………あったかい)
引っ付いて改めて気付く大きな背中に、沙耶は誘われるようにそっと張り付く。暑すぎない程よい温もりは、まばたきの度に瞼を徐々に重たくしていく。
「ふあぁぁぁ………んんん……………眠い……」
「家に着くまでは起きてろよ」
「………うん……」
言われるがままに返事はしているものの、たぶんそれは無理なお願いだろう。
沙耶の体はすでに、眠る体温に変わりつつある。
「沙耶」
「うん……」
「寝るなよ」
「うん……」
「絶対に寝るなよ」
「うん……」
「寝たらおっぱい揉むからな」
「うん……」
堂々としたセクハラ発言があったが、強烈な睡魔に襲われている沙耶の耳にはほぼ届いていない。
(んー……。この背中……気持ちい……)
しかも、背中の心地よさに、すっかりハマっているようだ。
「はぁ……。あったかい……。気持ちい……。ちょうどいい……」
「ちょうどいいってなんだ」
そう言って笑う男の背中が小さく揺れる。それがまるで揺りかごのようで、沙耶の意識が更に遠退いていく。
(もう……だめ……)
「おーい、沙耶ー」
「すー……、すー……」
「………寝た」
「すー……、すー……」
どこか遠いところで自分を呼ぶ声を聞きながら、沙耶はあっさりと眠りに落ちるのであった。
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