人事部の刺客として、営業部へと向かう女性社員、実池みいけ 沙耶さやは今―――。

 チワワ野郎こと営業部課長への殺意を、抑え込めずにいた。


(こんなボロボロの姿で一日何回も歩き回らせやがって、あの野郎……)


 彼女は今、ご乱心である。

 そして、この地獄のような忙しさのせいで、心身共に疲弊中。更に、それは彼女の見た目にも影響を及ぼしていた―――。


 肩にかかるほどの長さ、毛先に少し癖のある茶色の髪は―――前髪と後ろ髪が入り乱れ、寝起きの並みのボサボサ加減。

 いつもなら、背筋の伸ばし歩く様が―――肩凝り、腰痛、疲労によって気だるげな猫背気味。

 そして、それなりに整っていて、それなりにモテる顔も―――目の下の濃いクマと、疲労による血行の悪さで、まさにゾンビ。


(許されるなら、強盗犯が被ってるフルフェイスで仕事したい……)


 そんなことを思ってしまうくらいに、精神的限界が近い。

 ついでに、何をしても許されるのなら、営業部課長を本気で殴りたいとも思っている―――が。

 現実はそう甘くないことを知っているため、沙耶は様々な感情を込めた深い溜め息を吐いた。営業部へと向かう足取りは、相変わらず重い。

 いつもは軽やかなヒール音も、今では誰もがサッ! と道を譲るほどの凶悪さ。

 しかも、怒りで目が据わっているせいか、すれ違う社員達は皆、ビクゥッ! と肩を揺らして怯える始末だ。


(早く数日前の自分を取り戻したい……)


 極限状態とはいえ、そういった反応を取られるのは、当たり前に複雑で……。

 完全に渇ききって涙が出ない目の代わりに、沙耶は今日数度目の溜め息を吐くのであった。




 △-▲




「失礼します……」


 営業部に到着し、挨拶もそこそこに部署内に足を踏み入れた沙耶。 

 そして当然のように、ゴッ、ゴッ、と凶悪さが滲み出るヒール音。営業部社員達の肩がビクッ! と跳ねる。


(やめてよ……。こっちだって好きでこんな音出してんじゃないのよ……)


 と、軽いショックは受けるものの、それでも今のこの苛立ちに勝るものはない。

 とはいえ、どれだけ苛立とうとも、罪のない者に八つ当たりはいけない。

 沙耶は、今精一杯の優しい声と共に、なけなしの笑顔を貼り付ける。すると、その時点ですべてを察した一部社員が、


「課長はあそこです……」


 と、教えてくれる。実にありがたい。


「………課長……」

「ん? やあ、実池ちゃん。今日も一段とクマがひどいねー」

「……………」


 開口一番、無邪気な笑顔と共に放たれた【本人には】悪気のない一言。

 ―――沙耶はわかっていた。

 目の前のチワワ以下の人間チワワが、余計な言葉を口にすることくらい。空気の読めない糞だということくらい……。

 しかし―――。

 余裕のない心では、笑顔で受け流すこともできない。沙耶の顔は今、真顔である。


「少し前に人事部の前通ったけど、皆ここ数日でずいぶんとやつれたねー」

「……………」

課長の顔なんて特にひどいもんだね。あんな顔で夜歩いてたら職質もんだよー」

「……………」

「まあ、実池ちゃんも彼に負けず劣らずかなー?」

「………そうですか……?」

「あははっ! 冗談だよ、じょーだーん」

「……………」


 ギリギリィ…と噛み締めた奥歯が鳴る。

 沙耶の手は今、目の前の糞を全力で殴りたい衝動を我慢している。力が込められている手は、小刻みに震えて止まらない。


(殴ってすっきりしよっかなぁ)


 今のこの怒りをすべて乗せて、目の前の糞を殴れたらどれだけ気持ちがいいことか。

 そろそろ沙耶の我慢も限界に近い―――が。

 そこでふと、沙耶の視界に入ったのは、課長の机に置いてある【電話機】である。


「………課長」

「何?」

「少し、失礼します」


 目の前の、のほほんとした顔を殴らないように我慢しながら、沙耶は電話機に手を伸ばす。そして、その手が捉えるのはもちろん、人事部宛ての内線ボタン。


 プル―――ガチャッ。


 まるで待ち構えていたかのように繋がった内線に、営業部社員達の肩が、またもやビクッ! と震える。

 そして―――。


『………も し も し』

「「「 …………… 」」」


 スピーカーになっている電話から聞こえてくるのは、地の底から響くようなドスの効いた声……。

 この瞬間。

 営業部の室温は、確実に下がった。それと同時に、社員達の顔からは血の気が失せる。


(この状況を客観的に見てると、RPGでいう【魔王】が召喚された時みたいな感じね)


 あながち間違いではない。


『おい……。チワワ野郎。てめぇごときがこっちの仕事を妨害するなんてどういう了見だ……。頭カチ割りに行くぞ……』

「「「 …………… 」」」


 営業部一同、電話から聞こえる声だけで理解する。

 人事部課長―――魔王が、完全にキレていることを……。


(この声……。部長が、『インフル、かかっちゃった……』って連絡してきた時に聞いたのと同じだ……)


 あの時の部署内もこんな感じだったな……と、沙耶は小さく震える。

 一度でも聞いたことのある沙耶でさえこうなのに、お初の営業部社員達が平気なはずはない。現に、可哀想なくらい体をガタッガタッガタッと震わせ、今にも倒れそうな社員もちらほら確認できる。

 しかし、営業部課長はというと―――。


「君………声ひっどいね。飴いる? そっちまで持っていくよ?」

「「「 …………… 」」」


 空気が読めないどころか、ただのアホだった。

 これにはさすがの社員達も、


『本物のアホだ……。本物のアホがいる……』


 と、言いたげな表情を浮かべている。


『………相変わらずのアホだな、お前。―――もういいから、早く未提出の書類を実池に渡せ』

「ん? 書類? ………えっと。これのことかな?」


 デスクの引き出しを開け、手を突っ込み、掻き回してからようやく出てきた書類。一応、クリアファイルに挟まっていたため、無事のようだが……。


(何これ……。汚すぎ……)


 引き出しは最早、ゴミ箱だった。

 沙耶は嫌な顔を隠そうともせず、その書類を指で受け取り、中身を確認する。そして即座に、真っ二つに破り捨てた。


「これではありません」

「あれれ。………じゃあ、これ?」

「違います」

「それじゃあ、これかな?」

「違います」

「はい、これ」

「違います」

「よし、わかった。これが本物だ!」

「違うっつってんでしょ」


 ついには敬語を忘れ、差し出された紙をはたき落とす。

 このだらしなさで課長に昇進できていることが不思議だ。


『てめぇ……、ふざけんなよ。………机の中身ぶちまけて探せぇ!!!』

「「「 ひいぃっ!!? 」」」


 電話から飛んできた、今日イチの声。

 営業部社員達から、悲鳴が飛び交う。

 しかし―――。


「ぶちまけるのはヤダよー。後片付け大変じゃん?」

「「「 …………… 」」」


 営業部課長は、まさかの通常運転。

 これには社員達も、


『もう頭カチ割られた方がいいんじゃ……』


 と、課長には聞こえない小声で呟きだす。

 沙耶なんて軽蔑の域だ。


『………本気で探す気ねぇんだな』

「一応、探してるよー」


 反省の【は】の字もない、のんびりとした軽い口調。

 さすがの魔王も呆れ果てたのか、電話から聞こえるのは大きな溜め息だ―――が。


『………一ヶ月前の【あのこと】、自称嫁にバラす』

「え………えっ? な、何っ?」


 続けて聞こえた魔王の言葉に、課長の表情が初めて変わった。そしてなぜか、異常に焦り始める。


『一から十まで、事細かに全部話す』

「ちょっ、ちょっと待―――」

『もう呼び出し音鳴ってるからな。自称嫁が電話に出る前に、書類を実池に渡せ』

「無理だよっ!!!」

『なら、バラす』

「極悪人かっ!!!」

『どうとでも言え』


 まさかの形勢逆転。

 さすが、召喚されただけある魔王様。

 ついさっきまで、


『ぶちまけると、後片付けが大変じゃん?』


 なんて言っていた人が、今ではデスクの全引き出しの中身を床にぶちまけている。膝をつきながら、それはもう誰が見ても必死の様。


『おい。まだか』

「まだだよっ!!! 確か、この辺に………これかー!!」


 勢いよく渡された書類を、沙耶は顔を引きつらせながら受け取る。


(これ……、本当にさっきまでと同じ人なの……?)


 あまりの態度の違いに戸惑いながらも、とりあえず渡された書類に目を通す。そして、それが目当てのものであることを確認して、受理したことを魔王に報告。


『命拾いしたな』


 と、不吉な言葉を残し、電話は切れる。


(怖……)


 営業部社員のみならず、沙耶の心にも恐怖を植え付ける。そのあたり、魔王という異名はあながち間違いではないかもしれない―――。


 そして、その後。

 魔王の威圧から解放された営業部社員達は、ようやく平穏を取り戻し。自称嫁と呼ばれる人物に、秘密がバレずに済んだ課長も、安心した表情を浮かべ。

 皆より一足先に平常心を取り戻していた沙耶は、


「これで失礼します」


 と、フォローは一切せず、足早に営業部から立ち去る。そしてその、何事もなかったかのように颯爽と立ち去る後ろ姿に、


『あれは、魔王予備軍かもしれない……』


 と囁かれていたことは、もちろん知るよしもないのである。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る