3
(………んん……
何かはわからないまま、その心地よい温もりにすがりつく。柔らかいようで堅い、でも程よい弾力と温もり。危機感というものをことごとく弾く謎の安心感。
それが何かはやっぱりわからないまま、沙耶は身を任せ続ける。
(………そういえば、飲み会ってどうなったんだっけ?)
ふと思い出したのは、参加していたはずの飲み会。不思議なことに、途中から記憶がすっ飛んでいる。
覚えているのは、柴崎が隣に座っていたこと。四月から営業部課長に補佐がつくこと。そして、その補佐というのが、自分と犬猿の仲である同期だということ。沙耶の記憶はそこで止まっている。
天敵が帰ってくると知った後。気分を上げるために大量飲酒したことは、記憶にない。
(覚えてないけど……。まぁ、大丈夫でしょ)
面倒くさくなったのか、適当に終わらせた。
しかも、今自分がどこにいるのかもわからないのに、それも気にしないという暴挙に出た。呆れて言葉も出ないとは、まさにこのこと。
「沙耶。おい、沙耶。起きろ」
全身が揺すぶられるような感覚と共に、聞き覚えのある声が聞こえる。
「起きろ」
「……………」
沙耶は疑問に思った。
人とはなぜ、起きろと言われると起きたくなくなるのか。起こそうとしてくればしてくるほど、意地でも寝てやろうと思うのか。
(夢でしょ、夢。夢ってことにしよう。だって、すごい心地いいし)
疑問に対する答えを考えるのが面倒になり、夢として片付ける。
沙耶曰く、こんなに心地よくて安心できるのは夢の中以外にありえない、ということらしい。
「………起きねぇか」
呆れたような声と共に、小さな溜め息が一つ。
もしかしたら、無理矢理起こそうとしてくるかもしれないと、一瞬身構えるが。
「仕方ねぇな……」
どうやら、無理に起こすつもりはないらしい。
そして今度は、扉の開閉音によく似た音が聞こえ、それとほぼ同時に、沙耶のよく知る香りが鼻をくすぐった。
「とりあえず下ろすか」
そんな声が聞こえた後。心地いいものにすがり付いていた沙耶の腕は、なぜか引き剥がされそうになる。
しかし、沙耶はまだこの温もりから離れたくない。だから、必死に抵抗するが、力の差は歴然。あっという間に、すがり付いていたものから離され、温もりは遠ざかった。
「………寒い」
「……………」
「寒い寒い寒い寒い寒い」
わざとらしく体を震わせて大袈裟に抗議する。すると、返ってきたのは疲れたような溜め息で。
(さすがに無理があったか……)
と、諦めかけた沙耶だったが―――次の瞬間。
驚くことに、その温もりが今度は、体全体を包み込むようにして戻ってきた。大層満足げな沙耶である。
そして、柔らかくて堅い、程よい弾力の広い何かにすりすりと頬を寄せ、訪れる安心感。さっきまで起きかけていた意識が、また少しずつ遠ざかり始める。
「酒は二杯でやめとけって言ったのに、人の忠告無視しやがって……」
頭上から溜め息と共に聞こえる言葉。
(確かにそんなことも言われたかも)
と思い出すが、『止まらなかったものは仕方がない』と、すぐに開き直る。
「なんであいつが戻ってくるくらいでやけ酒するんだよ。意味わかんねぇ」
「……………」
「ヴッ!」
聞こえた言葉に腹を立てた沙耶が頭突きをかますと、低い呻き声が。思った以上に効いたらしい。
「………沙耶。お前、本当は起きてんだろ」
と揺さぶられるが、あえて抵抗せずにされるがままを貫く。すると、起こすのは諦めたのか、揺さぶりが止まる。
「なんでお前らはそんなに仲が悪いんだか」
(それはこっちが知りたいわ)
苛立ちを示すように、今度は力を込めて頭でごりごりと擦る。すると、
「くすぐったいからやめろ」
と、少し痛いくらいの力で、頬をつねられた。
(………あ。そういえば)
そこでふと思い出したのは、二人がまだ大学生だった頃のこと。
(壮司のこと、思いっきり避けてた時期あったな、私……)
それは、壮司が沙耶の嫌っていた相手と交際をしていた時だった。あの時期だけは、挨拶以外の言葉のやりとりをした記憶がない。
あの頃の沙耶は、自分が嫌っている相手と壮司が付き合っているという事実がとにかく嫌だった。それはもう、顔を見ただけで嫌悪感を丸出しにするほどに……。
話しかけるなと言った覚えはないが、たぶん態度には出ていたのだろう。それかもしくは、相手の女にお願いされていたのかもしれない。
その当時は、
『女のお願い一つで話しかけにも来ないのか!』
と壮司を非難した沙耶だが、それもほんの
沙耶としては、当時のことを思い出すたびに、あの二、三ヶ月が存在していなかったような気さえしている。
(思い出したら、なんかモヤモヤしてきた……)
いつかまた、壮司に恋人ができたら、あの時のような距離感になるのだろうか。
自分はまた、よくわからない嫌な気持ちをぶつけてしまうのだろうか。
そんな複雑な気持ちが、沙耶の中を巡る。
(なんでだろう……。すごい嫌……)
素直になれない自分を、許してくれる存在がいなくなるからか。
この安心する温もりが、別の誰かのものになってしまうからか。
いつかこの先、そうなる未来が頭を過った時―――。
沙耶は自分を軽く抱き締める壮司の背中に手を回して、その服を固く握った。
「………沙耶?」
少し驚いたような、でも自分を心配するような優しい声が聞こえる。
(私はいつかこの場所を、誰かに取られるの……?)
そんな考えが、頭を埋め尽くしていく。
「どうした?」
「……………」
「ちょっと待て。吐きそうならトイレに―――」
「……………なさいよ……」
「え?」
「………ちゃんと………傍に、いなさいよ……っ」
素直に気持ちを伝えられたのかと言えば、たぶん足りない。もっとちゃんと、真っ直ぐな言葉をぶつけるつもりだった。それなのに、最後に自分の気持ちの中途半端さが邪魔をした。自分の中のずるい部分が顔を出した。
壮司には、伝わっただろうか。
『傍にいてほしい』という、本当の言葉の意味が―――。
「………どこにも行かねぇよ」
「……………」
「だから、ゆっくり悩め。待っててやるから」
それはどこまでも穏やかな声。自分を理解してくれる優しい声。
(やっぱり、気付いてくれた……)
安心したように力の抜けた沙耶の体が抱き締められる。さっきとは少し違う温もりに、沙耶の顔には自然と笑みが浮かぶ。
(………あ、でもこれ夢だっけ。意味ないか。………でも、いっか)
やり遂げた満足感と、自分の傍にある安心感。夢の中の出来事だったとしても、沙耶にはもうどうでもいいこと。
はっきりとしない不安定な意識が、今度こそゆっくりと遠ざかっていく。
そして―――。
眠りに落ちる寸前。沙耶はこれでもかというほどの力で、壮司の体に抱き着くのだった。
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