2
充分に腹を満たした人事部一同が、そろそろ二次会へなだれ込もうとしていた頃。
人事部課長、
「………これ、どうするべきだと思う?」
「「「「「 自分達に聞かないでくださいよ 」」」」」
綺麗に声を揃えた一同の視線の先には、部屋の隅でビール瓶を抱き締めながら眠る沙耶の姿。静かな寝息をたて、ビール瓶を抱き締め丸くなっている姿は、まるで猫のようでもある。
しかし、問題はここからだった。
人事部は知っている。こうなってしまった沙耶の恐ろしさを。それがまさに、凶暴な野良猫と遜色ないことを……。
そもそも、なぜこんなことになってしまったのかと言えば、その原因は柴崎にある。
四月から営業部の課長補佐になるという人物は、営業部課長のみならず、沙耶にとっても天敵と呼べる相手。その人物が出向を終え、四月からこちらに戻ってくると柴崎が口を滑らせてしまったため、沙耶は酒に走ったのだ。
人並みに飲めるとはいえ、決してザルではない。そのため、沙耶は限界を迎えて眠りこけたのである。
「今年こそ、お酒飲みすぎないように監視してくださいねってお願いしたじゃないですか」
「そうだな……」
「お願いしたじゃあないですかぁ」
「悪かったって……」
決して約束を忘れていたわけではない。
途中で、さすがにこのままではマズイと思った柴崎は、酒をお茶や水にすり替えたりもしたのだ。
しかし、最終的には沙耶がビール瓶から
その結果、あれよあれよのうちに空のビール瓶が増え続けていったのである。
「課長の監督不行届ですよ」
「だから悪かったって言ってんだろうが……」
少し前までハイテンションだったはずの親睦会幹事の冷めきった視線に、柴崎はこれ以上責められないように自分の非を認める。
「俺が営業部にアイツが戻ってくるなんて言っちまったからだ……。あぁ、失敗した……」
「営業部の彼、戻ってくるんですか。そういえば、沙耶ちゃんとは犬猿の仲で有名でしたもんね」
「犬と猿なんて可愛いもんじゃねぇ。狼とゴリラ並みの凶暴さだ」
「いえてますね。―――で。どうしますか?」
「……………」
話をそらすつもりが、しっかり軌道修正してくる幹事。さすが、仕事のできる人間は違う。誤魔化されてはくれない。
柴崎を含めた人事部一同は、静かに眠る沙耶から一定の距離を保ちつつ眺める。
「とりあえず、課長が責任を持って起こしてみてくださいよ」
「「「「「 どうぞ、どうぞ 」」」」」
「こういう時ばっか変に団結してんじゃねぇよ……」
『早く行け』と背中を押してくる一同を睨み付けつつ、柴崎を眠っている沙耶に少し近寄る。
「実池! もうお開きだぞ! 起きろ!」
「すー……、すー……」
「ダメか」
どうやら思ったよりも深い眠りに落ちているらしく、ピクリとも反応を示さない。
うしろで待機している一同に助けを求める視線を送ると、≪手で揺すって起こせ!≫というジェスチャーが返ってくるが、柴崎には心配事がひとつ。
「それ、セクハラにならねぇか?」
「「「「「 ちゃんと見てます。大丈夫です 」」」」」
「本気か」
「「「「「
「……………」
一同の真剣な眼差しを無視することもできず、仕方なく沙耶との距離を縮めていく。すると……。
「ううん……」
「……………」
まるで、気配を感じ取ったかのように、熟睡していたはずの沙耶が微かに動く。それと同時に、閉じていた
しかし、目は覚めているのだろうが、いつもとは違う虚ろな感じから危うさが滲み出ている。
柴崎の頭に嫌な予感が過る―――が、この機を逃せば、たぶん沙耶はまた眠ってしまうだろう。そうなる前に、なんとか起こさなければと、柴崎は沙耶の体を揺さぶるため手を伸ばす―――が。
バシッ! とその手は強く弾かれた。酔っ払って警戒心の増した、
「……………」
「気安く触らないでください」
「「「「「 すみません 」」」」」
嫌悪感丸出しの表情で睨まれ、思わず全員で謝る人事部一同。こちらを見る、据わりきった目がとにかく恐かった。
そしてこれが、初め人事部一同が沙耶を遠巻きに眺めていた理由である。
こうなってしまったら最後、相手が上司だろうが、同期だろうが、後輩だろうが、男か女かなんてまったく関係ない。
近寄れば威嚇、触ろうとすれば攻撃。
そう。それはまさしく、警戒心の高い、野生の猫なのである。
「無理だな」
「「「「「 課長 」」」」」
「あからさまに落胆するんじゃねぇ。秘策がある」
肩を落とす部下達をよそに、自信満々といった様子で柴崎はポケットからスマホを取り出した。
そして、連絡先の中から、ある人物の名前を探し出すとそれを部下達に見せる。すると、その手があったか! と全員が納得したかのように頷いた。
「俺はこいつが到着するまでここで待つ。お前らは先に二次会―――」
「「「「「 キャー!! 課長ステキー!! 私達ずっとついていきます!! じゃあ、お先でーす!! 」」」」」
「……………」
最後まで言い切る前にすべてを理解した部下達は、我先にと居酒屋を出ていった。その様を、柴崎は冷めた目で見送り、部下達の薄情さに呆れた。
そして、自分から少し離れた場所で眠る沙耶を一瞥して、小さな溜め息をひとつ。
「さて。この猫の飼い主でも呼びつけてやるか」
とんだとばっちりだろうな、なんて軽く同情しながらも、自分も早くこの状況から解放されたいという思いで、柴崎は電話をかけるのであった。
△_▲
「見事に潰れてますね」
「あぁ。見事に潰れてんだろ」
柴崎から連絡を貰った猫の飼い主―――壮司が指定された場所に行くと、そこには部屋の隅でビール瓶を抱き締めて眠る沙耶の姿があった。ちょうど一年前にも似たような光景を見た気がして、壮司の口から大きな溜め息がこぼれる。
「忠告したのに……。どうしたんですか、アレは」
さすがに理由もなくここまでつぶれるわけがないと思ったらしい。そんな壮司に、柴崎は素直に経緯を伝える。
「お前んとこの課長に補佐がつくって話は聞いてるか?」
「正式にではないですけど、聞いてます」
「その補佐っつーのが、土佐川でな。つい話の流れで言っちまったんだよ」
「あぁ……。なるほど……」
「あいつが出向してからだいぶ経つんで、犬猿の仲だってことすっかり忘れちまってたんだよ……」
悪かったな、と申し訳なさそうな表情を浮かべる柴崎。しかし、壮司はすぐさま首を横に振る。
「柴崎さんのせいではないです。悪いのはそこでビール瓶抱えて寝てる、アレですから」
呑気に眠る沙耶を指差し、壮司は深い溜め息をつく。だから忠告してやったのに、と腹が立つものの、こうなってしまった以上どうしようもない。説教は、沙耶がシラフになってからだ。
「ムリヤリにでも起こして連れ帰るので、柴崎さんは二次会に行った人達と合流してください」
「その気持ちは心底嬉しいが……」
「え?」
「他部署の奴を呼びつけといて、全部まかすっつーのも
「柴崎さん……」
なんていい
営業部課長の場合、部署の飲み会に毎回参加はしているが、自分が気持ちよくなったら即帰宅するような人間である。もし、沙耶のように酔い潰れた部下がいたとしても、きっと他の人に任せて自分はそそくさと帰るような人種だろう。柴崎とは違う。
決して、冷たい人間ではないが、たぶんそういう気遣いというものは備わっていない人間であることは確か。だからこそ、壮司は思う。
人事部課長と営業部課長の人間としての差が、永遠に埋まることはないだろう―――と。
「気にしないでください」
「とは言ってもな……」
「沙耶としても、これ以上の
「確かにそうだな」
壮司が言葉を言い切る前に、何かを察した空気の読める柴崎はあっさりと引き下がる。それはもう、さっきまでやりとりが嘘のようにあっさりと。
「じゃあ、
「はい」
「代わりに今度何か奢らせてくれ。じゃあな」
ぽんぽんっと壮司の肩を労るように軽く叩き、柴崎は去っていった。
そして―――。
一人、居酒屋に残された壮司は、スヤスヤと何事もなかったかのように眠る沙耶へと視線を向け、そのまま臆することなく近付いていく。すると、誰かが近付く気配を敏感に察知し、目を覚ました沙耶がゆっくりとその顔を上げる。
「「 …………… 」」
無言でお互いを見つめ、動かない両者。
そこには居酒屋とは思えない、場違いな重い空気が漂い、一体どんな死闘が繰り広げられるのか―――と思いきや。
「壮ちゃん、何してんの?」
「迎えに来たんだよ……」
少しボーッとしているものの、さっきまでの警戒心はどこへやら、平然とした様子の沙耶に、壮司は小さな溜め息をつく。
確かに酔っ払っているのだが、壮司だけは認識できるらしい。酔いがさめているようにも思うが、呼び方が『壮ちゃん』となっているため、まだ酒は充分に残っているのだろう。
「何。わざわざ迎えに来たの?」
「酔い潰れたって聞いてな……」
「過保護ー」
「違うから……。早く帰るぞ」
「うん。………あ」
「どうした……」
「立てないや。おんぶして」
「……………」
「壮ちゃん、おんぶして」
「これは沙耶じゃない。これは沙耶じゃない。これは沙耶じゃない」
「何ブツブツ言ってんの?」
おわかりだろうか。
普段の沙耶にはない変化が起きていることに……。
決して、デレているわけではない。しかし、普段と比べると明らかに素直さが特出しているのである。これが普段の沙耶であったなら、九割以上の確率で自分からおんぶして、とは言わない。絶対に言わない。
そして残念ながら、この素直さは酔っ払っている時の限定イベントであり、シラフに戻ったら覚えてすらいないのが
次の日には、いつも通りの≪近寄らないで≫オーラばりばりの沙耶が帰ってくるのである。壮司は辛い。
「壮ちゃん、早くおんぶして。帰りたい」
「わかった……、わかったよ……」
激しいギャップに苦悩しつつ、壮司がその場に屈んで背を向ければ、すぐに感じる重みと体温。しかも、首には軽く腕が回され、体をペタリと引っ付けてくる。壮司は泣きそうだ。
「壮ちゃんの背中あったかい……。寝ていい……?」
「寝ろ。今すぐ寝ろ」
「何それ?」
耳元で聞こえる若干掠れた声に、壮司はとにかく早く寝てくれることを願った。素直な沙耶との会話は心臓に悪いからだ。いろんな意味で。
沙耶を背負ったまま居酒屋を出て、春先のまだ寒い夜道をゆっくりと歩く。それから少しして、壮司の背中にはさっき以上の重みがかかり、穏やかな寝息も耳に届く。思ったよりすぐ寝たな、と思いながら壮司はホッと安堵の息をついた。
「世話のかかる……。にしても、なんで酔っぱらうと昔の呼び方になるんだ? こいつ」
『壮ちゃん』という呼び方を沙耶がしていたのは、高校の頃までだった。ある日突然、『壮司』と呼び始めて、不思議に思った壮司が理由を尋ねても、沙耶は「なんとなく」とだけ言って教えようとはしなかった。壮司も、別に名前を呼ばれるならどちらでも構わなかったため、そのまま流した。
当時も今も、壮司としては気にしていたつもりはなかったが、『壮ちゃん』という呼び方は、なんとなく昔からの親しみみたいなものを感じて悪い気はしない。時々は呼ばれたいと思う程度には。
「………壮ちゃん」
「起きたのか?」
「バーカ」
「なんでだよ」
寝言とはいえ一瞬腹は立ったが、自分の名前が呼ばれたことに関してはなんだかんだと嬉しさもある。感情とは実に複雑なものだ。
とりあえず起きたら説教はしてやる、と心に決めて、沙耶を起こさないように壮司はゆっくりと歩くのだった。
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