3
「ようやく終わった……」
溜め息と共に持っていたボールペンから手を離し、沙耶は固まった筋肉をほぐすように背筋を伸ばす。
現在の時刻、午後九時。
沙耶にしては珍しい三時間の残業だ。
「時間かかったー……」
はぁー……と大きな溜め息をつきながら、自分以外誰もいないオフィスを見回す。沙耶しか残っていない人事部のオフィスは、当然のことながら音一つなく静まり返っていた―――。
そして、ここで疑問が一つ。
特に繁忙期でもないこの時期に、なぜ、沙耶だけが残業していたのか。
「………壮司、許すまじ」
そう。その原因は、今日の昼休憩にあった。
いつもとは違う壮司の変なかまい方が、沙耶の
「クソ……! 壮司のクソ……!」
ダンダンッ! とデスクを叩いて苛立ちをぶつける。
沙耶としては、壮司を直接叩いた方がストレス発散にはなるのだが、ここにいない相手を叩くことはできない。どうせ壮司は定時に仕事を終わらせて、さっさと家に帰っているのだろうと思うと、余計に腹が立つ。
しかし、いつまでも目の前にいない相手に向かって腹を立てていても仕方のないこと。
とりあえず、自分も家に帰ろうと身支度を済ませて、沙耶は人事部を後にする。
エレベーターに向かって真っ直ぐな廊下を歩きながら、まだ電気の点いている部署がボチボチ。自分だけが残業していたわけではないとわかった沙耶は、安堵の息を吐く。広い会社に一人だと、少し怖い気がするからだろう。
「………ん?」
スタスタと足早に歩いて、あと少しでエレベーターというところで、ふとした違和感に足を止める。
エレベーターから一番近い部署、営業部に
沙耶の感じた違和感の理由はこれだ。
営業部といえば、【残業をしない】と、社内では非常に有名な部署なのである。
それなのに、沙耶の目の前には煌々と電気が点いている営業部のオフィス。驚きで、沙耶の足が止まるのも決しておかしな話ではない。
(誰が残ってるんだろ?)
まさか課長か? なんて絶対にありえないことを考えながら、沙耶は気付かれないようにそっと営業部を覗き―――。
「あ」
残業している人物を見て、思わず出してしまった声。
そして、その声に反応するように振り返ったのは、
「何してんだ、沙耶」
「あー」
壮司だった。
てっきり定時で帰っていると思っていただけに、沙耶は開いた口が塞がらない。
ずいぶん勝手な話になるが、沙耶の中では入社した当時から、【壮司=定時】というよくわからない方程式が出来上がっていた。そのため、沙耶にとってこの状況は本当に驚きなのである。
「絶滅危惧種を生で見たくらい驚いた」
「わかりづらい例えだな」
「明日はきっと雨が降る」
「そう言われると大したことないな」
「いや。もう少ししたら降ってくるかもしれない」
「なんだそれ」
沙耶が半分くらい真剣にそう言えば、返ってくるのは呆れたような壮司の笑い声。
しかし、沙耶は半分真剣なのである。天気予報とて一〇〇パーセントではない。万が一ということもある。
沙耶は肩に掛けていたバッグの中身を見て、折り畳み傘があることを確認する。そして、よし! と一度頷いて、
「本当に雨降ってきたら嫌だから先帰るわ。お疲れー」
ひらひらと手を振りながら回れ右。そのまま振り返らずに進もうと足を一歩出した瞬間。
ガシッ、と大きな手が肩を掴む感覚がした。
「………え」
突然のことに驚きながらも、肩を掴んでいる手を外そうとするが、接着剤でも手に塗っていたのだろうか。全然外れない。
どういうつもりだという気持ちを込めて壮司を睨み付けると、そこには沙耶が知る中で一番と言っていいほど胡散臭い笑顔が。
沙耶の頭に、嫌な予感が
「沙耶」
「な、何よ……」
「付き合ってくれるよな?」
「……………」
「な?」
「絶対に。嫌だ」
「遠慮しなくていいんだぞ?」
「してない! 嫌だ! 離せ!!」
バカなの!? と言わんばかりの必死の形相を浮かべる。
沙耶もついさっきまで残業をしていた身である。そして今からやっと帰るところだったのだ。それなのになぜ、壮司の残業に付き合わなくてはいけないのか。
(ありえない! 私は早く家に帰りたいのに! ご飯食べて、お風呂入って、寝る!)
こんなところで邪魔されてたまるかと、壮司の手を必死に肩から引き剥がそうとするが、ピクリともしない。
「ちょっと、いい加減に―――」
「昨日、姉貴がプリン持ってきたんだけど」
「え」
「姉貴特製プリン」
「……………」
じゅるり、と口からヨダレが出そうになるのを、沙耶はなんとか堪える。
「まだ残ってるけど」
「……………」
「新しい味も入ってたけど」
「……………」
「一個食べたら超美味かったけど」
「……………」
たかがプリン。されどプリン。
プリン一つで悩む沙耶をちょろいと思うかもしれないが、大好物なのだから仕方ない。特に今回は、お菓子作りがプロ並みに上手い壮司の姉が作ったものだから尚更だ。
(
迷う。早く帰りたいという気持ちと、プリンを食べたいという気持ちが、ゆらゆらと揺れ迷う。
すると、そんな沙耶の気持ちに気付いたらしい壮司が、とどめと言わんばかりにこう口にする。
「残業付き合ってくれたら、残りのプリン全部やるけ「しょうがないわね。手伝ってあげる」
「……………」
喜びに緩む顔を隠すように背けながら、さっきまでの抵抗が嘘のように、沙耶はあっさりと営業部に入っていく。すると、自分から言い出したはずの壮司がなんとも複雑そうな表情を浮かべている。
「何よ、その顔は」
「心配なんだよ」
「何が」
「プリンぶら下げたら簡単に釣れるから。俺以外にもこうなのか……?」
「………知らない」
否定はしない。かといって肯定するわけでもない。しかし―――。
「顔赤い」
「うるさいっ!」
沙耶としては平然としていたつもりだったが、わかりやすく顔に出ていたらしい。壮司の指摘に、沙耶は勢いよく顔を背ける。そして、赤くなった顔を両手でパタパタと扇ぎながら、「早く戻れ!」と自分に言い聞かせて深呼吸を繰り返す。
すると視界の端で、壮司が何やらゴソゴソと動き出していることに気が付く。何をやっているのかと気になり、沙耶がそちらに視線を向ければ―――。
「え。何その紙……」
全部署の不要用紙を一つに集めたのかと思うほどの大量の紙が積み上げられていた。
沙耶は、驚きで口を開けたまま立ち尽くす。
「なんなの、この量……」
「全部シュレッダーな」
「え"。帰「姉貴のプリン」
「……………」
とんでもない紙の量に、一瞬、壮司を置いて帰ろうとした沙耶だが、【プリン】という言葉を聞いて、無言で紙に手を伸ばす。
たかがプリンで、大人しく従ってしまう沙耶は、誰から見てもちょろいの言葉がよく似合う。悪い方の意味で。
「これ、本当にシュレッダーかけていいの? 裏面の白い方とか使えそうだけど」
シュレッダーをかける前に沙耶が気付いたのは、どの紙も片面印刷で裏面が白いということ。
この会社では、他社に渡す書類や資料、部署の印鑑が必要なもの以外はすべて両面印刷にする決まりがある。そのため、こうも大量な片面印刷の紙を見る機会はそうそうないのだ。
「もったいない」
「裏紙として利用できるならしたいけど、これはできねぇんだよ」
「ふーん。―――で、この紙達はどこから出てきたわけ?」
「課長の机の中」
「………嘘でしょ?」
「本当」
「うわ……。ないわ……」
確かに汚い机ではあった。しかし、こんな大量の不要紙が出てくるとは誰が予想できるだろう。最早、四次元ポケット並みである。
「で、この不要紙の持ち主はどこにいるの」
「どこだろうな」
「は?」
「飲み物買ってくるって言ったきり戻ってこねぇ」
「クズだな」
「クズだろ」
さすがの壮司もかなり頭にきているらしく、その声音はかなり低い。
沙耶が知る限りでも、壮司が怒ることは一年に数えられるくらい。しかも、悪態をつくことはほぼないに等しいため、今日の壮司はある意味レアだ。
「一人じゃ無理でしょ、これ……。他に残ってる人いないの?」
「一人いるな。少し前に課長探しに行った」
「えぇ……。一人だけ? このゴミの量に見合ってないって……」
「そろそろ戻ってくると思―――」
「うまいこと逃げられたよ、甲斐谷……………あれ?」
「……………」
「どうして実池さんがここに?」
聞き覚えのある嫌な声にゆっくりと視線を向ければ、そこにはいつも通りの胡散臭い笑顔を浮かべる土佐川の姿が。
「壮司……?」
「……………」
「壮司……?」
「ハハハハハ」
「何笑ってんだバカァ!!」
気まずそうに顔をそらす壮司のネクタイを引っ張りながら、沙耶は怒りの雄叫びを上げるのであった。
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