「あぁ、なるほど。そういうことだったのか」



 昼休憩中の人事部にて。

 沙耶の隣で昼飯を食べていた甲斐谷かいたに壮司そうじは、納得したように頷いた。それは、午前中の外回りから戻ってきた時に遭遇した、奇妙な光景についてである。



「俺がいない間に、二人のしょうもないじゃれ合―――」

「違う」

「……………」



 壮司の言葉を遮り、沙耶は冷ややかに睨み付ける。その瞳は、『冗談でもそれを言うな』と語っていて。



「相変わらず馬が合わねぇんだな、お前ら……」



 と、壮司は呆れたように呟いた。

 ちなみに、壮司が見たという、奇妙な光景というのは―――。



「上司が部下に正座を強要されるってどういう気分なんだろうな」



 正座する営業部課長に、穏やかな口調のまま説教をする、土佐川の姿であった。



「俺、あの課長が本気で反省する日なんて一生来ねぇと思ってた」

「私は、反省って言葉を知らないと思ってた」

「土佐川に正座させられて、説教されてんだから驚いたわ」

「それは誰が見たって驚く」



 自分も見てみたかったと、沙耶は呟く。



「……………」

「何よ」

「その引き金をつくったの、沙耶なんだろ?」

「違う。私は、書類を取りに行っただけで、別に何もしてない」

「嘘だな」

「なんでよ!」



 自分は無関係だ! と否定する沙耶ではあるが、彼女が引き金であることに間違いはない。

 なぜなら、ペナルティの話を出すタイミングが、絶妙すぎたからである。

 苛立ちのピークにあんな話をされてしまっては、ブチギレるのは当然のこと。しかも、そのすべての元凶である課長は逃走……。

 土佐川の怒りが、熱湯からマグマに変わっても何らおかしくはない。

 そしてその結果が、正座プラス長時間説教という形になったのである。

 ちなみに、そんな土佐川の暴挙が許されたのは、営業部部長の許可が下りたから。彼もまた、課長に手を焼いている一人である。



営業部うちは今日一日、カオス決定だな」

「……………」



 そう言って、壮司は困ったように笑う。

 すると、沙耶が何かを思い出したかのように箸の手を止め、ジッと壮司を見つめる。そして―――。



「ねぇ、壮司」

「ん?」

「あんた、なんでいっつもここでご飯食べるの? 自分の部署で食べたら?」

「……………」



 このタイミングで、毎度お馴染みの台詞。さすがの壮司も、呆れたように溜め息を吐く。



「普通、あれだけ談笑した後に言うか、それ」

「いつも言ってることじゃない」

「そうだけど」

「そうでしょ」



 何が不満なの? と言いたげに、沙耶の眉間にシワが寄る。



「………ほんと沙耶は、いつまで経っても沙耶のままだな」

「何よ、それ」

「そのままの意味」

「………意味わかんない。とにかく、自分の部署に戻りなさいよ」



 素っ気なく言い放って、またお弁当に手をつけ始める。そのぶれない態度は、さすがとしか言いようがない。

 そして、だいたいの人はその態度で気を悪くするのだろうが、壮司は違う。そうなるどころか、驚くことに小さな笑い声をあげ―――。



「うぎゃっ」



 シワの寄った沙耶の眉間を、親指でぐりぐりと押し始めた。しかし、行動の意味はよくわからない。



「ちょっ、と……!」

「……………」

「なん、なの……!」

「……………」

「壮司……!」



 必死に呼び掛けるも返答はない。完全スルーである。

 ダブルで苛立つ沙耶は、なんとか壮司の指から逃れようとするが……。



「あーもー! この馬鹿力がっ!」



 うまくかわすことができない。



「本当にっ! なんなのっ!」

「………なるほど」

「何がっ!」

「抵抗が弱い」

「どこがだっ! さっきからずっと抵抗してんのにっ!」



 寝惚けてんのか! と怒る沙耶。しかし壮司は、そんな沙耶をスルーして、一人納得したように頷く。

 壮司がさっき口にした『抵抗』というのは、『拒絶』と同義である。

 今の沙耶は、怒りはするものの、触ることは許している。これが少し前の沙耶であれば、触られる前にその手をはたき落とし、嫌悪感をそのままに、



『触らないで』



 と、言い放っていたはずなのだ。

 それが今ではまるで、【かまって貰えて嬉しいくせに、照れくさいからわざと嫌がってみせる子供】のそれである。

 だから壮司は、さっきから沙耶をかまっている。決して、からかっているわけではない。



「もう………いい加減にしろっ!」

「いてててて……!」



 さすがに我慢の限界を突破したらしい沙耶が、壮司の手の甲を遠慮なくつねる。地味だが、なかなかに高い攻撃力。壮司の親指が、簡単に眉間から外れた。

 


「ここだけ化粧が薄くなるから、もう二度としないで」

「化粧してなかったらいいのか?」

「あ"?」

「………冗談だって」



 予想以上の剣幕に、壮司はあっさり引き下がる。調子に乗りすぎるのは危険だとわかっているのだ。



「………あんたは一体、何がしたかったわけ?」



 そう言って、不機嫌そうに表情を歪ませる。すると、その疑問に対し、壮司は嬉しそうに笑いながら、



「何かしたかったわけじゃねぇよ。ただ、だいぶ緩和してきたなーって」

「何が」

「沙耶の警戒心」

「………は?」



 何それ、と怪訝そうに首を傾げる。

 沙耶には、普段自分が警戒心を剥き出しにしている自覚はない。本能がそうさせているだけなのだ。



「文句は言うけど、昼飯は一緒に食うようになった」

「それはあんたが勝手にここ来て、私の隣で食べてるだけ」

「一言多いけど、一緒に出勤する」

「………家を出る時間がたまたま一緒なだけ」

「廊下で声を掛けても怒らない」

「む、無視する理由がないだけ……っ」

「最近じゃあ、会社帰りも寄り道に付き合っ「うっさいな!! もう黙ってよ!!」

「うぐ……!」



 壮司の正しい指摘に我慢の限界を超えた沙耶は、顔を真っ赤にして目の前のネクタイを全力で引っ張る。それこそ、首を締める勢いでだ。

 どうやら、壮司にしては珍しく、引き際を間違えてしまったらしい。



「やめ……! 苦し……!!」

「私の方が苦しいわバカァァァ!!」

「ちょっ……! マジで、絞まっ、てる……!」



 ここが会社であることも忘れ、意味の違う苦しさで騒ぐ沙耶と壮司。

 昼休みということもあり、人事部にいる社員は少ないが、それでもゼロではない。しかし、沙耶と壮司の絡みにすでに慣れているのか、この場にいる全員が素知らぬ顔をしているのだから、慣れとは恐ろしいものである。



「余計なことはもう言わないって誓え!!」

「誓う……! 誓います……!」



 もう絶対に言いません! と壮司が苦しみながら言えば、やや乱暴にネクタイが解放される。

 今のは本気でやばかった……と、心の中でそう呟き、安堵の息を吐いた壮司は、乱れたネクタイや襟を慣れた手つきで整える。そしてその合間に、沙耶に視線を向け、



「でも、嘘は言ってねぇだろ」



 と、一言。

 沙耶の表情は、相変わらず不機嫌そうなままだ。しかし―――。



「別にからかってるわけじゃねぇからな。………俺はただ、こういう風に沙耶と一緒にいるのが楽しいんだよ。自然体でいられるって貴重だろ?」

「……………」



 壮司が、素直な言葉を口にして笑いかける。決して嫌がらせではないぞ、という意味のこもった軽い言葉だ。

 しかし、その言葉を聞いた沙耶は、なぜか急に黙り込んだ。表情を見るに、怒っているわけではないらしい。

 何か変なことでも言ったか? と、壮司は困惑の表情で首を傾げる。すると―――。



「……………私も……」

「?」

「私も………ちょっとだけ、楽しいかもって………思った……」



 真っ赤な顔で、今にも消えそうなか細い声。しかしその呟きがしっかり耳に届いた壮司は―――。

 俺は幻でも見ているのか……と、本気で驚いていた。

 壮司からしてみれば、自分の発言を聞いた沙耶の反応は、



『あんた、何言ってんの?』



 これが、正解。更に冷めた視線を向けられたら、文句なしだ。

 それなのに、まさかあの沙耶が、壮司の話に乗ってくるとは……………明日は台風かもしれない。

 ちなみに壮司はといえば、予想外の沙耶の反応に返す言葉が見つからず、視線が泳ぐ。最早、どこを見ればいいのかもわからない。

 すると、そんな壮司に視線を向けた沙耶が、面白くなそうに表情を歪める。



「何よ、その顔……」

「……………」

「なんで無言なのよ……」

「……………」

「何か言いなさいよっ」

「……………」

「む、無言で頭を撫でるなっ!!」



 返す言葉が見つからず、なぜかそこで沙耶の頭を撫でた壮司は、当然のようにその手をはたかれる。

 しかし、壮司はそこで更に言葉を失う疑問に襲われる。


(なんか、いつもより叩かれ方が優しかったような……………俺の気のせいか?)


 赤くもなっていない手に視線をおとし、そんなことを思う。しかし、これ以上の指摘は沙耶に本気でキレられそうだと、その理由を聞くことはできない壮司なのであった。



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