三毛猫と酒呑み警報
1
「なるほど。もうそんな時期か」
「……………」
現在、昼休憩。
人事部にて、さも当たり前のように昼飯を食べている幼馴染み兼腐れ縁の甲斐谷壮司(営業部所属)に、実池沙耶は冷めた視線を向けている。
遡ること、二週間ほど前。沙耶が体調を崩した際に看病に来てからというもの……。なぜか壮司は、人事部で昼飯を食べるようになった。
そして、最初の三日ほどは、
『なんで営業部がここでご飯食べてるの……?』
という目で見られていた壮司だが……。謎なことに、今では他の人事部社員達とも談笑するほどに馴染んでいた。
そして―――。
「甲斐谷、お前また来てんのか。そろそろ本格的に
なぜか、人事部課長にも沙耶が気付かぬ間に気に入られていた。
沙耶の心中は穏やかではない。
「………あぁ。そうだ。今週末、人事部で地獄帰還会をやる予定なんだが、甲斐谷も来るか?」
地獄帰還会―――。
それは、とてつもない仕事量のせいで地獄と化していた人事部が、誰一人辞職することなく。全員なんだかんだ無事に地獄から帰還する(仕事を期限内に終わらせる)ことができた際に行われる催し。
簡単に言えば、会社の経費で落とす少しリッチなお疲れ様会である。
「いえ。遠慮します。俺、人事部ではないので。気持ちだけで充分です。ありがとうございます」
「………なるほど」
「なんですか?」
「あの野郎はしょうもねぇが、部下はちゃんと育ってんなと思って」
「………もしかして、試したんですか?」
「半々だ、半々。昔、あいつは今と同じことを聞かれて、『行く』って即答したからな。少し気になっただけだ」
「
「あぁ。あいつには社交辞令もクソもねぇよ」
呆れたように溜め息を吐き、そう言った課長に、壮司は返す言葉もなく乾いた笑いを溢す。
((( あの課長って、昔からあんな感じなんだ…… )))
話の内容が聞こえていた人事部社員一同、心の中で呟く。
契約はたくさん取ってくるが、少し常識外れで空気が読めないと言われている営業部の課長。最近ようやく、この人を一人野放しにするのは危険だという認識が上層部に伝わったらしく。近々、課長補佐というものができるとの噂だ。要は、補佐という名のフォロー役といったところだろう。
「沙耶も地獄帰還会に参加するのか?」
「するけど」
「……………」
「何よ」
「……………」
「なんで無言で見てくんのよ」
人事部の人間なのだから参加して当たり前だろうと、沙耶は言う。確かに沙耶の言うことは最もだ。
しかし、何かが引っ掛かるのか、壮司は微妙な表情を浮かべている。
「……………」
「言いたいことがあるなら、言いなさいよ」
「酒、飲むのか……?」
「飲むけど」
「本当に飲むのか……?」
「飲む」
「飲むのか……」
「ちょっと。さっきから何なの?」
はっきりしない微妙な反応ばかり返してくる壮司に、これではなんだか遠回しに、『酒を飲むな』と言われているような気さえする。それに、そんな中途半端な態度を取られるばかりでは、沙耶とていい気はしない。
早く理由を言え、という気持ちを込めて壮司を睨み付ければ、返ってきたのは大きな大きな溜め息がひとつ。沙耶の眉間にシワが寄る。
「何。本当に何なの?」
「うーん……」
「喧嘩売ってんの?」
「売ってない」
「じゃあ、言って」
「………沙耶」
「何よ」
「去年の地獄帰還会のこと、覚えてるか?」
「去年の?」
「そう」
「……………」
そう尋ねられて、沙耶は黙った。
なぜなら、その時の記憶がまるっと抜け落ちているからである。正確には、一定量の酒を飲んだ後の記憶から綺麗さっぱり飛んでいる。
「……………」
「記憶、あるか?」
「……………」
「沙耶」
「………ない……かも」
「ないんだな?」
「………ない」
「だろうな」
「ま、待って。私だって気にならなかったわけじゃない……。去年だって、いろんな人に聞いてみたりしたのよ?」
「へぇ……。誰か教えてくれたか?」
「誰も教えてくれなかった」
「だろうな」
「……………」
気まずそうに視線をそらした沙耶に、壮司は『知っていた』とでも言いたそうな表情を浮かべる。
去年の地獄帰還会の後。一部記憶が抜け落ちていることを不思議に思った沙耶は、同僚にその時のことを一応尋ねてはいたのだ。
しかし、なぜか全員、困ったように笑い、強制的に話を流すため、沙耶がその時の真相を知ることはなかったのである。
そして、それは目の前にいる壮司も例外ではなかった。
「なんで? 私、何したの?」
「……………」
「無言になるな!」
「……………」
「教えなさいよ!」
壮司のネクタイを力任せにグイグイ引っ張りながら詰め寄ろうとも、壮司は明後日の方向に視線をそらす。
「壮司っ!」
「悪いことは言わねぇから、酒は二杯くらいでやめておけ」
「なんでっ!」
「それが沙耶のためだから」
「意味わからんっ!」
教える気がないならほっとけ! と言わんばかりの勢いで、沙耶が顔をそむけた後、聞こえてきたのは壮司の大きな溜め息がひとつ。
「なんで溜め息つくのよ」
「俺だって、言えるもんなら言いたいんだよ」
「なら、言いなさいよ」
「やだ」
「なんで!」
「言ったところで絶対信じねぇもん、おまえ」
「決めつけんな!」
「ムリムリ。時間の無駄」
「………そんなの私だって聞いてみないとわからないっつーの!! 帰れ!! バーカ!!」
壮司の言い草と、誰も教えてくれないもどかしさとで怒りが爆発した沙耶は、周りの目も気にせず怒鳴る。
そして、壮司のネクタイを両手でしっかり掴むと、己の力すべてをもって人事部から追い出すのであった。ちなみに、一部始終を黙認していた人事部課長は、楽しそうにニヤニヤと笑っていた。悪趣味である。
△_▲
金曜、地獄帰還会当日。
「皆さーん! 飲み物は全員に行き渡りましたねー?」
人事部行きつけの居酒屋にて、親睦会幹事がビールジョッキ片手に声を掛ける。部屋一面を見渡して、全員の手に飲み物があることを確認すると、今回の繁忙期一番の功績者である課長の肩を叩いた。どうやら、乾杯の挨拶をお願いしたようだ。課長は促されるまま、ビールジョッキ片手に立ち上がる。
「今年は例年以上に忙しかったが、よく踏ん張ってくれた。感謝する。今日は好きなだけ食べて飲んで、疲れとストレスを吹き飛ばしてくれ。乾杯!」
「「「「「 かんぱーい!!! 」」」」」
長い激務から解放された反動か、いつもは淡々と仕事をこなしている人事部からは想像もつかないようなハイテンションでグラスをぶつけ合う。想像以上に激しい音が鳴り、グラスが割れないか心配になるほどだ。
さらに、目の前のテーブルには和洋中さまざまな料理がところ狭しと並んでおり、ノンアルコール組がものすごい勢いで我先にと好きな物にがっついている姿もある。
そして沙耶は、ビールをちょびちょび飲みながら、食べることを主にして楽しみ中。たぶん、壮司の言葉をそれなりに気にして酒量をセーブしているのだろう。懸命な判断だ。
「実池には
「あはは。正直もう勘弁してほしいですね」
沙耶は、席が隣同士になった課長と営業部課長をサカナに談笑を始める。他の人とも営業部課長の愚痴を言い合うことはあるが、自分も相手もそれなりに言葉を選ぶ。しかし、課長はオブラートに包まないえげつない言葉を遠慮なくぶちまけるため、聞いている方は何気に楽しかったりするらしい。
魔王なんてあだ名がつけられている課長ではあるが、普通の時だと意外に話しやすいため、人事部のみならず他部署の社員達からもかなり人気があったりする。
『まぁ、私達の課長、見た目も美形ですからそんなの当たり前だし』
というのが、人事部一同の声である。
そして、本人は気が付いているかわからないが、人事部だけの飲み会の際、課長は柔らかな笑顔を見せることが多い。つまりは、激レアショット。そのため、課長から少し離れた席では、カメラ小僧となった者達が笑顔の課長を隠し撮りしているのだが、たぶん本人は気が付いていない。
仕事では一切隙を見せない課長も、こういう席では意外と隙だらけ。まぁ、皆が楽しむ席で、わざわざ気を張る人もそういないだろう。それが課長も例外ではなかったということだ。
ちなみに、撮られた写真に関しては、人事部だけに許された勝手な特許として、他部署の社員達が見ることは絶対にないのである。
「これから先もずっとあのだらしない調子でこられると思うと、憂鬱ですよ……」
「まぁ、今後は補佐がつくから今よりはマシになるんじゃねぇか?」
「補佐がつくって話、本当だったんですか」
「あぁ。今年の四月から正式につく」
「営業部課長にだけでしたっけ?」
「今のとこはな。まぁ、あいつの場合、契約取れたかと思いきや、途中でナシになることも多いからな。空気読めねぇせいで」
「通常運転ですね」
「あいつの部下も苦労してんだろうが、もっと苦労してんのが部長だからな」
「上司ですもんね……」
「それだけじゃねぇぞ。部長、あいつが新入社員だった頃から現在進行形で教育係だからな」
「え……? まだ教育係なんですか……? あの人、課長ですよね?」
「部長が退職できるまでずっとじゃねぇか。あいつのせいで部長、歳のわりに髪の毛真っ白だからな」
「うっわ……」
まさか、営業部部長が一番の被害者だったとは驚きである。
沙耶も何度か営業部部長を見かけたことはあったが、確かにあの年齢しては白髪が多いなとは思っていたのだ。それがまさか、営業部課長のせいだったとは……。同情するしかない。
「だから今回、課長補佐がつくことになって、あの人も少しは安心できるんじゃねぇか」
「でも、相手はあのチワワ課長ですよ。普通の人なら長く持たなさそうですけど」
「心配ねぇよ。課長補佐に選ばれたのは実池と同期で、あいつの天敵だった……………あ」
「チワワ課長の天敵で………私の同期……」
「やっべ……」
ピタリと、料理を食べていた沙耶の手が止まる。
隣にいる課長は、口が滑った……と呟きながら、バツが悪そうに頭を掻く。
「………隠しててもどのみちわかることだから言うけどよ。四月から正式にこっちに戻ってくるらしい」
「………へぇ。四月から、ね」
沙耶の口からこぼれた呟き。それと同時に、ビールがまだ半分以上残っているグラスを手に取る。
「実池……?」
「いただきます」
「おい……! ちょっと待て……!」
沙耶が何をするのか気付いた課長が制止に入るも、時すでに遅し。
沙耶は、グラスに残っていたビールを一息に飲み干す。そして―――。
「店員さん。ビールのおかわり瓶でください」
「「「「「 …………… 」」」」」
迫り来る去年の悪夢に、人事部一同は悲しげにそっと、両手で顔を覆うのであった。
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