三毛猫と過保護な番犬


 誰もが待ち望むゴールデンウィークまで、あと数日となった今日この頃。

 軽い忙しさから解放され、比較的穏やかな日々を過ごす人事部には今日―――全員の敵とも呼べる、ある人物が訪ねてきていた。



柴崎しばさきくーん。今ちょっといいかなー?」



 にこっと老若男女受けする人懐こい笑顔を浮かべて、人事部の入り口から柴崎を呼ぶのは、営業部課長、千輪ちわ孝臣たかおみ

 人事部一同の目がギラリと光る、まさに宿敵である。

 そんな千輪が呑気な顔をしてやって来たことで、人事部一同は仕事の手を止め、一斉に顔を上げた。一体何の用なのか……と一同は警戒心を滲ませる。



「お前が自分からここに来るなんて珍しいな」



 そんな一同の中、特別警戒した様子もなく、普段とそう変わらない声色で、千輪に近寄っていく柴崎。あ。声色は変わらないが、顔が無表情だ。これは警戒している。

 しかし、そんな一同に気付いているのかいないのか。千輪はいつも通りの緩軽ゆるかるい調子のまま、口を開く。



「今週の金曜日、人事部は定時で上がれそう?」

「それは俺達に対する、新手の嫌がらせか何かか?」

「違うよー。ただ純粋に、金曜日の夜、空いてるかどうか聞いてるだけだよ」

「………まぁ、問題でも起きねぇ限り、全員定時で上がれんじゃねぇか」

「そっかそっか。―――実はさー、今週の金曜日に営業部で新入社員の歓迎会をすることになったんだよねー」

「へぇ」

「それで、どうせなら他部署と合同でやろうかなーって思ってて」

「へぇ」

「よかったら一緒にやらない?」



 にこっと微笑みながら、千輪が握手でも求めるように、柴崎に手を伸ばす。

 しかし―――。

 バシッ! と柴崎は無表情のまま、その手をはたき返した。



「うちに新入社員はいねぇ。寝惚けてんのか」



 そう。

 柴崎の言うとおり、今年の人事部には新入社員が一人もいない。

 その理由は、前年度の定年退職者も辞職者も異動希望者もいなかったからである。

 人事部は、ある期間だけほぼ毎日残業を強いられることがあるせいか、体力のある比較的若い社員で構成されている。そのため、定年間近の社員はおらず、年齢層はだいたい二十代から四十代が多く、最年長は五十代で部長だけなのだ。

 更に、今年は大変珍しいことに、辞職者も異動希望者もいなかったため、面子は前年度と変わりない―――。

 ということはつまり、新入社員や異動者のための歓迎会を開けないということ。そのため、今年の人事部は、歓迎会という名の飲み会行事を一つ、流しかけていたのである。

 そして、そんな人事部の元へやって来た、千輪からの合同歓迎会の話……。

 どうにもタイミングが良すぎると、柴崎の顔は訝しげだ。



「さすがの僕のでもそれは知ってるよー」

「……………」

「そんな怖い顔で睨まないでよ。―――だってさ、今期の始まりに、歓迎会がないのもちょっと寂しくない?」

「………まぁな」

「でしょ! だから一緒にやろうよって誘ってるんだよー」



 そう言って、にこにこと笑みを絶やさない千輪。

 実際、千輪の誘いはありがたいし、表情や態度を見る限りでは、いつもとあまり変わりはなく、不信感は抱かない。

 しかし、千輪と付き合いの長い柴崎にとっては、この妙な親切心がどうにも気になるようで……。



「本当に、何もねぇんだな?」

「うん。ないよー」

「本当に?」

「本当だよー」

「……………」

「疑り深いなー」



 微妙な空気が漂う中、見つめ合う二人。

 ここまでの経緯を知らない人が見れば、奇妙としか言えない絵面である。

 しかしこんな時でも人事部の片隅では、柴崎専門マル秘写真隊がスマホ片手に写真を撮りたそうにウズウズしていた―――。



「じゃあ」

「うん」

「いい店を選びすぎて予算が足りなくなったから誘ってる―――わけでもねぇんだな?」

「……………うん」



 変わらぬ笑顔のまま、一瞬、不自然な沈黙。

 人事部一同からすれば、少し首を傾げる程度のものだったが、柴崎にはこの反応が肯定も同然だったらしく―――。



「不参加」



 一言そう告げて、自分のデスクに戻るため、千輪に背を向ける。

 しかし、わざわざ人事部までやって来た千輪が、「そっかー。残念だなー」と素直に引き下がるはずもなく、自分から離れていく柴崎にすがり付く。



「お願いだから待って!」

「仕事の邪魔すんじゃねぇ。早く帰れ」

「お願いだよ! 魔王様!」

「てめぇ、馬鹿にしてんだろ」

「断じてしてない!!」



 冷たい視線を投げつけられながらも、千輪は一向に引かない。いつもの千輪であったなら、あっさり引き下がりそうなものなのだが。

 さすがの柴崎も、異様にしつこい千輪に、怪訝そうな表情で首を傾げている。



「なんだよ。しつけぇな」

「歓迎会の場所、あそこなんだよ! あそこ!!」

「あ?」

「柴崎君がずっと行きたがってた、あの店なんだよ!!」



 と、千輪が叫んだ瞬間。

 そのやり取りを見ていた一同にもわかるほど、柴崎の表情がなぜかコロリと変わった。



「………本当にあの店か?」

「そうだよ!」

「もし、嘘だった場合は―――自称嫁に餌として差し出すからな」

「嘘じゃないから!! それは本当にやめてっ!!!」



 悲痛な表情を浮かべる千輪を無視し、柴崎は腕を組んで少し考えるような素振りを見せる。その後、何か納得したように一人で頷き、人事部の親睦会幹事に手招きをする。

 呼ばれたことに気が付いた親睦会幹事が、柴崎の元へ駆け寄って行くと、そこから始まるコソコソ話。少し離れた場所にいる一同には、話の内容は聞こえない。

 そして、柴崎と親睦会幹事がコソコソ話を始めて数分後。

 初めは少し戸惑っていた親睦会幹事の表情が、パァァァっと明るくなり。



「ぜひ、行きましょう!!」



 と、声を上げた。

 すると、柴崎はつられるように、満足げな笑みを浮かべる。



「千輪。人事部も参加。で、支払いは折半な」

「よかったー。助かるよ」

「でも、次はねぇからな」

「うん」

「もし破ったら、餌に「大丈夫! 絶対に守るよっ!!」



 柴崎の言葉を遮り、真剣な表情でそう言うと、千輪は「じゃあねー」といつも通りの笑顔で営業部に戻っていった。

 そして、千輪がいなくなった後。

 一体何だったのか……と千輪の過剰な反応に首を傾げる一同の前に、親睦会幹事が満面の笑顔でこう告げる。



「朗報でーす! 営業部と合同でタダざけ会―――じゃなかった、歓迎会を開催致しまーす!」

「「「「「 おおー 」」」」」



 なんとなくそんな気はしていた、という反応の一同。しかし、それがどうした! といった感じで、親睦会幹事はチッチッチッと得意気な顔で舌を鳴らす。



「聞いて驚くなかれぇ! 会場はなんとぉ! 予約が一年先になっているという、あの! 超有名な焼き肉店でーす!!」

「「「「「 な、な、なんだってぇぇぇ!!? 」」」」」



 こっそり打ち合わせでもしていたのだろうか。声を揃えて叫ぶ一同に、親睦会幹事は嬉しそうにうんうん頷いている。その隣には、満足げに笑う柴崎の姿も。



「本来なら一年先の予約で、しかも予算が合わないため、会社の行事で使えることはないと思っていたのですが……。―――今回! 営業部のコネが炸裂して行けることになりました!!」

「「「「「 イエェェェイ!!! 」」」」」

「詳細は後ほど! で、参加する人ー」

「「「「「 はい!!! 」」」」」

「知ってました! 全員ですね!!」



 こうして、最後までハイテンションのまま、流れるように一旦幕引き。

 その後。

 人事部は、金曜日の歓迎会に絶対参加するべく、ものすごい集中力で瞬く間に仕事を片付けていくのであった。

 そして、その中にはもちろん、沙耶さやの姿もあり―――



(今回は絶対にお酒を飲まない!)



 と、違う意味でも意気込んでいるのだった。




 △_▲




「歓迎会、合同になったなー」



 昼休み。

 いつものようにちゃっかり人事部に居座る壮司そうじがそう口にすると、沙耶は「そうね」と相槌をうつ。



「参加するんだろ?」

「もちろん」

「………酒は「飲みません。絶対に飲みません」



 壮司の言葉を遮り、真剣な顔で断言する沙耶。

 今回の歓迎会は、営業部と人事部の合同。しかも、新入社員がいるのだ。

 あんな醜態を晒すわけにはいかない。

 それに今回は、あの土佐川とさかわもいるのだから尚更だ。



「隣に座るか?」



 監視の意味も込めて、と提案してくる壮司に、沙耶は首を横に振る。



「嫌。人前で馴れ合う気はない」

「ここも人前じゃねぇの?」

「………人事部以外で馴れ合う気はない」

「ふーん」

「……………」



 ニヤニヤと意地悪そうな笑みを向けられ、沙耶は無言で顔を背ける。



(何なの? 最近人の揚げ足ばっかり取ってくるんだけど)



 少し調子に乗っているのではないかと不満に思いながら、平常心を保とうとご飯を口にかっこむ。

 すると、隣から小さな笑い声が聞こえ、沙耶は思わずムッとする。



「………何笑ってんのよ」

「いや、だって」

「何よ」

「『馴れ合う』って部分はいいんだなーと思って」

「は?」

「わかってねぇなら別にいいけど?」

「何よ。その態度。ちょっとムカつく」

「はいはい」

「……………」



 一体なんなんだ、と不満げな顔の沙耶に対し、壮司はかなり上機嫌。

 昼休み中はもちろん、昼休み後もその意味がわからないままだった沙耶は、



「なんなの……。気になるわ……」



 と、またもや残業するギリギリのところまで追い込まれるのであった。



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