仄暗い穴の奥へ
「ユベール様、何か掴めましたか?」
黒髪の男――威焔の問いかけに、ユベールと呼ばれたエルフの男は険しい顔で頷いた。
ユベールの顔には疲労の色が濃く表れているが、無理を承知での強行軍だと理解した上でそこにいる彼は、威焔に移動を促す。
そこには威焔とユベールの二人しかいない。
ほんの数日前まで穏やかな営みが存在した場所。
何者かの襲撃によって滅んだ集落で、二人は朝を迎えていた。
威焔はモーリを傷付けてしまった直後、聖地からの指示を待つ集落の長を訪ね、自分が先行調査に向かうのでその道案内を一人選出して欲しいと伝えた。
それが森の使者の提案であると偽って。
そうして紹介されたのがユベールで、彼はいつになるか分からない次代の森の使者候補であり、特に追跡に秀でた戦士であると説明を受けた。
一度狙いを定めた獲物は何処までも追いかけ、身を潜めていても見つけ出し、必ず仕留めてみせるのだという。
威焔は戦闘能力には一切期待しなかったが、追跡能力と持久力とを買い、長の申し出を受けた。
呼び出しを受けて長の家に訪れたユベールは、日中、
そこからは強行軍だ。
僅かな荷物をユベールに任せ、通常は徒歩で一日半かかる道のりを、威焔はユベールを背負って駆けた。
闇夜の森を魔法の光で照らし、方向指示は威焔にしがみ付くために用意された手綱で行い、目的地である壊滅した集落までを馬よりも速く駆け抜ける。
速すぎる移動速度のせいで遠回りを余儀なくされたが、それでも2時間ほどで目的地に到着することができた。
ユベールは到着するなり木陰で嘔吐してしまったが、移動中に威焔の背中に吐瀉物を撒き散らさなかったのは、エルフの誇りがそうさせたのだろうか。
白い肌を青褪めさせたユベールに治癒魔法を施し、小一時間ほど休ませている間、威焔は滅んだ集落を簡単に見て回った。
夜明けを待つ森の中、灯り一つない集落は、静けさだけを湛えてその姿を曝け出していた。
侵入者を阻む結界はない。
立ち並ぶ家々の外壁に、屋根に、無数の戦闘痕が刻まれ、窓や扉は周辺の外壁ごと外から内に向けて破壊されている。
襲撃者の破壊が派手だったのか、それともそれほどの大きさの穴でなければ通れないほどの巨軀だったのか。
住居に足を踏み入れれば、入り口のすぐ傍には弓が落ちていて、壁のフックには矢の入った矢筒が吊り下げられている。
僅かに鼻をつく刺激臭に眉をしかめながら室内に進むと、居間の床に引き千切られたような扉の残骸が散乱し、テーブルや椅子は部屋の隅に転がっている。
室内を照らす魔法の光を反射する銀の刀身に気付き、手に取ってみると、モーリが使っていたものに似た大きさの
刃毀れの跡はあるが血痕はなく、強い刺激臭が嘔吐感を誘う。
(……目眩? この感じは麻痺系の神経毒か?)
ナイフが落ちていた場所に改めて顔を近付けると、目眩の感覚は顕著になる。
刺激臭に混じって漂う甘い香り。
何かの花の香りのようなそれは、刺激臭に邪魔されて判別がつかない。
「まあいい。一旦戻るか」
収穫は少ないが、ユベールと長時間離れるのも危険だと考え、威焔はその場を離れた。
魔力感知で捉え続けているユベールとその周囲に目立った動きはないが、襲撃者――敵のことがほとんど分からない以上、過信は禁物なのだ。
(なんせ知らんことだらけだからなぁ……)
いつかこの世界の一部になれるだろうか。
威焔は歩きながら、脳裏に過ぎった想いに苦笑いを浮かべ、まず目の前の問題を片付けようと表情を引き締め直した。
その後、青褪めていた顔色がやや健康的に回復したユベールと合流し、敵を追跡するための調査を開始した。
威焔はユベールの邪魔をしないように彼の指示に従い、指示が無ければ彼の5歩後ろを維持する。
住居を捜索し、水事場、食糧貯蔵庫、加工場などを回り、長の住居前に辿り着いたところで、初めて
血と糞便の臭い、謎の強い刺激臭が入り混じった臭気が漂うその場所は、周囲の外壁にまで血の飛び散った痕跡が刻まれ、しかし遺体は肉片の一欠片すら残されていない。
何かが燃やされた形跡もなく、骨も残さず綺麗に食い尽くされたような印象を受ける現場だった。
威焔の眼前のユベールは、表情こそ見えないものの、それまでにない緊張が見て取れる。
長の住居は、入り口が何処にあったのかすら分からないほど前面が破壊され、外壁の向こうの部屋の中身を晒け出している。
外から見える部屋という部屋が朱に染まり、この集落で起きた出来事の凄惨さを如実に物語っていた。
二人は無言のまま、地面に突き立った無数の矢を避け、長の住居に足を踏み入れる。
中央の広間は、表の惨状とは対照的に、臭いの他はとても綺麗なものだった。
血の臭いも糞便の臭いもない。
その代わり、刺激臭はとても強く、むせ返るような花の香りが意識を奪い取ろうとする。
湿らせた布で鼻と口を防護していたユベールも、さすがに足元をふらつかせ、外への避難を余儀なくされた。
その後、威焔はユベールに治癒魔法を施し、長の住居内の探索を断念して、本格的な追跡のために集落周辺の調査を求め、何かを掴んだユベールの後に続いて敵の足跡を追うこととなった。
「ユベール様、この臭い、何処かで嗅いだ記憶があるのですが……」
「分からんか?」
「はい」
「いずれ分かる」
ユベールはそれ以降、言葉を発することはなかった。
二人が辿っているのは敵の足跡ではなく、集落のあちこちに漂っていた刺激臭だ。
なんとも形容しがたい、鼻を突く臭い。
その臭いを辿ると、薄っすらと地面を覆う白い雪に刻まれた足跡にもようやく気付くことができた。
鳥の足跡のような形状のそれは、細かく手入れの施された森の中に点々と散らばっているが、二人が辿っている足跡の他からは刺激臭がしない。
黙々と臭いを辿るユベールの背中を威焔が追っていると、3時間ほど歩いた先でユベールの足が止まった。
威焔は周囲を見渡すが、動くものは見当たらず、地形にもこれといった特徴はない。
――地面にぽっかり空いた大きな穴を除けばだが。
「あれですか」
「間違いないだろう。場所は覚えた。一旦戻って報告する」
「ユベール様、その前にお伺いしたいのですが、よろしいですか?」
「……なんだ」
「出入り口ってあれだけだと思います?」
「……恐らくな」
「ありがとうございます。では、集落まではお一人でお戻りください。私はもう少し周辺を探索して、御使い様の到着まで見張りをしておきます」
「それも御使い様の指示か?」
「そうです。徒歩ならばここまで2日といったところでしょうか。ユベール様の健脚ならば半日で集落に辿り着けるでしょう。こちらをお持ちください」
そこまで言って、威焔はずっと腰に下げていた皮袋をユベールに手渡した。
中を覗こうとするユベールの手を止め、決して袋を開かぬようにと釘を刺す。
「私の特製の護符です。材料の関係で開けば獣や魔物を呼び寄せてしまいますが、そのまま持っていれば一度だけ命を護ってくれます。無事に集落に戻れたら、そのまま御使い様にお渡しください。お願いします」
「分かった。後は頼んだぞ」
「承知しました。ユベール様もお気を付けて」
別れ際、威焔はユベールに治癒魔法をもう一度施し、気付かれぬよう物理障壁を彼の周囲に展開させる。
みるみる遠去かる背中が視界から消える直前で障壁を解除し、背後の大穴へと向き直った。
「さて……他に穴がないか確かめておかんとな。一応蓋しとくか」
大穴の周囲16方に印を刻み、4重に物理障壁を重ねて蓋をしてから、周辺の調査を行う。
日が落ちるまで歩いて回るが、他に穴らしい穴は見当たらない。
兎や猪などの冬眠用の穴らしきものはあったが、それらの中に生き物はいなかった。
「穴は無し、飯も無し、か。食わなくてもいいとはいえ、食えないのは寂しいんだよな……」
一人ボヤきながら、陽が沈んで闇に閉ざされ行く森の中を、最初に見つけた大穴まで歩く。
季節は初冬、それもこの時期に積雪するような場所から秋が去った後なのだ。
腹を満たせそうな森の恵みは元より期待できず、さらには食い荒らされた後のように数少ない実りすら見当たらなかった。
魔力さへあれば動き続けられる威焔の腹が空腹を訴えて鳴ることはないが、満たされない心は飢えを嘆いた。
大穴に辿り着く頃、それまで静かに空を覆うだけだった分厚い雲から白い雪が振り落とされ、強風と相まって瞬く間に吹雪へと転じてしまった。
地面を染める白は厚みを増し続け、魔法によって生み出された光を反射しながら暗闇を白に染め尽くさんと猛威を振るう。
吐息は白く煙るが、まだすぐさま凍りつくほど気温は下がっていない。
しかし、集落で与えられた長靴は融けた雪によって水袋に成り下がり、既に膝丈ほども積もった雪と共に威焔の歩みを阻む。
「……穴どこだっけ」
確かここだったはずという場所まで移動して、彼は途方に暮れた。
見渡せど、白。
ただただ白に埋め尽くされた空地がそこにある。
目印になりそうだった小さな山は、白いだけの風景から見つけ出すのが容易ではない。
「……仕方ない」
物理障壁を広域展開して空地を覆って吹雪の侵入を絶ち、その外から中の空間に熱風を踊らせる。
急激に熱せられた内部の空気は爆発的に膨張し、障壁を突き破ろうと出口を探す爆弾と化す。
「あー……閉じてりゃそうなるか。うっかりしてた。どうしよう」
言いながら障壁の向こうの大穴の位置を確認し、距離を取ってから障壁を解除する。
解放された熱風は周囲の雪を融かし、裸の木々の表面を焦がし、数秒だけ吹雪を押し止めた。
「危うく裸で突入するはめになるとこだったな……危ない危ない」
吹き飛ばされてきた雪を手で払って、まだ熱気が漂う空地に歩みを進める。
露わになった大穴、それを塞ぐ4重の物理障壁。
一旦物理障壁を解除し、手早く法陣に紋様を書き加え、大穴に進入してから再度物理障壁を起動させて出入り口を閉ざす。
そとの熱風の影響か、真っ暗な穴の中はじんわりと暑いくらいの熱気が漂っている。
「くあッ……きっつー!」
忘れてたいた刺激臭が鼻だけでなく目にも沁みる。
涙目になりながら、暗い穴の中を暗いまま、魔力感知だけを頼りに、内部の調査のため奥へと進む。
「いずれ分かる、か。さて、何が出るのやら……」
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