一丁目
ヒタ、ヒタと、雪融けの水が地を打つ音が響く。
熱気の冷めやらぬ大穴の入り口、その間際で、威焔は暫し、自分に降り積もった雪が乾くのを待った。
入り口を閉ざす障壁の向こうでは、未だ雪がそのまま辿り着くことができず、中空で雨となっては地を洗い、白い蒸気となって風に吹き払われて消えていく。
足の下の土は、どういう理屈でそうなっているのか、石のような硬さを伝えてくる。
エルフの集落で支給された長靴は、木の靴底を厚めの革で何重にも覆われており、接地する面にも足音を和らげるために同じ工夫が施され、靴底の他の革には手入れ用の油が丁寧に刷り込まれていた。
威焔は敵に気付かれるまではなるべく音も臭いも消しておきたいと考え、一度腰を下ろして靴底の確認をする。
(んー……何とかなるか)
移動の際の負荷で薄くなっているような気はしたが、補修の時間も惜しいので、気にしないことにした。
臭い対策のために物理障壁を全面展開して、擬似的に自分自身をラッピングする。
球形では動きづらく、板状では幅を取る。
自分自身をピッタリと覆うように、調整に調整を重ねて障壁を形成していく。
そこに空気穴は設けず、呼吸に必要な空気の精製は口元に大きめに設けた空隙の中で、魔法で処理することにする。
彼にとって物理障壁の細かい形成は初めての試みだったが、空気の生成と精製は呼吸と同じくらい無意識に行える魔法だ。
新たな試みが意図通りできたのか確かめるため、制止していた腕を大きく動かしてみるが、不具合は確認できない。
その障壁の上にサリィ直伝の隠蔽魔法を上掛けして、視野を確保するために目元だけが開くよう調整すると、準備は整ったと立ち上がり、歩き始めた。
仄暗い洞窟の、より深い闇の中へ。
足音を忍ばせ、手探りで慎重に穴の中を進むと、それまで暗闇だった視界に光が現れた。
すぐさま光に近付くことはせず、暗がりから暫く様子を窺ってみるが、動きはない。
変化らしい変化が全くなかったわけではないが、それまで緩やかな追い風だった空気が向かい風に変わったことくらいだろうか。
障壁越しにも、内部の気温が気持ち下がっているのを威焔は感じていた。
(風……か。気流を感知されるようだと気付かれるよなぁ……なるようにしかならんか。進もう)
未だ分からない敵の姿や能力は、警戒しすぎても身動きが取れなくなる。
最悪の場合は火を焚いて無力化させればいい。
そうした考えもあっての入り口の封鎖でもあった。
気配を殺したまま光に近付いていくと、何事もなくそこに辿り着けてしまう。
光は威焔の身長の倍ほどもある天井に、幾つも埋め込まれた石から放たれていた。
ぼんやりと光るそれは、蝋燭の灯りよりは明るく、エルフの集落で見た魔具の灯りよりは暗い。
光を放つのが石であると判別できる程度の光量で、さながら月明かりのようであった。
その光に照らされて露わになった壁面は、闇の中ではゴツゴツしているとしか分からなかった感触の理由を如実に物語ってくれている。
切り傷のような溝が、無数に、縦横無尽に刻まれ、不思議な模様のようになっているのだ。
それは途切れなく、足場を除く壁と天井とに、見渡す限り続いている。
意味も意図も読み取れないが、先に進めば何らかの法則性が読み取れるかもしれないと考え、注意しながら奥へと進む。
拍子抜けするほど何も起こらず、何者とも遭遇しないまま分岐に到着してしまう。
分岐は平行方向だけではなく垂直方向にも及ぶ三次元構造で、これまでと同程度の大きさの穴、より太い穴、威焔の背丈ほどの穴と、三種類に分かれていた。
より太い穴は縦穴で、灯りが点いているのに底は見えず、高い所が苦手な彼には真っ先にそこに進むという選択は浮かびもしなかった。
(分かる。分かってるよ? たぶんその先にボスがいるとかそういうパターンだよね? でも敵の正体全然掴めてないしさ? もう少し判断材料欲しいよね!)
誰にともなく心中で言い訳を始め、縦穴を避けて細い穴に進もうと決める。
判断材料を得るならこの穴だと勘が告げていたので、本音ではそこも避けたいと思っていた彼だが、何もかも先送りにするわけにもいかないと気持ちを押し留め、分岐の角に目印を刻んで足を踏み入れた。
その穴は、高さも幅も彼の背丈ほど。
奥に進むほど傾斜は急になり、やがて天井の灯りも途切れてしまった。
その先は暗くなってはいるものの闇にまで至ることはなく、それが意味するのは、そこが行き止まりであるという事実だった。
物理障壁で足場を作り、ゆっくりと穴の底まで降りる。
――その時、穴の底で動きがあった。
穴の底、影だと思っていたものの一部が左右に揺れ動き、のっそりと重たげに
威焔はすぐさま元来た穴を引き返して物理障壁で塞ぎ、内部を氷結させる魔法式を構築し、解き放った。
障壁越しに気温が急激に低下したことを感じ取り、背筋を走る悪寒に身震いする。
(あんまり知りたくなかったなぁ……)
思わず苦笑いが浮かぶ。
ユベールが「いずれ分かる」と言葉を濁した気持ちが、彼にも少しだけ理解できた気がした。
分岐側の壁面に物理障壁の魔方陣の紋様を刻んでおき、この場を離れる準備をする。
その上で物理障壁の魔法で一旦入り口を塞ぎ、穴の底に一息に飛び降り、壁から剥がれ落ちて穴底に折り重なった
死骸は全て、巨大な黒い蟻だった。
袋状の行き止まりは、彼らの寝床だったのだろう。
5匹の巨大な蟻が、触覚すら微動だにさせることなく絶命していた。
威焔は魔法の光で照らしながら、その内の1匹の外観をつぶさに観察する。
全高は触覚を含めれば恐らく威焔と同程度。
攻撃的に発達した大きな頭部には、太く鋭い牙のような顎が生え、その奥の口には頑丈そうなもう一揃えの顎が待ち構えている。
子ども程度の大きさならば丸呑みできるだろう。
外殻は細かな産毛に覆われ、光を吸収して照り返すことはない。
6本の脚が生える胸部は大人2人の胴廻りほどの太さがあり、鋭い針を先端に備えた腹部はそれよりふた回り太く、胸部と腹部の間にある瘤のような部位すら大人の胴廻りほどの太さがあった。
脚には関節付近に鋭く太い髭が伸びていて、触れば思いのほか硬く、外殻とほぼ同質のものだろうと思われる。
前脚は先端が細かい動きができるようになっているのか、中脚、後脚よりも先端が長く、可動域も広めで、その動きの自由度の高さを窺わせる。
(さて…………あー…………見たくないなぁ……)
熱くなる目頭を、目蓋を強く閉じることで堪え、刀を持つ手に意識を集中して解体を始める。
外殻の大まかな厚みは、とどめを刺す時に手応えで掴んでいたので、部位によって勘で誤差を計りながら作業を進めた。
解体を終えた後、威焔は込み上げてきた胃液を堪え切れずに吐き出した。
嘔吐したから溢れ出たのか、感情の昂りからか、流れ出る涙が目に沁みて、束の間目蓋を押し上げることができなくなってしまう。
胃液を吐くために開いた物理障壁の隙間から、蟻の体液の刺激臭が鼻と喉とを刺激し、更なる嘔吐を誘って胃液を吐き出させ、爛れた食道の焼ける痛みが落涙をも後押しする。
歯を食いしばり、鬼気迫る形相で無理やり涙と呼吸を止めると、自身を覆う結界内部に新鮮な空気を大量に生み出して刺激臭を追い出し、開いていた障壁の穴を閉じて無臭の空気を貪った。
予想はしていた。
しかし、予想以上に
解体が済んだ蟻から出てきたのは、3種の毒腺と、ぶつ切りでほとんど消化されていないエルフの男性の死骸。
断末魔に歪んだ表情の頭部、その虚ろな目を覗き込んでしまい、そこに刻まれた絶望に呑まれてしまったのだ。
(それでも……待つ者がいるなら、回収せんわけにもいくまいなぁ……)
威焔の胸に、怒りの火は灯らなかった。
絶えず押し寄せる悲しみが思考から熱を奪い、一気に疲れ果てた心は使命感だけが支え、残る4匹の解体とエルフの遺体の回収とに駆り立てる。
一度捌いた蟻の構造は頭の中にしっかりと刻まれ、2匹目以降の解体速度を劇的に向上させた。
一度洗浄した蟻の胃袋に遺体を詰め直し、外側に血文字で番号を書いて、回収を進める。
5匹全ての処理を終えた後は、袋小路から事前に張っておいた物理障壁の前まで胃袋に詰めた遺体を担いで移動し、再度洗浄して通路側へ進んでから、魔方陣の物理障壁で封をする。
それから来た道を引き返し、大穴の入り口付近の左右の壁際に胃袋を積み上げ、その手前に物理障壁の魔方陣を形成、発動させて作業の完了という手順と決めた。
一連の作業は一昼夜休みなく続けられ、全ての細い通路の処理を終えた時点で、200を越える胃袋と70人分前後――エルフの集落の許容限界人数の半数近くの遺体の回収が完了した。
途中、最初に確認した縦穴よりやや細い横穴が20ほど存在することを確認している。
次の目標をそれらに定め、重く沈む心を引き摺るように威焔は動き始めた。
大穴の入り口を塞ぐ障壁は厚い雪に閉ざされ、外の光が差し込むことはなくなっていた。
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