森の使者と救済の怒号
マルセリーは怒っていた。
昨夜、行き先も告げずに出て行った男のことを。
彼には彼の物というものがほとんどなく、何処かに行こうと思えば身一つで海を渡ってしまうことも可能だろう。
彼の数少ない財産である曲刀は、彼と共に消えていた。
(ほんっとにもう……置いて行かれる身にもなれバカヤロー!!)
大声を出すわけにもいかず、心の中だけで怒鳴ったつもりのマルセリーは、しかし意図せずして踏んでしまった地団駄で激しい靴音を響かせてしまい、自分で出した音に自分で驚き、声を挙げてしまった。
「お姉様、どうされました?」
ベッドの上で半身を起こしたモーリから不安げな声が発せられ、なんでもないと答えたものの、彼女の顔から悲哀が消える様子はない。
「私が不甲斐ないせいで……申し訳ありません……」
「そうね、モリちゃんにも悪いところはあったわね」
「はい……」
「森に引きこもって一生やり過ごせばいいだけの奴らと違って、モリちゃんは外の世界の者と穏便に関わらなきゃいけないの。それも森の使者の仕事。心の中でどう思っててもいいけど、それを外に出してはいけないの。そのために色んな種族の礼儀作法を教えられたのよ。そこは直した方がいいわ」
マルセリーの言葉は終始柔らかく、教え説くように穏やかな音律で紡ぎ出される。
そこに責める色などなかったが、かえってモーリは自分が犯した過ちを浮き彫りにされ、募った罪悪感は顔を俯かせた。
「他は全部イエンちゃんが悪い!」
「ごめ……え?」
急に放たれた語気の強い断言に思わず身震いし、反射的に謝まろうとしたモーリは、その言葉の意味を理解しかねて問い返してしまった。
「私たちに相談もなく長を騙して一人で出て行くし、モリちゃん傷付けといてフォローは私に押し付けて逃げるし、だいたい脅す必要なんかないのにモリちゃん追い詰めるから怪我したんじゃない……あのバカ!」
あらぬ方向に放たれる文句は、出足こそ音量は抑えられていたものの、徐々に声は大きくなり、最後の罵声は家を震わせるほどの怒気が込められていた。
マルセリーの豹変に理解が追いつかず、モーリは毛布を抱きしめて布団の上で怯えている。
「だからモリちゃんは悪くないのよ! いい!?」
「ハイ! ……はい」
反射的に張りのある声で返事を一つ、消え入りそうな声で返事をもう一つ。
唐突に湧き上がってきた涙を、腕の中の毛布に染み込ませて、モーリは声を挙げて泣き始めた。
慌てたマルセリーが駆け寄って謝ると、モーリは首を横に振り、マルセリーにしがみ付いて泣き伏す。
その声は叱られた子どものようで、その顔は憑き物が落ちたかのように柔らかで、流れ落ちる涙が緊張を洗い流して行くかのようにも見える。
モーリの変化に安堵の吐息を一つ吐き出して、彼女が落ち着くまでの間、マルセリーは短い金の髪を労わるように撫でて過ごした。
その日、長からの使いが扉を叩いたのは二回。
朝食の後と、夕食の後。
二度目の呼び出しに応じてモーリとマルセリーが長の住居へと歩いていると、集落を護る結界の外、夜の闇に包まれた森は、吹雪によって降り積もった雪の壁が築かれつつあるのが見て取れた。
壁は山側ほど高く、内陸部側がやや低い。
手の中の魔具の光では、結界間際で風に揺れる枝しか見えず、他は吹き荒ぶ白に塗り込められてしまっている。
森で迷わないエルフにとって、吹雪だから森に入れないということにはならない。
まして、直面している問題への対処は急を要するものであり、聖地から直々の命令でもある以上、準備が整い次第、現地に向かわなければいけない。
予想より一日早い呼び出しとこの天候が吉と出るか凶と出るか、緊張と不安が二人の胸に去来する。
長の家、その応接室に招き入れられる。
応接室は食堂も兼ねていて、室内には10脚の椅子と、その椅子を側面に並べて収め得る長テーブルが一つ置かれている。
そこには長の他に4人の先客がいた。
この集落の東、南、西に位置する集落からの代理人と、威焔と共に先行して調査に出ていたユベールだ。
近隣では最北に位置する壊滅した集落の以北には集落は存在しないため、聖地が指名した調査隊はこの集落を含めた4つの集落ということになるのだろう。
マルセリーは威焔の姿がないことに一抹の不安を抱きながら、長の案内に従ってモーリと共に席に着いた。
上座にモーリ、その隣にマルセリーが座り、それに対面する形で長と代理人3人、最も入り口に近い下座にユベールが座る。
長と代理人たちの席順は、聖地に近い、より古い集落からという序列に従い、上座から順にこの集落の長、西の集落の代理人、東の集落の代理人、南の集落の代理人と並ぶ。
席に着いたモーリが一堂を見渡し、長に一つ頷くと、長の進行で会議が進められた。
最初に参加者の紹介が手短に行われ、聖地からの指令の確認と、モーリが依頼していた問い合わせの内容、それに対する聖地の回答が説明される。
「聖地から御使い様の問いに対する答えですが、調査に当たる集落は今現在この席に座る4つの集落で、その指揮は御使い様が行うようにとのことです。
各代理人より頂いたお話によりますと、何事もなければ明日中に揃うとのこと。現在吹雪に見舞われておりますので延着も考えられます。
御使い様におかれましては、各集落の者に半日でも休息のご配慮をいただければ幸いと存じます」
「承知しました。考慮します。長殿、聖地から他には?」
「はい。攻撃のための集落は指名が済んでおり、集合場所は壊滅した集落の付近が予定されているそうです。
集合予定日は6日後、総指揮者は聖地から派遣されるとのことで、本隊結成が完了した後は御使い様も調査部隊を率いてその指揮下に合流するようにと。
調査については可能な限り情報の収集に当たること、その上で対応可能だと判断すれば、本隊の到着を待たずに敵を殲滅せよとのお達しです」
「了解した。長殿、感謝する」
「では次に、御使い様の命で当集落から調査に先遣させたユベールからの報告を聞こうかと思いますが、御使い様、この場で報告させてよろしいでしょうか?」
「ふむ。ユベール殿、どう思われる?」
「ハッ! 何も問題はないと思われます!」
「ではお願いします」
「承知いたしました。ではユベールよ」
「はい。お客人、マルセリー様の従者と北の集落の調査を行いました。結界は最初の告知にあったように喪失、現地の調査で結界の紋様が破壊されていたことをこの目で確認しました」
ユベールの言葉に衝撃を受けたのか、代理人たちから動揺の声が上がる。
集落を護る結界が導入されて以降、その紋様が破壊されたことなどなかったのだ。
結界の発動は結界内部から行われ、結界への侵入は事実上不可能だと思われていたし、鳥などが集団で移動する際に結界内部へ紛れ込んでしまうことは度々起こっていたが、その鳥が結界から出て行くことまではできたことがないので問題視されたこともなかった。
何より、成人したエルフは全員が現役の戦士なのだ。
そんな戦士の集団を攻略できるような存在が、結界に侵入できるほど大量に押し寄せ、紋様を破壊できるほどの知性を備えているなど、誰も予想していなかった。
「御使い様、このことは……」
「分かっています。結界の紋様が破壊された事実については、今はこの場に居合わせた者……と、代理人殿たちはその長までで留めておくこと。以降については、聖地に報告して判断を委ねます」
モーリの言葉に、それぞれが了承の意を告げる。
不揃いな返事を全て聴き終えてから一つ頷き、モーリはユベールに報告の続きを催促した。
「続きまして、集落内の痕跡から、襲撃は朝から昼までの間に開始されたと予想されます。
集落外縁近辺の住居は交戦の痕跡がほとんど見られず、その様子から予想される敵の数は少なくとも100以を越えるかと。
襲撃を察知した生存者は長の住居に集結して抵抗したものと思われます。
長の住居の入り口付近には多数の血痕が残されており、少なくとも10名以上がその場で死亡。
未確認箇所も多数ありますが、私が確認した範囲ではその場所の他に血痕は見当たりませんでした。
敵の移動の痕跡を追跡することができましたのでこれを追ったところ、敵の本拠地と思われる洞穴を発見しましたが、敵影は確認できておりません。
集落内の住居などの破壊痕や集落外部に残されていた足跡から、敵は未知の魔物である可能性が高いと思われます。
各地に残された特徴的な臭気から、大型の蟻の魔物であると推測しています。
他種族の介入の有無は不明。
現在、洞穴はマルセリー様の従者が見張っております。
報告は以上です。
それとは別にもう一点……」
淡々と報告を終えたユベールは立ち上がり、モーリの元まで歩いて跪くと、腰に提げていた皮袋を外してモーリに差し出した。
「従者より預かったものでございます。無事到着した後には御使い様に渡すようにと」
「感謝する。中を検めても?」
「本人はそれを特製の御守りだと申しておりました。持っていれば道中一度だけ私の身を守ると。素材の都合で開封すれば獣などを呼び寄せてしまうので、道中はくれぐれも開かぬようにとも伺っております。しかしここは集落内部、ご判断は御使い様にお任せします」
モーリは判断に悩んだ。
相手は威焔だ。
自分に渡すようにと伝えたのは、そう言わなければこれがマルセリーの手元に届かないと考えたからかもしれないと、そう思ってしまったのだ。
獣を呼び寄せてしまう素材といえば血生臭いものにしか想像が及ばず、あまり良い予感はしない。
結局、中を確認するのが怖くなり、部屋に戻った後にマルセリーと二人で確認しようと決めた。
「ありがとう。後で確認させていただく」
「ハッ!」
ユベールは自分の用件は済んだと、そのまま扉の向こうへ消えていく。
応接室に残った6人は、それまで発言する機会のなかったマルセリーや代理人も交え、今後の行動についての会議が明け方まで続いた。
外の吹雪は勢いを衰えさせることなく、深々と森を塗り潰し続けていた。
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