胃液の味
ひた、ひたと、足音が木霊する。
吐息は白く濁り、身を切るような冷気は肌を粟立たせる。
眠るように静まり返る洞窟の奥深くで、なお拡げ続ける役目を負った土色の蟻たちは、一冬の眠りを永遠に換えて、地に顔を埋めた。
その表情は苦悶か、はたまた安らぎか。
一度開かれた腹は丁寧に閉じ合わされたが、瞼を持たない複眼は見開かれたまま、何を語ることもなく、光を失っている。
その腹から出てきたのは、土、土、土だった。
白い指の一本、赤い肉の一欠片すら出てくることはなく、彼らが土だけを喰らい、土だけに塗れて生きていたことを雄弁に物語っている。
彼がそれを知ってからは、目につく穴という穴、その奥に眠る土色の蟻たちに、粛々と永遠の眠りが与えられた。
静かに、丁寧に、熱を奪われて凍りつく。
やがて大きく開けた場所に辿り着くと、驚愕からか、強者の余裕からか、問いの声が投げかけられる。
「貴様、何者だ」
空を震わせ耳に届いたその音に、彼はなんとも複雑な表情を浮かべ、口元に苦笑いを貼り付けた。
「人ならざる者には人扱いされるってなあ、何とも複雑な気分になるもんだね」
大きく黒いキメラの獅子の顔が斜めに傾けられ、口元の髭がゆらゆらと揺れる。
「問いに答えよ。ここは王の御前。次に礼を欠けば殺す」
「礼を欠かなければ生きて返してもらえんのかい?」
「王のお気持ち次第だ」
「なるほど。じゃあ真摯に答えよう」
丸腰の状態で、構えることもなく、無防備に彼はキメラ
羽を持つ7体のキメラと、羽のないやや小柄なキメラ、合わせて8体の巨軀の足元まで進んでも、彼らは全身に余裕を漂わせてそれを迎え入れた。
「私は鬼。エルフに
にこやかに言い終えるや、優雅な所作で丁寧にお辞儀をしてみせた。
8つの哄笑が広間を揺らす。
眼は蟻のそれであり、そこに表情は生まれないが、ネコ科の口元には侮蔑と嘲笑が如実に浮かぶ。
「王よ、如何いたしましょう?」
「少し遊んでやるがよい」
心底愉快だとでも言うかのように、茶番劇が繰り広げられる。
所作は大仰、声音は悠長。
誰も彼もが道化を演じて楽しんで、眼下の玩具を品定めしながら、どのように嬲って遊ぼうかと目配せし合う。
それを眺める鬼もにこにこと終始笑みを貼り付け、視界の外から迫ったキメラの槍を身を低くして躱すと、鋭く一言だけ言い放つ。
「王手」
次の瞬間、王と呼ばれた羽のないキメラの足元で、大輪の花が咲いた。
さながら水晶の
――とは言え、彼らの体液は無色であるが故に、染まる色などなかったのだけれども。
「おのれ! よくも王を!」
鈍い羽音が響き、長大な槍が鬼に迫る。
「カアッ!!」
硬く握られた拳が槍の芯を迎え撃ち、身の丈からは想像も及ばぬ剛力でそれを粉砕する。
迎え撃った彼の右腕も弾け散ったが意に介さず、宙空で腕を振り抜いた姿勢のキメラに踊りかかり、左腕を漆黒の胸板に押し当てた。
「破ッッ!!」
獅子の体躯、その背が、その内に納める臓腑もろとも外へと弾け飛ぶ。
残るキメラはそれを好機と捉え、3体は宙空から、羽を欠いた3体は地上から、6本の槍で襲いかかる。
矮小な鬼に対し、それを貫くにはあまりにも太すぎるそれらの槍は、槍同士が一度もかち合うことなのない絶妙のタイミング、瞬きの速度で繰り出された。
6の鋭い刺突は、たった一音の空を打つ音声となって広場の空気を激しく揺さぶる。
半瞬遅れて響く、壁を打つ濡れた音。
壁に貼り付けられた鬼の下半身は、千切れて落ちた上半身を追うようにして、壁から剥がれて地に落ちた。
キメラたちはそれで良しとはせず、宙を舞う3体が肉塊を追い、磨り潰すように追撃を見舞う。
手元に引くことなく打ち抜かれた槍は、槍身を深々と地に埋め、鬼がそこにあった痕跡を消し去った。
ただ一つ、額に角を戴く頭だけを残して。
「クソッタレが!!」
キメラの巨軀から力任せに放たれた槍が、その頭をも射抜く――ことはなかった。
軌道を逸らされて壁に突き刺さった槍の影から、裸の鬼が姿を現す。
その両脇には、穂先を真っ赤に染めた21の槍が獲物を求めて惑い、キメラたちの姿を捉えると、嬉々として襲いかかった。
音速の壁を刺し貫く音が響くより前に、宙空の3体のキメラの獅子を象る部分が搔き消える。
羽を欠いた3体のキメラたちは、事態を飲み込めずにその場で凍りつく。
「……見様見真似だが、使い方は分かった。次はもっと上手く狙ってやろう。なに、案ずることはない。気付いた時には死んでるさ……たぶんな」
鬼の周囲の土から再び槍が生み出され、穂先を赤く染め上げながら獲物を狙う。
「ま、待ぶぇッ」
キメラが言い終えることを許さず、槍が唸る。
超音速で放たれた槍身に、肉はおろか体液すら触れることは適わず、槍の先端に押し出される空気、穂先に切り裂かれて生まれた衝撃波とによって、キメラの上体は細切れに吹き飛ばされてしまう。
「おのれ……よくも王を! 兄弟たちを!」
取り残された最後のキメラが、失った槍の代わりに拳を武器にして、鬼に殴りかかる。
彼の腕の長さでは、小さな鬼と巨大なキメラの身長差を埋めることはできず、必然、上体は地を這うような姿勢を強いられた。
身を屈めて振るわれた拳を、鬼は間合いを詰めてやり過ごし、お返しにと鼻先に小さな拳を見舞う。
「ふぐぉ!?」
理に適わない不自然に重い一撃にキメラは体液を撒き散らしながら仰け反った。
「ど……っせえい!!」
「ぐぎゃあ!」
鬼の手刀が宙を切って流れた右腕の外郭を貫き、引き千切り、覆われていた筋肉ごと二の腕から先の機能を奪う。
「うううるぁああああああ!!」
「……ッ!!」
残された左腕もまた、右腕と同じ末路を辿る。
「クッソ! クソッタレ! ああッ! 俺の腕が!」
上体を揺さぶり、キメラが痛みに悶える。
その鬣が鬼に捕まり、力任せに地面に叩きつけられた。
キメラの叫びが洞窟内に木霊する。
「少し訊きたいことがある」
「誰グウッ!」
下顎を打ち抜く蹴りによって悪態は中途で断たれた。
「俺たちが何をした! なぜこんな仕打ちを受けねばならん!」
「おまえらはエルフを殺した」
「生きるために殺して食うのは当たり前だろう!」
「エルフを生かすために俺はおまえらを殺す」
「俺たちは好きでこんな場所に生まれたわけじゃない! 王だって、好きでこんな場所に来たわけじゃない!突然闇に呑まれ、家族から引き離されて……王はたった一人でこの地に飛ばされたんだ!」
「そうか。殺した相手が悪かったな。諦めろ」
「チクショウ……俺たちが……王が何をしたってんだ……」
「……もういい。眠れ」
「オグッ……」
最後のキメラが頭蓋を粉砕されて息絶えると、鬼は千鳥足で壁際まで歩き、壁に手を着いて吐いた。
3日飲まず食わずの胃からは胃液しか出なかったが、ただただ吐き続けた。
「あー……胸糞わりい……せめて、ちゃんと……ひと思いに殺してやるべきだった」
愚痴まで吐き切ると、どっかりと座り込み、重い溜息を溢す。
割り切れない感情が胸を焼き、飲み下せない同情が嘔吐感を招く。
「はあ……まあいいか、慣れるよりは。
そう呟いて、威焔は壁に背を預けた。
死ねない鬼の異世界道中 nomaD @nomad_elst
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